江戸に作られた無宿人の収容施設「人足寄場」 今一度、人並みに暮らせるように…

『江戸名所図会』に描かれた人足寄場。現在の東京都中央区佃に位置(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
『江戸名所図会』に描かれた人足寄場。現在の東京都中央区佃に位置(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 江戸時代、相次ぐ飢饉や生活苦に追われて「お江戸へ行けば何とかなるだろう」と故郷を離れ、江戸へ押し寄せる人間は後を絶ちません。当時は本人が罪を犯したり借金を拵えたりすれば、家族や親戚が連帯責任を問われることがありました。

 「出奔した者の不始末を押し付けられてはたまらん!」

 ”とばっちり”を避けるため、親や親戚が人別帳から籍を抜いたりしたので無宿人(戸籍から外された人)は増える一方です。江戸の治安も悪くなり、幕府も対策を考えるようになります。

火付盗賊改役・長谷川平蔵が建議

 寛政2年(1790)、かねて幕府を悩ませていた無宿人問題を何とかせねばと、火付盗賊改役の長谷川平蔵が老中・松平定信に建議し、無宿人の収容施設「人足寄場(にんそくよせば)」が設けられました。

 それ以前、押し寄せる無宿人に困っていた幕府は深川茂森町(現在の東京都江東区木場)に「無宿養育所」を開設し、無宿人に手に職をつけさせ、自立させようとします。しかし病死者が続出する環境の劣悪さに逃げ出す者が後を絶たず、計画は6年ほどで頓挫。その後を受けて作られたのが「加役方人足寄場(かやくかたにんそくよせば)」通称、人足寄場なのです。

 場所は、佃島と石川島(現在の東京都中央区佃)の間に合った砂州を埋め立て、一般人と接触せぬようにされました。寄場には町奉行の名代として南北両町奉行所与力二騎が日替わりで見廻り役を勤め、同心も付き従いました。

江戸町方与力 見廻り役の扮装(『前科者は、ナゼ、又、行るか』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
江戸町方与力 見廻り役の扮装(『前科者は、ナゼ、又、行るか』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

墨田川河口の中州で建設が始まる

 寛政2年(1790)墨田川河口の中州に寄場設立の命令が下されます。

 広さは1万6030坪あまり。川中の砂州といっても、対岸にも近いのに丈夫な囲い壁も造られず、一応世間とは隔ててあるといった程度です。寄場内には無宿収容部屋と役所、作業場、炊事小屋、風呂場、女部屋などが設けられました。

 無宿収容部屋は新入りが入る新部屋と1番から7番までの小屋が建てられ、各部屋には収容者の中から何人かの世話役が選ばれ、配置されます。夜は世話役1人、平人足2人が寝ずの番に付きました。

 寄場に連れてこられた無宿は、まず見廻町方同心や詰切町方同心立ち合いの元、名前・年齢・生国・犯歴などの口書きを取られ、寄場の決まりを読み聞かせられた後、着物を配られます。

 普通の無宿は柿色に白の水玉模様の、世話役は花色(青色)に白の水玉模様のお仕着せが配られたので、彼らを水玉人足とも呼びました。

 女の無宿人や江戸処払いの者は一時収容人として別囲いとし、女には人足の着物の洗濯や繕い物をさせましたがこれは後に廃止されます。

人足寄場での生活

 世話役などの役付き人足は、夜は琉球畳という縁の無い畳の上で寝られましたが、ただの平人足は寝子駄という藁縄を編んだ筵の上で雑魚寝です。

 夜具として柿色布の蒲団1枚が配られ、冬場には炬燵も用意されます。女たちにはお歯黒を付ける事も許されました。食事は朝夕2回で、味噌汁と米麦合わせたものを1人当たり一升・七合・五合の3段階を付けて与えられます。貧しい食事ですが、ひもじい思いはしなかったようですね。

 朝五つ(午前8時)から暮れ七つ(午後4時)まで作業をし、品物の売り上げの3分の2を、毎月2度の締めで受け取りました。改悛の情が見られるときは、三貫文・五貫文・七貫文の銭が上乗せされます。もっともこの銭がすべて人足に渡るのではなく、一部は強制的に預かり、3年の収容期間を終えて出所する時に、これから生活を立てていく資金として渡されました。

 寄場の経費は初めは年に米500俵・金500両でしたが、弘化2年(1845)には米1860俵・金2019両に上がっていますが、これは収容者の増加によるものです。寛政(1789~1801年)の初めごろは130人ぐらいであったのが、弘化 (1845~1848年)になると508人に膨れ上がっています。

人足たちが行なった作業

 寄場に収容された無宿人、つまり人足たちは二棟設けられた細工小屋の中で、もともと手に職を持っていればその作業に従事します。

 何もできない者は、米搗きや炭団作り・わら細工などを行い、大名家や旗本屋敷の建築現場から運ばれてきた材木の切れ端を使って桶や盥を作りました。それを役人が商人に卸し金に換えます。

 寄場島と対岸の間には道三橋が架けられ、そのたもとには船着き場が設けられ、艫に「御用」の幟を立てた大茶舟が木切れを集めて運んできます。無宿たちは大八車を引いて木切れを受け取りに行きました。

 他にも反古紙も持ち込まれ、鼠半切などの再生紙を作りますが、値段が安いので「島紙」と称して江戸庶民に重宝されました。炭団も紀州熊野産の堅炭から作ったので、火持ちがよく火力も強いと歓迎されます。

 このあたり現代刑務所の矯正展を思わせます。蛤の殻を砕いて胡粉も作りましたし、菜種からの油絞りもすれば逃亡の恐れが無い者は島から出して川浚いをさせました。

情操教育にも力を入れる

 寄場に送られてくるのは無犯ないしは刑罰の執行が終わった無宿人です。決して監獄ではなく、世間で暮らしていけるようにさせるための施設ですから、月に3回心学の学者を招いて講義を行います。

 どれほど効果があったのかと思いますが、講話に感動して涙を流す収容者もいたとか。講義のある日は作業も休みで、盆と正月しか休みのなかった商家の丁稚や女中よりは恵まれていました。また、正月には膳に塩引きの鮭が並び、秋の月見には団子も出てきます。江戸で信心するものが多かったお稲荷さんの祠も寄場内に作られ、情操教育にも力を入れます。

おわりに

 このように矯正施設であった人足寄場ですが、文政3年(1820)になると、江戸処払いなどの追放刑を受けた罪人も収容し、監獄としての機能を持ち始めます。

 彼らには5年の収容期間が定められ、寄場内の空気も次第に牢内のように変わって行き、明治を迎えるころには犯罪者収容の場所になっていました。


【主な参考文献】
  • 笹間良彦『図説・江戸町奉行所事典』柏書房/1991年
  • 平松義郎『江戸の罪と罰』平凡社/2010年

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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