【滋賀県】彦根城の歴史 西国の抑えを担った戦うための城
- 2024/04/23
現在は多くの観光客でにぎわい、四季折々の風情が楽しめる史跡となっていますが、その構造をよく見ていくと、戦うための城だったことがよくわかります。なぜなら彦根城は、大坂城や西国大名を抑えるための城として築かれ、当時としては最新の築城技術を駆使していたからです。
また、彦根城は近隣の城にあった部材を組み合わせた城で、あの華麗で魅力的な天守でさえ、他所から移設されたものだといいます。
彦根城がどのように築かれたのか?その歴史とともにご紹介していきましょう。
彦根城前史
「彦根」の名の由来は、天照大神の子・活津彦根命(いきつひこねのみこと)が鎮座された地が、彦根山と呼ばれたことに発します。また彦根山は別称を金亀山(こんきやま)ともいい、これは奈良時代に参議・藤原房前が、金亀に乗った観音像を本尊とする寺を建立したことに由来するとか。それ以来、寺は金亀山彦根寺と呼ばれるようになりました。さて、彦根を含む湖東地方は、古くから東国と畿内を結ぶ結節点であり、軍事的にも政治的にも重要視されてきました。平安時代中期以降、この地を発祥とする佐々木氏が台頭し、6代目の定綱が守護に任じられたことで、佐々木氏による近江支配が始まりました。
鎌倉時代中期に佐々木信綱が亡くなると、六角氏・京極氏の2系統に分かれて近江を分割統治しましたが、戦国時代に下剋上の風潮が盛んになると、北近江の浅井氏が台頭して京極氏に取って代わりました。さらに臣従関係にあった六角氏からも独立を果たし、戦国大名として自立しています。
当時、湖東地方の中心は佐和山にあり、浅井氏の本拠・小谷城に対して佐和山城が支城となっていました。浅井氏重臣・磯野員昌が守っていたのですが、元亀2年(1571)に織田信長の包囲を受けて開城。その後は丹羽長秀が入ったり、信長の没後は堀尾吉晴などが城主を務めています。
天正19年(1591)、新たな佐和山城主となったのが石田三成でした。荒廃していた城を大改修し、五重天守を備えた本格的な城郭に造り替えています。
いっぽう佐和山城から西へ2キロほど離れた彦根山には、彦根寺のほかに東寺・門甲寺・石山寺などの寺院があり、西国巡礼や熊野詣などの中継地となっていたようです。
彦根城の築城がはじまる
慶長5年(1600)に起こった関ヶ原の戦いの結果、敗れた石田三成の所領は没収となり、その旧領は徳川氏譜代・井伊直政が領するところとなりました。上州高崎の所領と合わせて18万石の大名となっています。当初、佐和山城へ入った直政ですが、交通が不便で水利も悪く、家臣や領民を住まわせるには土地が狭すぎました。そこで新城の築城を思い立った直政は、佐和山の北西にある磯山を候補地として選んでいます。
ところが計画途中に直政が亡くなってしまいます。家督を継いだ直継が幼かったことから、重臣の木俣守勝が藩政を支えました。そこで守勝は築城計画をいったん白紙に戻し、以下の3点を徳川家康に打診したといいます。
- 佐和山城に留まる
- 磯山に築城する
- 彦根山に築城する
その結果、家康の承認を受けたうえで彦根山へ新城を築くことが決定しました。彦根山が選ばれた理由としては、複数の街道が通じていて交通の便が良いこと。松原内湖に面していることから水運を利用しやすいこと。城下町を造成できる平野部があることが挙げられるでしょうか。
まず彦根山にあった寺院が麓へ移され、慶長9年(1604)から築城が始まりました。幕府は公儀奉行として佐久間政実・山城忠久・犬塚平右衛門らを派遣し、伊賀上野藩や美濃大垣藩をはじめとする12大名に普請を命じています。
翌年には鐘の丸が出来上がり、慶長11年(1606)になると本丸が完成しています。また天守とともに「御広間」と呼ばれる本丸広間が造営されました。これが彦根城の第一期工事となります。
ここまでは幕府主導による天下普請だったのですが、完成が急がれたのには理由があります。それは大坂城の豊臣氏を牽制し、豊臣恩顧の大名が多い西国を抑えるためでした。譜代の井伊氏が近江へ配置されたのも、そこに理由があったのです。
