相馬主計はなぜ切腹したのか? 新選組最後の局長となった男の思いとは?

 相馬主計(そうまかずえ)は、土方歳三戦死後に最後の新選組局長となった人物である。

 榎本武揚率いる箱館政府が新政府軍に降伏し、新選組局長としてすべての責任を負い、新選組を終焉させた相馬は、まさに覚悟の人であった…はずだった。新選組終焉からわずか数年後、相馬は謎の割腹自殺をした。その理由はいまだ不明である。

 今回は新選組、特に戊辰戦争における相馬の行動を追いながら、彼が何を思い、何を感じていたのか、そしてなぜ自ら命を絶つという決断をしてしまったのかについて考えてみよう。

相馬主計の生い立ち

 相馬は、常陸笠間藩(現・茨城県笠間市)の藩士・船橋平八郎の子として生まれた。生年は天保14年(1843)とも天保6年(1835)とも言われている。少年期から青年期の相馬については詳しいことはわかっていない。

茨城県笠間市の位置(出典:wikitravel)
茨城県笠間市の位置(出典:wikitravel)

 慶応元年(1865)に笠間藩を脱藩し、翌慶応2年の第二次長州征伐に参加し、松山藩(現・愛媛県松山市)に駐屯するが、14代将軍・徳川家茂の死去により長州征伐は中止となった。

新選組入隊

 相馬が、新選組に入隊した正確な時期はわかっていないが、長州征伐軍が解散したあとの慶応3年(1867)6月以降と考えられている。局長付きの1人となり、のち平隊士に昇格。同年12月7日の天満屋事件に参戦した。

 天満屋事件とは、坂本龍馬暗殺の犯人と疑われた紀州藩士・三浦久太郎が料亭「天満屋」にいるところを海援隊の陸奥宗光らが襲撃し、三浦を警護していた新選組と激戦になった事件である。

 相馬は、慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見の戦いに参戦後、他の新選組隊士と共に江戸へ向かい、甲陽鎮部隊と改名した新選組内では、局長付組頭として隊士を指揮し、同年3月の甲州勝沼の戦いに参戦している。

 わずかの期間に、局長付組頭にまでなったところをみると、相馬は相当優秀な隊士だったと考えられる。

※参考:戊辰戦争の流れ。戦いの舞台は北へと移り変わっていった(出典:wikipedia)
※参考:戊辰戦争の流れ。戦いの舞台は北へと移り変わっていった(出典:wikipedia)

近藤勇と共に

 勝沼の敗戦後も、近藤・土方に従うが、下総国流山(現在の千葉県流山市)で近藤が新政府軍に捕縛されてしまう。

 永倉新八が残した『浪士文久報国記事』によると、捕縛された近藤に従った隊士が、相馬と野村利三郎であったとされている。しかし、島田魁の残した『島田魁日記』では、野村利三郎と村上三郎という隊士が従ったとある。

 また相馬は、土方の名を受け、近藤の助命嘆願書を持って、近藤が捕らわれていた板橋へ行ったところで捕縛されたとも言われている。

 いずれにしても相馬は、近藤と共に捕縛されていたことに間違いはない。

近藤に助けられた相馬

 相馬は近藤と共に処刑されることになったが、近藤の助命嘆願により処刑を免れた。同じく助命された野村利三郎(村上三郎もか?)と共に釈放され、相馬は笠間藩に預けられた。

 しかしその後に脱走、彰義隊に参加し、春日左衛門の指揮下に入った。彰義隊が瓦解した後は、野村利三郎や旧幕臣たちと共に陸軍隊として各地を転戦しながら北へ向かう。

 この頃の相馬については「相当な器量の人物」という評が残っており、戦では大きな働きをしていたようである。

箱館へ

 相馬は、仙台で土方と再会しているが、野村とともに陸軍隊の所属のまま箱館へ渡っている。明治2年(1869)には、陸軍部長添役・軍監として土方の指揮下となり、箱館市中の取り締まりにあたった。

友・野村利三郎の死

 新政府軍には、東寺最強とされた軍艦・甲鉄艦(ストーンウォール)があった。甲鉄艦はもともと江戸幕府がアメリカに製造を依頼していた船であったが、完成したときには幕府はすでになくなっていたため、新政府軍の手に渡ってしまっていた。

アメリカの軍艦・ストーンウォール号(出典:wikipedia)
アメリカの軍艦・ストーンウォール号(出典:wikipedia)

「甲鉄艦を取り返そう!」

 旧幕府軍は、宮古湾に停泊していた甲鉄艦を奪取する計画を立てる。いわゆる宮古湾海戦だ。

 夜がまだ明けきらぬうちに密かに甲鉄艦に近づき、船を横付けして甲板へ斬り込み、船ごと奪ってしまおうという途方もない作戦。この作戦には土方はじめ、多くの精鋭が参加している。相馬、そして野村もその中にいた。

 同年3月25日。宮古湾での甲鉄艦奪取作戦は、途中の暴風により参加した軍艦のうち、2隻が脱落、回天艦たった1隻で行われた。しかし、甲鉄艦には1分間に150発もの弾丸を撃つことができるガトリング砲が積み込まれていた。

 指揮を取っていた土方が、撤退を命じたが、多くの仲間がガトリング砲の前に斃れていく。近藤勇により助命され、その後ずっと相馬と行動を共にしていた野村利三郎が戦死、相馬自身も負傷した。

