「光る君へ」藤原道長の父・兼家とその兄・兼通の昇進をめぐる熾烈な争いとは

 大河ドラマ「光る君へ」第2回は「めぐりあい」。円融天皇とその女御(高位の女官。皇后や中宮に次ぐ)・藤原詮子の姿が描かれました。

 円融天皇は、村上天皇の第5皇子として、天徳3年(959)にお生まれになりました(ちなみに、村上天皇の治世は、後世、天暦の治として、理想化されます)。同母兄の冷泉天皇の譲位により、安和二年(969)に即位されます。

 冷泉や円融天皇の母は、中宮の藤原安子(藤原師輔の娘。師輔は藤原道長の祖父)でした。冷泉天皇も女御を藤原氏から迎えていましたが、円融天皇も同様でした。中宮や女御を藤原氏から迎えたのです。

※参考:藤原九条流と小野宮流、円融天皇の略系図(編集部作成)
※参考:藤原九条流と小野宮流、円融天皇の略系図(編集部作成)

 円融天皇の中宮の1人が、藤原媓子(こうし)です。媓子の父は、関白を務めた藤原兼通。媓子が中宮となったのは、天禄4年(973)のことでした(それは、父・兼通が関白に就任した翌年のことです)。

 兼通には複数の弟がいました。その1人が、藤原兼家。藤原道長の父です。兄・兼通と弟の兼家は昇進を巡って争ったと言われています。平安時代後期に成立した歴史物語『大鏡』には「弟の東三条殿(兼家)が中納言となったのに、兄(兼通)が参議で、 ひどく辛いことに思われましたが」とありますが、弟・兼家が兄(兼通)を追い抜くこともあったのです。

 同書によると、兼通は弟に追い越されたことを悲観して、参内(宮中に参上すること)も殆どされずと記載されています。よって、天皇とも疎遠になることがあったそうです。そうした時(天禄3年=972年)、兼通や兼家の兄・藤原伊尹(これただ)が病死します(伊尹は、摂政や太政大臣を歴任)。すると、伊尹の後任をめぐって、兄弟(兼通と兼家)は激しく争います。ついには、円融天皇の御前においても、口喧嘩をする始末。

 しかし、結果は、兼通に有利に働きました。兼通は、円融天皇の母・安子(兼通の妹)の「関白は兄弟順番に就任させよ」という書き付けを所持していたのです。兼通はこの書き付けを、首からぶら下げて、お守りのようにして所持していたとのこと。書き付けがいつかは役立つ時が来ると踏んでいたのでしょう。そしてついに、その時がやって来たのです。

 兼通は兄・伊尹が死んだことを聞くと、書き付けを持って参内。その頃、円融天皇は「鬼の間」におられました。兼通は伯父といっても日頃は疎遠な仲。天皇は、兼通を避けるように「奥」に入ってしまわれます。それを兼通は「取り急ぎ、申し上げたきことが」と追い縋るのでした。兼通は、天皇に例の書き付けを見せるのです。実母の書き付けであることを確認した円融天皇は、兼通を関白に任命します。この書き付けが、兼通の関白就任に道を開いたと『大鏡』には記されています。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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