「デニーズ南青山店」青山のランドマークがまたひとつ消えた
- 2024/02/20
呼び起こされる80年代の記憶
青山通りを東へ進むと、まもなく、よく目立つ亜麻色の建物が見えてくる。カーナビがなかった時代、南青山 3 丁目交差点に建つベルコモンズは、クルマで都内を走り慣れない者にとって格好のランドマークだった。
青山ベルコモンズは、1976年(昭和51年)に完成したショッピングビル。開店当時は高級ブランドがいっぱい入店してにぎわったものだが、バブル景気が終焉した頃に親会社が倒産。その跡地はいま THE AOYAMA GRAND HOTEL になっている。ランドマークが消えた交差点の眺め。昔を知る者は多少の違和感を覚えてしまう。
ベルコモンズの前で交差する外苑西通りもまた、バブル期の頃は道沿いにあるデザイナーズブランドの店やイタ飯屋がマスコミに紹介されることが多く、〝青山キラー通り〟の別称を当時はよく耳にしたものだ。
通り沿いにブティックを開店したデザイナーのコシノ・ジュンコが、青山墓地に面した場所だったことから案内状に「キラー通り」と書いたことが名の由来だとか。しかし、いまはその名もあまり聞かなくなった。存在感がすっかり薄れた感がある。
ベルコモンズ、キラー通りとくれば……もうひとつ、80年代の記憶を呼び起こすワードがこの界隈にはある。デニーズ南青山店。〝青山デニーズ〟〝青デニ〟とか呼ばれていた。この言葉もまた懐かしい。
青山一丁目交差点を右に折れ、国道319号線を六本木方面へ。クルマの流れがいきなりスムーズになる。道の両側に繁る街路樹の緑が、青山通りの渋滞に苛立っていた心を和ませてくれる。
信号はほとんどなく、また、墓地に沿った道沿いには店舗もまばら。通行人はほとんど見かけない。東京のど真ん中とは思えない眺め。
夜ともなればかなり暗い道沿いに、やがてぽっかりと光に浮かぶ看板が見えてくる。いや、「あった」という過去形のほうが正しい。照明が照らされた「Denny`s」の看板が消えたのは、2023年3月23日のこと。この日をもってデニーズ南青山店は閉店している。
今時はファミレスの閉店など珍しくない。巷では話題にはならなかった。チェーン店なだけに、同じ内装で同じメニューの店は都内や近郊にいっぱいあるけど、しかし、ここは他の店とは違う特別な存在だった。50歳を過ぎた年代には、この感情を共有できる人も多いと思う。
ファミレスなんだけど〝特別な場所〟!?
バブル期は現在ほどにはコイン駐車場が都心部になく、クルマを停める場所を探すのに苦労した。また、1時間の駐車料金が1000円を越えるのもざらで腰が引ける。だから、食事をすればタダでクルマを停めておける〝青山デニーズ〟はありがたい存在だった。この近辺には撮影スタジオやフィルム現像のラボが多く、店内にはプロのカメラマンやモデルっぽい感じの人をよく見かける。カーディガンを〝プロデューサー巻き〟にして肩からかけた業界人風な人々もちらほら。家族連れでにぎわう郊外のファミレスとは違った独特の雰囲気が店内に漂っていた。
24時間営業だったこともあり、週末の深夜には駐車場待ちのクルマで行列ができる。やっと入れた駐車場には高級外車がいっぱい。国産車で入るのは、なんか気が引ける。けど、ここで臆してはいけない。気合いを入れて駐車場から店内へとつづく階段を登る。
にこやかに出迎える店員に、余裕の表情を繕いながら人数を告げて席へ案内される。地方出身者の田舎者と悟られぬよう、業界人や港区セレブな他の客たちに同化しようと……服装チェックのあるディスコに入る時と、少し似た心境だったろうか。
ここでファミレスの歴史にふれてみる。諸説あるけど、1970年にオープンした「スカイラーク国立店」が、日本におけるファミレスの発祥だといわれる。広い駐車場を完備し、24時間営業で様々な料理を低価格で提供する。コーヒーは何杯でもおかわり自由。と、アメリカの郊外でよく見かける「Diner(ダイナー)」を参考にしたものだったという。