新選組副長・土方歳三の死

 同年5月。箱館は新政府軍に包囲されていた。相馬は、島田魁たち新選組と共に弁天台場に籠城。決死の戦いを続ける。

 11日。新政府軍の函館総攻撃が始まった。弁天台場は、海から陸からの猛攻により全滅の危機に瀕していた。五稜郭にいた土方は、弁天台場を救うために出陣。しかし、台場へ向かう途中の一本木関門付近で銃撃を受け、戦死した。

 土方の死を知らないまま、相馬たちは戦い続ける。

※参考:函館戦争の流れ、および五稜郭と弁天台場の位置(出典:wikipedia)
※参考:函館戦争の流れ、および五稜郭と弁天台場の位置(出典:wikipedia)

新選組局長に

 14日、密かに弁天台場を脱出した相馬は、このまま戦を続けるのか、降伏するのかを確認するために五稜郭の榎本武揚のもとへ行く。榎本は徹底抗戦と答えた。そしてこの時、相馬は土方の死を知ったものと考えられる。

 相馬に同道していた新政府軍の薩摩藩士・永山友右衛門は、弁天台場の戦いぶりをねぎらう。それに対し、相馬は言った。

「弁天台場には食べ物はあるが、酒がない。別れの盃を交わすための酒を送ってもらえないだろうか」

 死を覚悟した男の清々しい言葉に、永山は非常な感銘を受けたそうである。薩摩軍から差し入れられた酒で、別れの盃を交わした弁天台場は、最後の決戦に向かった。

 しかし翌15日、弁天台場は降伏した。相馬は、箱館奉行の永井玄蕃から新選組局長の就任を打診される。近藤・土方の後を継ぐということは、すなわち新選組への責めをすべて背負うという意味である。相馬は最後の新選組局長となった。

 18日、箱館政府は新政府軍に降伏し、五稜郭も明け渡されることとなる。相馬は、新選組局長として恭順の書状に署名をし、新選組の歴史に幕を引いた。相馬は、島田魁や榎本武揚らと共に東京へ送られた。

伊豆へ

 当時は、坂本龍馬を暗殺したのは新選組だと考えられており、また伊東甲子太郎暗殺の容疑もかけられた相馬は、明治3年(1870)に伊豆新島に流罪となった。

 新島では大工の棟梁・植村甚兵衛の預かりとなる。新島での相馬は、寺子屋を開いて島民たちに読み書きを教えたり、大工仕事を行ったりと、新選組時代とはうって変わった穏やかな暮らしを過ごしていた。そのうち、相馬の世話をしていた甚兵衛の次女・マツと恋仲となり、結婚までしている。

 このまま新島で静かな生活を送ることが出来れば、相馬の人生も大きく変わっていたのだろう。

東京へ戻った相馬

 明治5年(1872)、相馬の流罪は赦免される。島民たちに別れを惜しまれながら、相馬は妻・マツと共に東京・蔵前に移り住んだ。翌6年からは、政府の役人として出仕し、順調に昇進していたが、明治8年に突然免官された。

 理由はわかっていないが、元新選組隊士ということで、薩長の藩士らと揉めたのではないかという憶測もある。

謎の死

 その後しばらくたったある日、妻・マツが外出している間に、相馬は割腹自殺を図った。死の間際、相馬は妻に「他言無用」と命じたため、相馬の死については詳しいことがわからないままとなってしまう。
穏やかな暮らしを味わい、妻との静かな生活を続けることは可能だったはずの相馬が、なぜ突然切腹したのか。

相馬の真意はどこに?

 相馬は、箱館戦争後に『贈友談話』という回想録を残している。その中で相馬は、新選組隊士として戊辰戦争を戦ってきた自分を「暗愚頑迷(あんぐがんめい:愚かな頑固者)」であると記している。「そもそも自分は、勤王を唱えていたのに、官軍に弓引くことになったのは過ちだった」とも。

 命を削るような日々から離れ、自分の今までを冷静に見直したとき、新選組時代のおのれがなんとも愚かであったかを悟り、悔いているような回想録である。

 相馬は自分の愚かさ、そして元新選組隊士という十字架を背負いきれず、もしくは自分の死で新選組に対する恨みをすべて終わらせるべく腹を斬ったのだろうか。新選組最後の局長としてはあまりにも悲しい最期である。

あとがき

 新島を出るとき、相馬は次のような歌を残し、この歌が刻まれた石碑が今も新島にあるという。

「さながらに そみし我が身はわかるとも 硯(すずり)の海の深き心ぞ」

 この句は

…(新島)の皆さんとこのように仲良くなれた我が身だが、(たとえ皆さんと別れても)硯の海のように深い心でつながっている、(硯の墨に筆を浸し共に学んだ仲間として)忘れることはない…

という別れを惜しむ句である。

 新島から東京へ移ったとき、過去をすべて忘れ、相馬は新しい人生を始めようとしていたのかもしれない。しかし世間はそう甘くはなかった。

 憎しみは憎しみを生むだけ、どこかで断ち切らない限り終わりはない。新選組に対する薩長の恨みは、最後の局長の命を奪わずにはいられなかった。そんな気がするのは、私だけだろうか。


【主な参考文献】
  • 新選組大事典 新人物往来社編 1999年
  • 新選組大全史 新人物往来社 2003年
  • 新選組全隊士徹底ガイド 前田政記 2016年
  • 新選組日記 永倉新八日記・島田魁日記を読む 木村幸比古 2003年
  • 新島村観光情報サイト

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  この記事を書いた人
fujihana38 さん
日本史全般に興味がありますが、40数年前に新選組を知ってからは、特に幕末好きです。毎年の大河ドラマを楽しみに、さまざまな本を読みつつ、日本史の知識をアップデートしています。

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