また当時は、空前の築城ラッシュを迎えた時代でした。ただでさえ貴重な資材を一から準備するのでは間に合いません。そこで石材は佐和山城・長浜城・安土城などから集め、天守は大津城のものを移設しました。また現存する天秤櫓は長浜城から移築したものだそうです。
つまり彦根城は、各地の城の資材を寄せ集めたハイブリッドな城郭だと言えるでしょう。
ちなみに天下普請で築かれた城の石垣といえば、受け持った大名であることを示す「刻印」があるもの。ところが彦根城の石には刻印がほとんど見当たりません。それはなぜでしょうか。
これは推測ですが、廃城から石材を持ち込んだことで、新たに石を切り出す必要性がなかったということ。また第一期工事では、鐘の丸や本丸の普請・作事のみだったことから、まだ本格的な石垣工事に掛かっていなかったことが指摘されています。
「是迄此城は掻上げの類にて、大概の御かこひなどは土手斗りに有」
このように第一期工事では石垣が少なく、ほとんどが土塁だったと考えられます。ちなみに石垣を含む第二期工事は、井伊氏単独で成し遂げていますから、石に刻印がないことも納得できるところです。
2代藩主・井伊直孝による第二期工事
大坂冬の陣が勃発したことで、いったん中断した築城工事ですが、家臣の統率力に難のあった直継に代わり、異母弟の直孝が新たな藩主となりました。その後、直継には安中藩3万石が文知されています。そして元和元年(1615)、直孝の指揮のもとで彦根城の築城工事が再開されました。この第二期工事は天下普請ではなく、井伊氏単独による自普請だったのが特徴です。大坂夏の陣で豊臣氏が滅んだことで、戦う城だけでなく、安定統治を実現する拠点とする必要がありました。
まず本丸を中心とする中枢部は、彦根山の山頂部を占め、上野・箕輪城を模倣した「甲州流城取法」によって設計されています。本丸には、藩主の住居や政庁機能を併せ持つ「表御殿」が造られ、合議による政治の場が新設されました。
また内曲輪・二の丸・三の丸が、それぞれ弧を描くような堀によって仕切られた構造となりました。城全体で見れば輪郭式ですが、内曲輪に限って見れば、西の丸・本丸・鐘の丸と、連郭式になっているのが特徴的です。
これによって、城の中枢部は第1郭、重臣の屋敷が集まる第2郭、中級家臣や町人居住区からなる第3郭、下級武士や足軽が暮らす第4郭というふうに、区分けが明確となりました。
ちなみに彦根城は松原内湖に面していましたが、付近を流れる芹川が松原内湖に流れ込むことで、城の周囲には低湿地帯が広がっていたそうです。そこで芹川の本流を付け替え、琵琶湖へ直接流れ込むようにしました。結果的に平野部が広がることになり、城下町の造成・整備に役立てたといいます。
元和8年(1622)に彦根城は完成を見ますが、その後も整備は続きました。寛永9年(1632)、直孝は3代将軍・徳川家光の後見役となり、大政参与を命じられています。また家光の信任を得たことで、翌年には30万石へ加増されました。もちろん家臣の数が増えたことで、城下町のさらなる拡充に迫られています。
城下町を周辺へどんどん拡大したり、あるいは町人地を武家地へ転換するなど、彦根の基礎が徐々に出来上がっていったのです。
戦うための城・彦根城
彦根城は近世城郭として統治の拠点となった城ですが、いっぽうで軍事的色彩が強い城としても知られています。つまり山頂の防御空間と、山麓の居住空間を併せ持つ構造になっており、これは中世的な考えに基づくものです。 例えば山頂の中枢部を見てみると、鐘の丸と太鼓丸の間、そして西の丸の北側は深い堀切となっています。
山の尾根を断ち切って防御する手法は、中世の土の城で見られる構造であり、あまり近世城郭では見受けられません。もし敵が鐘の丸から本丸へ進もうとすれば、堀切に掛かった廊下橋を落とすことで立ち往生してしまいます。すると前の前の天秤櫓から、銃弾が雨のように降り注いでくる仕掛けとなっていました。
また山の斜面には5本の登り石垣が見られ、これは敵の動線を制限するためのもの。横方向へ移動させないことで、効果的な反撃を企図したのでしょう。
ちなみに登り石垣は、朝鮮出兵の際に築かれた倭城で多用され、彦根城も大きな影響を受けたと考えられます。
