室町幕府三代将軍・足利義満が天皇の地位を狙っていた、という疑惑の内容とは?

 室町幕府第3代将軍・足利義満には、「皇位簒奪計画(こういさんだつけいかく、王位簒奪計画とも)」なるものがあると言われています。征夷大将軍になるのみならず、武家では平清盛以来となる太政大臣に昇った義満が、「天皇の位をも狙っていた」とする学説が、平成初期頃まで提唱されていました。

 要するに義満が ”天皇になる野望” を持っていたというお話ですね。現在の学会では明確に否定されているものの、一般的にはまだ有名で、足利義満のイメージを形作っている説の一つでもあるようです。

 そこで今回は、義満のどんな行動が「皇位簒奪計画」と見なされ、現在ではそれがどう解釈されているのか解説します。

皇位簒奪計画とは

 皇位簒奪計画は、晩年の足利義満が、後小松天皇の父親格として振舞っていると見なし、後小松天皇を廃位して、自らの息子・義嗣を天皇位に就けようとした、と考える説です。

 古くは田中義成氏の『足利時代史』(明治書院、1924年)で提唱され、近年では今谷明氏の『室町の王権』(中公新書、1990年)が話題になりました。もちろん両氏ともきちんとした歴史学者です。むしろ、歴史学者ですらセンセーショナルな説を唱えたくなるほど、義満の行動が誤解を招くようなものだったとも言えるでしょう。それほど義満の行動は当時の常識では規格外なものでした。

疑惑その1:「日本国王」を名乗る

 応永9年(1402)に義満は明と貿易を開始します。当時の明は鎖国中で、明に臣従する国としか貿易をしませんでした。そのため明は、貿易を望む義満を「日本国王」に任命し、明に従う国として朝貢貿易をすることとなりました。

 「皇位簒奪計画」説によると、義満の「日本国王」の任命は義満が望んだことであり、天皇と同等以上の地位(国王)になることを目的としているそうです。

 このとき既に、義満は征夷大将軍を辞して出家していましたが、出家すること自体が彼を臣下の地位に縛っていた俗世の官位を超越するための手段だとの事です。

この疑惑に対する反論

 まず、「日本国王」号は明側の手違いのようです。通常、明は相手国の国王の手紙しか受け入れないので、義満の手紙が受け入れられる事自体が奇妙です。

 しかし、当時の明は混乱の時代にありました。明の第2代皇帝である建文帝(けんぶんてい)は、叔父・朱棣(のちの永楽帝)の反乱に遭い、通常の組織が機能していない状態だったそうです。そこに義満の使者が来たわけですが、どうもこの使者は義満を皇族の一人と勘違いしたようです。

 当時の手紙を見ると、義満は「日本国准三后源道義」と名乗っており、この「准三后」を誤読したのでは?と言われています。「准三后」は太皇太后・皇太后・皇后の三后に準じた格式で扱う、という、臣下最大の栄誉です。義満もこれを永徳3年(1383)に与えられていました。

 残念ながら、この位は日本独自のもので、明にはありません。字面から見れば、皇后など皇族を連想させるので、義満を日本の皇族と勘違いしたのかもしれません。

 また、義満自身も、明から受けた「日本国王」号を代々的にアピールしてはいません。もし義満が「日本国王」に任命されて皇位簒奪を企てるのであれば、それを国内にもアピールするはずです。明の使いが来た時も、それこそ「我こそは明帝国から任命された正統な日本国王なり」とアピールするはずですが、どうもそうではないようです。

 応永9年(1402)9月5日、明使が来た時の記録『宋朝僧捧返牒記』によると、当日の会場は義満の私的行事を行う北山第(鹿苑寺金閣)で、儀式次第も明使に対して尊大に接し、むしろ「明が贈り物を持ってきた」程度の扱いだったそう。明帝国から「日本国王」に任命されたのを恭しく受け取る、といった状況ではないそうです。

 その後も義満が国内向けに「日本国王」号を使用していないことからも、義満が「日本国王」号を望んでいたことや、それをもとに皇位簒奪を企てたとするのは難しいと思われます。

