「万人恐怖の世」の時代…くじ引き将軍・足利義教の専制的な強権政治はこうして行われた

足利義教像(妙興寺蔵、重要文化財 出典:wikipedia)
足利義教像(妙興寺蔵、重要文化財 出典:wikipedia)

室町幕府の誕生から足利義量まで

 建武3年(1336)、足利尊氏は室町幕府を樹立した。しかし、その後も南朝との抗争が続き、ようやく終結したのは足利義満の時代になった明徳3年(1392)のことである。相前後して、義満は有力守護の排除に乗り出し、複数の守護を兼ねていた山名氏、大内氏の勢力を削ぐことに成功した(明徳の乱、応永の乱)。

 こうして義満は室町幕府の黄金時代を築き上げたが、応永15年(1408)に亡くなった。義満の後継者として、4代将軍に就任したのが義持である。義持は、父 義満が後継者を決定せずに亡くなったため、幕府の重臣 斯波義将(しば よしゆき)の判断によって家督継承が決定したという経緯があった。

 義持は父の義満との折り合いが悪かったので、その政策を否定したといわれている。しかし、その専制的な志向は父から継続し、室町幕府の最盛期を維持したのである。応永30年(1423)、義持は将軍職を子の義量(よしかず)に譲ったが、義量は健康を害し、わずか2年後にこの世を去った。

 そのような事情から義持は、将軍に復帰したのである。ところが、応永35年(1428)正月、義持は風呂場で尻の疵を掻き破ったことが原因で病に伏し、重篤の状態に陥った。当時は衛生状態が良くなかったので、ちょっとした不注意が致命傷になったのだ。

足利義持像(神護寺蔵、出典:wikipedia)
足利義持像(神護寺蔵、出典:wikipedia)

義持死後の後継者問題

 ここで大問題となったのは、義持が後継の将軍を指名していなかったことだった。幕府の重臣たちは、こぞって死の間際の義持に後継者の指名を懇願したが、ついに決めることなく、義持はこの世を去った。

 義持が将軍の後継者を決定しなかった理由には、大きく次の2つをあげることができる。

(1)候補者である義持の弟らは、将軍の器でないということ。
(2)たとえ後継者を決定しても、重臣らが支えなければ、意味がないこと。

 この頃には、将軍に限らず守護でさえも、重臣からの支持が得られなければ、就任が難しい状況になっていた。逆にいえば、重臣らの掌中に後継者の決定権があったのだ。義持の将軍後継者問題は、その典型例と言えるのである。

 重臣らは自らが候補者を選ぶことなく、醍醐寺三宝院の僧侶 満済の助言に従い、籤(くじ)により後継者を決定することにした。籤で選んだ理由は、重臣らが義持の後継者を選んだとしても、揉める可能性があったからである。

 現代人の感覚で、籤で選ぶと聞けば、大変いい加減な印象を受ける。ただ、当時にあっては、裁判であっても「神慮に委ねる」ことがあり、籤も同じことだった。むしろ、籤で選ぶことは、崇高な儀式だったのである。

 新将軍の候補者は、のちの義教こと青蓮院義円(義教)をはじめとする義満の子息4名だった。当時、義円は出家しており、青蓮院に入室していたのである。籤引きは石清水八幡宮で厳重に執り行われ、その結果選ばれたのが、青蓮院義円(義教)だった。義教が将軍になったことは、その後の政治動向にも大きな影響をもたらすことになった。

※参考:足利尊氏から連なる将軍家と鎌倉公方家の略系図(戦国ヒストリー編集部作成)
※参考:足利尊氏から連なる将軍家と鎌倉公方家の略系図(戦国ヒストリー編集部作成)

鎌倉公方の討伐

 当初、義教は法体で頭髪が生え揃っておらず、即座に朝廷から将軍宣下を与えられなかったので、正式な将軍になるには、多少の時間を要した。こうしたことが、義教を疑心暗鬼に駆り立て、暗い陰を落とした可能性もあろう。

 当時、室町幕府が後南朝(ごなんちょう)とともに、その対処に悩まされたのが、東国統治機関として置いた鎌倉府である。幕府と鎌倉府とは、既に対立する関係にあったが、永享年間に至って鎌倉公方の足利持氏の子が将軍の偏諱(へんき)を受けないという、反抗的な態度を示したのである。偏諱とは、この場合は義教の一字「教」が与えられることを意味する。

 持氏自身は義持から「持」の字を与えられていたが、子が元服する際には、義教の「教」の字を採らず、義久と名乗らせた。しかも、持氏は関東管領の上杉憲実(うえすぎ のりざね)との折り合いがよくなく、さらに事態を悪化させたのである。

 この報に接した義教は激怒し、直ちに今川・武田・小笠原の各氏に持氏の討伐を命じた。世に言う永享の乱である。結局、持氏は降参し、永享11年(1439)に武蔵国金沢称名寺で出家した。しかし、義教はこれを許さず、上杉憲実に命じて持氏を自害させたのである。鎌倉公方が滅亡したことにより、さらに幕府の威勢が高まったのである。

「万人恐怖の世」と義教の専制志向

 これ以前から義教の恐怖政治は、武家・公家を問わず、大変恐れられていた。公家の例で言えば、足利家と深いつながりを有していた日野氏でさえも、その所領を取り上げられそうになっている。些細な不手際から流罪や死罪を命じられたものは、身分の貴賎を問わず、200名を超えたといわれている。

 武家の例についても、悲惨な目に遭った人々の例は豊富である。永享12年(1440)の大和国越智氏討伐では、一色義貫と土岐持頼が謀殺された。中でも一色義貫は、三河など三ヶ国の守護職を兼ね、また山城国守護・侍所頭人を勤めるなど、幕府の重鎮でもあった。義教は一色氏らを討った後、その守護職を近習である武田信栄らに与えている。

 また、義教は義持が重臣らの意見を尊重したのに対し、専制的な志向を強めていった。たとえば、評定衆・引付頭人を設置することにより、管領の地位権限を抑制したのである。さらに、訴訟受理の権限を将軍が独占し、御前沙汰と呼ばれるように、政務決済を掌握したことにも大きな意味があった。

 このように義教は、専制的な性格を持つ政権を目指した。その一種「独裁」とも言える義教の政権は、恐怖政治と称されていた。同時代に生きた『看聞日記』の記主である伏見宮貞成親王は、これを「万人恐怖」と呼んで恐れている。このように人々を圧迫し追い詰める手法は、来る嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱の導火線になったといえよう。

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  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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