江戸っ子の四季の楽しみ 春は花見桜は墨田の堤に上野に飛鳥山

 つましい暮らしながら四季の移ろいに、日々の暮らしに楽しみを見出し心豊かに生活していた江戸っ子たち。そんな彼らの春の楽しみはなんといってもお花見です。

昔は「梅」が春の第一の花

 現在、お花見といえば「桜」ですが、奈良平安のころは春の花といえば「梅」でした。大陸との間を遣唐使が往来していたころ、多くの文物と共に梅の花が持ち帰られます。香り立つ花はことさら珍重され、『万葉集』にも、梅の歌は110首・桜の歌は43首と、大きく桜を引き離しています。

 江戸時代になっても梅は桜と共に愛され、文政10年(1827)の『江戸名所花暦』にも春一番の花見として梅が取り上げられています。梅の名所は亀戸・向島・蒲田・杉田など、歌川広重も『名所江戸百景』の中で亀戸梅屋敷と浦田の梅園を描いています。

亀戸梅屋敷[左]と浦田の梅園[右] (歌川広重 画『名所江戸百景』より。出典:ColBase)
亀戸梅屋敷[左]と浦田の梅園[右] (歌川広重 画『名所江戸百景』より。出典:ColBase)

 亀戸梅屋敷は清香庵喜右衛門という土地の農民の庭の事で、ここには “臥竜梅” と呼ばれる龍が地を這うような見事な樹形の銘木がありました。この木を広重が描いたのですが、それをフィンセント・ファン・ゴッホが模写したことで世界的に知られるようになります。

 亀戸梅屋敷の向こうを張ったのが向島の梅屋敷で、こちらは日本橋住吉町の骨董屋・北野屋平兵衛(佐原鞠塢/さはらきくう)が開園しました。

 平兵衛は諸大名や文人墨客とも交流を持つ風雅の人でしたが、隠居後に3000坪の土地を買って友人たちの援助も得て、300株の梅を植えます。亀戸梅屋敷に対して新梅屋敷と呼ばれますが、次第に四季の様々な花が植えられ、百花園と称され、現在の向島百花園の元となりました。

向島百花園(東京都墨田区東向島三丁目にある都立庭園)
向島百花園(東京都墨田区東向島三丁目にある都立庭園)

 梅は花が終わった後の実も利用できるので人気の庭木でした。曲亭馬琴(きょくてい ばきん。江戸後期の小説家)の家族も一家総出で梅干し付けに励み、野梅(やばい)・豊後梅・紅梅・青梅・鶯宿梅合わせて三斗五升(63リットル)1年分を着け込みます。

吉宗様の心遣い

 享保の初めごろまでは桜といえば上野山でした。当時は上野山全体が徳川将軍家の菩提寺・寛永寺(かんえいじ。東京都台東区上野桜木一丁目)の境内として扱われており、ここに三代将軍・家光が奈良吉野より彼岸桜・枝垂桜・八重桜など桜の苗木を取り寄せて植えたのが始まりです。

 桜はすくすくと育ち、江戸中心部からも近い寛永寺は多くの花見客で賑わいますが、そこは歴代将軍が眠る御廟所。夜桜見物ダメ、鳴り物もダメ、お酒もダメ、と静かに花を楽しむ場所でした。

 これを見た八代将軍吉宗は「江戸には庶民が気軽に楽しめる有楽の地が乏しい」として飛鳥山を花見の名所にしようと企てます。吉宗は自ら飛鳥山へ出かけて行き、山頂から東に筑波山西に富士山を望む飛鳥山の眺めを検分、桜がより映えるように松の木まで植えさせます。

 また、地元の農民には花見の季節に茶店を出すことも許します。そして桜の季節になると、家臣に花見に出かけるように命じて、江戸城に戻ってきた者に「庶民は楽しんでいたか、百姓どもの店は繁盛していたか」と尋ねたとか。

 そんな吉宗自身はお花見はしたのでしょうか? 記録によると元文2年(1737)3月、花の盛りを迎えた飛鳥山で、お供の若年寄西尾隠岐守をはじめ、家来一同を引き連れて自ら酒宴を張りました。境内には吉宗が植えさせた1270本の桜が咲き揃い、飛鳥山の両側の田圃には菜の花を造らせていたので、桜の薄紅と菜の花の黄金色が相まって、それは美しかったそうです。

飛鳥山公園(東京都北区王子1丁目)の桜
飛鳥山公園(東京都北区王子1丁目)の桜

ジャパニーズ花見スタイルが定着

 飛鳥山は誰に憚る事もない庶民の花見の場とあって、花見客は三味線・太鼓のお囃子も賑やかに歌って踊って飲んで食べての大騒ぎ、すっかりジャパニーズ花見スタイルが出来上がります。

 なにかと賑やかで人目を驚かすのが好きな江戸っ子、仲間内で趣向を凝らした花見を競うようになりました。揃いの着物をあつらえて三味線も賑やかに踊ってみたり、色とりどりの贅沢な小袖を縄に通して幔幕をつくり張り巡らしたり、芝居の所作を演じたり茶番劇を打ってみたり、と一日遊び暮らします。

 花見弁当や酒器にも凝って、漆塗り金蒔絵の弁当箱に高級料理屋の料理を詰め下りもの灘の清酒を張り込みます。飛鳥山の水茶屋は54軒が営業を許され、見世物や手妻の小屋も掛けられます。

 桜を見物するだけでなく、自らも見られる側に回って楽しむ傾向は、19世紀から幕末にかけて顕著になります。手習いの師匠が弟子とその親を連れ、子供の髪には花を飾り、揃いの手ぬぐいを襟にかけて、そぞろ歩き(= あてもなく、ぶらぶら歩きまわること)を楽しむ様子を他人様に見てもらったりします。三味線の師匠も弟子を引き連れて桜の下で腕前を披露します。

 江戸初期には桜の名所といっても、1本か数本の銘木を愛でる場合が多く、飛鳥山や墨田堤のように大勢が集まれる場所はあまりありませんでした。大勢がジャパニーズ花見スタイルで楽しめるのは、御殿山・浅草・墨田川・飛鳥山など数ヶ所に限られました。

 幕末の江戸風俗を書いた『江戸府内絵本風俗往来』には花見の名所が次のように挙げられています。

「江戸の花見の名所で大騒ぎできるのは飛鳥山だが、江戸市中からは遠いので帰りの夜道が心配だ。道灌山は近いのは良いが花の数が少ない。上野は将軍家の御廟所なので騒げない。となると距離も良し、思い切り騒げて最高の場所は墨田堤である」

おわりに

 吉宗は墨田堤や御殿山にも桜を植えさせ、現在は更地となっている五代将軍・綱吉が築かせた中野のお犬小屋跡地に桃園も作っています。さらには大岡越前守に命じて小金井にも桜を植えさせました。

 このようにあちこちに行楽地を作った吉宗ですが、そのほとんどが江戸の中心部から2里ほどと、当時なら歩いて日帰りが出来る距離で方角も東西南北にうまく分散させてあります。


【主な参考文献】
  • 有岡利幸『ものと人間の文化史桜Ⅰ』法政大学出版局/2007年
  • 河合敦/監修『図解・江戸の四季と暮らし』学研/2009年
  • 竹内誠『春夏秋冬江戸っ子の知恵』小学館/2013年

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。