次に三重三階の天守ですが、やはり戦うための防御拠点となっていました。多種多様な破風(飾り屋根)が18もあり、一見すると壮麗な佇まいを見せていますが、実は外から見えない鉄砲狭間や矢狭間が75箇所もあります。
また、敵を待ち伏せするために、武者隠しの部屋が4箇所もあり、巧妙な守りの工夫が施されていました。ふつう、本丸まで攻め込まれたら負けなのですが、彦根城の場合、最後まで守り抜くんだという気概を感じざるを得ません。まさに実戦向きであり、戦うための城だったことがわかるのです。
さて、井伊氏は江戸時代を通じて、転封が一度もない譜代大名でした。また5人の大政参与や大老を出す家柄となり、幕末まで続いていきます。やがて大政奉還後に戊辰戦争が始まりますが、彦根藩は旧幕府軍ではなく新政府軍に加わりました。そのため彦根城は戦火に巻き込まれることなく、天守をはじめとする建造物が現存しています。
明治6年(1873)には廃城令が出され、全国各地の城郭が次々に破壊されていきました。彦根城も取り壊しが決まっていたのですが、明治11年(1878)に明治天皇が保存を命じたことで保存が決まり、往年の姿のまま現在に至っているのです。
おわりに
俗説によれば、井伊氏は石田三成が憎かったから佐和山城を徹底的に破壊し、新たに彦根城を築いたとされていますが、実際はまったく異なります。大坂城に豊臣氏が健在で、なおかつ西国大名を抑える必要性があったからこそ、早急に堅固な城を築く必要があったのでしょう。
しかし建築資材が不足する中、目当てにしたのが不要となった多くの城郭です。それらの資材を組み上げて完成した彦根城は、各地の城のDNAを受け継ぐ存在となりました。
石垣は安土城や佐和山城から、天守は大津城から、天秤櫓は長浜城からといったふうに、在りし日の名城の面影を今に伝えているのです。
補足:彦根城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
養老4年 (720) | 元正天皇の勅願によって、藤原房前が彦根寺を建立する。 |
元亀2年 (1571) | 佐和山城に対する抑えとして、西彦根山に砦が築かれる。 |
慶長5年 (1600) | 井伊直政、石田三成の旧領を与えられて佐和山城へ入る。 |
慶長7年 (1602) | 井伊直政が没する。新城の磯山移転案が白紙となる。 |
慶長8年 (1603) | 彦根寺をはじめとする寺院が麓へ移される。 |
慶長9年 (1604) | 彦根城の築城が始まる。(第一期工事) |
慶長10年 (1605) | 鐘の丸の普請が完成。 |
慶長11年 (1606) | 本丸及び天守・御広間が完成。 |
元和元年 (1615) | 彦根城の築城が再開される。(第二期工事) |
元和8年 (1622) | この頃までに本丸表御殿、城郭の改修、城下町の整備が整う。 |
寛文2年 (1662) | 京都・近江地方で大地震が発生。彦根城の石垣が大きく破損する。 |
明和4年 (1767) | 佐和口の多聞櫓が出火により焼失。幕府からの借財で再建される。 |
明治4年 (1871) | 廃藩置県によって彦根藩が廃され、彦根県が置かれる。 |
明治5年 (1872) | 兵部省(のち陸軍省)の所管となる。 |
明治11年 (1878) | 大隈重信が明治天皇に取り壊し中止を上奏し、保存されることが決まる。 |
昭和27年 (1952) | 天守・附櫓・多聞櫓が国宝に指定される。 |
平成4年 (1992) | 世界遺産の暫定リストに記載される。 |
平成18年 (2006) | 日本100名城に選定される。 |
【主な参考文献】
- 相賀徹夫「近畿の城」(小学館 1982年)
- 中井均「近江の山城ベスト50を歩く」(サンライズ出版 2006年)
- 淡海文化を育てる会「城下町彦根 ―街道と町並―」(サンライズ出版 2002年)
- 母利美和「図説・日本の城と城下町 彦根城」(創元社 2023年)
- 海津榮太郎「彦根城の諸研究」(サンライズ出版 2011年)
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