疑惑その2:妻を天皇の准母にし、息子を親王格で元服

 応永13年(1406)、後小松天皇の母・三条厳子が危篤に陥ります。そのとき義満は、後小松天皇がすでに父親を亡くしていることを挙げ、天皇一代で二度以上諒闇(りょうあん、天皇の喪中)になるのは不吉だから、誰か適当な人を「准母(じゅんぼ、母のような人)」にして諒闇を回避するのが良い、と提案します。そして、廷臣たちに義満の妻・日野康子を准母として推薦させ、彼自身は「准母の夫」、つまりは天皇の父のような立場を獲得しました。

 加えて応永15年(1408)には、息子の義嗣を親王と同等の格式をもって、内裏で元服させています。これは将来的に後小松天皇を廃し、義嗣を天皇位に就けるためではないか、と見なされました。

この疑惑に対する反論

 足利義満の妻が准母になっても、息子が親王格で元服をしても、それらはあくまで「母のかわり」「親王の格」であって、母そのものになったわけでも、親王になったわけでもありません。その格式も、義満が要求したにせよ、天皇が授与して初めて正式な物となります。

 そもそも天皇家は血統で継いでいるのであり、格式や称号でなりかわることができる存在ではありません。そのため、たとえ義満が「日本国王」という格式になったとしても、その妻や息子が皇族待遇になったといっても、義満やその息子が天皇になることができる根拠はありません。皇位継承の根拠がその血筋にある限り、義満やその息子が天皇になることは不可能です。

疑惑その3:義満は皇族の子孫?

 実は義満には天皇家の血が流れている、という指摘もなされています。

 義満の生母・紀良子は順徳天皇の4世の孫で、彼女は後円融天皇の母・崇賢門院(紀仲子)と姉妹です。つまり、義満は後円融天皇とは ”いとこ同士” となります。皇族と近い血縁関係にあることから、義満は自分の中に皇族の血が流れているのを知って皇位簒奪計画を立てたのではないか、という指摘がなされてきました。

※参考:義満の生母・紀良子の関係略系図
※参考:義満の生母・紀良子の関係略系図

この疑惑に対する反論

 確かに義満と天皇はいとこ同士です。義満の母が順徳天皇の子孫というのも事実でしょう。しかし、義満が実際にその血を意識していたといえば、どうも違うようです。なぜなら、義満は生母・紀良子を一貫して冷遇しているからです。あまりに冷遇されたので、晩年に良子は義満のもとを出奔しています。

 もし義満が母経由で得た皇族の血を重視していたら、生母をもっと大事に扱うのではないでしょうか。さらに言うと、当時の皇位継承候補は、後円融上皇の伯父・崇光天皇からはじまる伏見宮家もあり、彼らより何世代も前の順徳天皇の血筋は、皇位継承においては全く問題にされないものでした。そのため、義満が自らの血筋を根拠として皇位簒奪を企てることはあり得ないと考えられます。

おわりに

 足利義満は確かに朝廷と深く関わりました。それは本人が望んだ側面もある一方で、財政難だった朝廷が義満にすがった側面もあります。そのような共依存関係だったので、確かに朝廷が必要以上に義満に忖度している場面や、義満が必要以上に朝廷に対して要求している場面もあったかと思います。

 しかし、その行動をすぐさま「皇位簒奪」とするのは誤りでしょう。天皇家が血筋で継承される以上、義満がいかに権力を持っていても、人臣の一人であることは変わりない事ですし、その権力すら天皇との関係でもたらされているものです。今後は「皇位簒奪計画」から離れた上で、義満と朝廷の関係が広く知られることを願います。


【主な参考文献】
  • 今谷明『室町の王権』(中公新書、1990年)
  • 小川剛生『足利義満』(中公新書、2012年)
  • 桜井英治『室町人の精神』(講談社学術文庫、2009年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
桜ぴょん吉 さん
東京大学大学院出身、在野の日本中世史研究者。文化史、特に公家の有職故実や公武関係にくわしい。 公家日記や故実書、絵巻物を見てきたことをいかし、『戦国ヒストリー』では主に室町・戦国期の暮らしや文化に関する項目を担当。 好きな人物は近衛前久。日本美術刀剣保存協会会員。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。