外国がまだ遠かった時代、アメリカを身近に感じられる雰囲気に魅了される人も多かったのだろうか。ファミレスが物珍しい時代にはまだ、どこの店に行っても特別な場所って感じはあったのかもしれない。
当時の外食産業の市場規模は現在の10分の1程度。子供と一緒に入れるようなレストランは少なく、家族連れにはありがたい。たちまち都市圏郊外の幹線道路に各ファミレスのチェーン店が増殖する。当初は〝カジュアルレストラン〟と呼ばれていたようだが、やがて〝ファミリーレストラン〟と呼び名も変わる。そうなると「特別な場所」といった感じは薄れてくる。
80年代になると、ファミレスはすっかり日本に定着する。ハンバーガーショップやフライドチキンなどと同じで、郊外の幹線道路を走っていると、あちこちにファミレス各店舗の看板が目に入るようになっていた。
そんな頃にデニーズ南青山店はオープンしている。バブル景気が起こる直前、1985年のことだった。この頃から青山界隈は、オシャレなイタ飯や高級なフランス料理店も次々に開店するようになる。その都度にマスコミで話題にもなった。が、それ以上に青山デニーズには存在感があった。
これが郊外にあるのと同じファミレスなら、もはや珍しくもない。誰も興味を抱かないはずなのだが、青山という場所だと話は違ってくる。客層が違うし、駐車場にならぶクルマの車種も違う。
そうなると、同じ内装のチェーン店でも、ふだん見慣れた郊外の店とは雰囲気がまったく違ってくる。
微かな名残がまだそこに……
そういえば、私がティラミスをはじめて食べたのも、この青山デニーズだったと記憶している。昭和時代が終わる直前の頃、80年代最末期だった。すでにティラミスがメニューにあるイタリア料理店はあったけど、それが世間一般で知られるのは平成時代の1990年になってから。女性誌で取り上げられたのを切っ掛けに、近年のタピオカみたいな感じの一大ブームが巻き起こった。
数年前からそれを先取りするあたり、さすが青山デニーズ……いや、冷静に考えてみればチェーン店なのだからメニューは全国どこも同じ。だが、埼玉や千葉のデニーズで食べたのでは〝初ティラミス〟の味わいも違っていただろう。
南青山デニーズには、駐車場の上に張りだした 3〜4席の小さなテラス席があった。ここから新緑の街路樹を眺めてティラミスを味わえば、なんか、ヨーロッパのカフェみたいな感じも少しあり。そういった場所は、80年代の東京ではまだ希少。いまのように、街中どこでもカフェテラスを見かける時代じゃない。
等々と、色々と思い出は尽きない。最近では青山デニーズに行く機会も少なくなり、ほとんど忘れていたのだが。無くなったことを知った時には、
「思い出がまたひとつ消えたなぁ」
と、一抹の寂しさが胸をよぎった。スクラップ&ビルドの効率化重視な日本の都市に住む私たちは、この後もそんな思いを幾度も味わされるだろう。
閉店を知って青山デニーズがあった場所に行ってみると、すでに建物は取り壊されて跡地は工事現場の柵で囲われていた。
あたりを見渡してみれば、歩道を下げて車道との段差を解消した箇所がみつかる。駐車場に入るスロープが青山デニーズ健在だった当時のままに残っていた。そこだけ横断防止柵が取り払われ、歩道側の自転車走行帯には白い停止線が引かれている。
それが、唯一確認できた残香。あとは何もない。跡地をぐるりと一周してみたのだが、工事現場の柵に囲まれて中を見ることはできず。柵の付近には雑草が生い茂り、荒涼とした感が寂しい気分を増幅させる。
青山デニーズ跡地と小道を挟んだ裏手も広い空地になっていて、同様に工事現場の柵で囲われていた。また、隣の駐車場も閉鎖されている。
何か大きな再開発工事が始まりそうな予兆。おそらく数年後は、この界隈の眺めはまったく違ったものになっているはず。青山デニーズがあった場所はどこか?次に来た時には、それさえも分からなくなっているだろう。たぶん。
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