源義経を彩る女性たち 悲劇の英雄を彩る妻子の末路とは?!

 歌舞伎や歴史ドラマのなかで《判官贔屓》の代名詞ともなった源義経ですが、その短くも悲喜こもごもの人生のうちに、妻として子も授かり、あるいは側室として寄り添い、光と影が交叉する運命のまま、とうとう最期まで付き従った女性たちをながめてみましょう。

義経の婚礼

 義経の生まれ育ちや、武蔵坊弁慶の伝説などは歌舞伎や文楽で楽しんでいただければ幸いですが、ついに治承4年(1180)8月に異母兄である源頼朝が挙兵したことを知り、どうしても手助けしたいと思い至って馳せ参じたころから、ついに悲哀に満ちた最期を迎えるまでの9年間、すなわち義経22~31歳までのことは、まず史実だろうと伝わっています。

 どこまで本当のことだったのかが、今となっては完全解明など望むべくもない義経の人生において、「たった1つだけは不滅の真実だったに違いない!いえ、そうであってほしい!」と願うのは、たった9年間のうちにも義経を愛し、ついには生死をも共にするほどに尽くした女性たちがいたことです。

 元暦元年(1184)、世に《鵯越の逆落とし》といわれる奇襲を成功させ、齢26の若き天才武将として義経の名を歴史に刻みつけたのちの同年8月6日には、後白河法皇より従五位下を授けられて貴族となり、左衛門少尉と検非違使という官職も任ぜられました。

 じつは官位や官職に関することについては、武門としての主たる頼朝に許可を得なければなりませんでしたが、独断で拝受した義経は異母兄・頼朝から厳重注意されています。

 しかし、明けて9月3日には頼朝の媒酌に従って、頼朝の家臣である河越重頼という武将の娘であります郷御前(さとごぜん)と、めでたく祝言をあげたのです。

 じっさい、義経の正妻となった郷御前は、頼朝の乳母である比企尼の孫娘です。つまり、比企尼の娘が重頼と結婚していたワケであり、この縁談を思いついてすすめた頼朝にすれば、幼少のころから寺の小僧として育った異母弟が、案外と並々ならぬ武将としての才能と度量を保っていたことに驚きながら、いっそう絆を深めようとしたのでは?!

賴朝は激怒したかも?! 平家の女性・蕨姫

 翌年2月には屋島の戦い、次いで3月には壇ノ浦の戦いで、ついに父の怨敵である平家を滅亡させた義経は、ともに戦った源軍将兵から頼朝へと不平・不満を綴った苦情が寄せられたほどに陣中でも傍若無人というか、よほど調子に乗りすぎていたのでしょう。

 その苦情の1つと推察されるのが、異母弟としての謙虚さを忘れてしまったらしい義経は、蕨姫(わらびひめ)という妾もとい側室までこしらえています。まあ、妾をもつのは男の甲斐性などと昭和初期ころまで言われていたことですから、義経にしてもムリはないことかも知れません。

 『平家物語』によれば、この蕨姫は平大納言時忠の娘だと記されています。

 時忠は、かの平清盛の義弟で、敗戦ののちには能登国へ流罪というのですから、その身分からすれば斬首が当たり前という、まったく明らかに異常な処罰でしょう。ところが、じっさいは父親の時忠が義経に娘を差し出すことで命乞いしたのだそうです。

 源軍にすれば、本来なら完全に平家滅亡を成して後々の禍根を断つべきところでしょうが、なんと義経は独断で時忠を助命・流罪として、平家では最上流の女性の1人である蕨姫を側室としたのですから、周囲の将兵らが頼朝に急報したのも当然ではないでしょうか?!

 そうして、壇ノ浦で死に損なって捕虜となった清盛の三男である宗盛と、その息子の清宗を鎌倉へと移送して凱旋するつもりの義経は、頼朝の命令にて鎌倉入りを拒絶されました。

 このとき不意の拒絶をくらった義経が、腰越の満福寺から頼朝へ宛てて綴った、泣き落としの懇願状は、『吾妻鏡』に全文が記され、《腰越状》として伝わっています。

 それを読み捨てたのでしょう賴朝は許さず、けっきょく義経は京へ引き返すしかありませんでした。さらに逆ギレしたらしい義経は、よせばいいのに後白河法皇にすがって賴朝を討伐する宣旨をねだったのです。これを知った賴朝は激怒し、逆に義経討伐を決断します。

 平家滅亡を成した壇ノ浦の戦いから、わずか9ヶ月前後で義経は都落ちするほかなくなり、賴朝の命令を請けた追っ手を避けながら、奥州平泉に戻る逃避行生活に陥りました。

 ちなみに蕨姫は、あっさり義経を見かぎって京にとどまり、あとは消息不明です。

悲劇の白拍子・静御前

 ついでながら『平家物語』のような複数の軍記物では、壇ノ浦の戦い前後の義経には複数の側室がいたことになっており、その名前や出自も記されてはいます。

 ただ、学術的に最も信頼できるとされる歴史書『吾妻鏡』に記された側室は蕨姫と、義経ファンなら誰もが知っているでしょう静御前(しずかごぜん)という白拍子の女性、この2人だけです。

 ついでながら、この当時に白拍子というのは即興の和歌などを唄いながら舞う芸をしながら旅する女性芸人で、贔屓の客に誘われたなら、酌などしながら伽もつとめる遊女です。

 くり返しますが、判官贔屓のなかで生きる義経は歌舞伎や文楽のなかで楽しんでいただくとして、今回の歴史コラムでは、できるかぎり生の義経をながめてみたいのです。

 したがって側室についての締めは、やはり静御前にお願いいたしましょう。

白拍子姿の静御前(葛飾北斎筆、北斎館蔵 出典:wikipedia)
白拍子姿の静御前(葛飾北斎筆、北斎館蔵 出典:wikipedia)

 『吾妻鏡』によりますと、静御前と呼ばれた白拍子は、とうとう都落ちする義経が京から連れ出し、筑紫国すなわち九州に逃げるために大物浜(いま現在の尼崎)から乗り込んだ船団にも同乗していたのです。

 ところが義経にとっては弱り目に祟り目よろしく、この船団は嵐に遭遇して難破し、義経らが乗った船は紀伊半島沿岸へと漂着したようです。

 ここから義経一行は、大和国(奈良県)の吉野山に潜伏しながら再起を図ったようですが、ここでも追っ手の襲撃をうけ、つい離ればなれとなって捕らえられた静御前は鎌倉へ移送されたのが文治2年(1186)3月のことでした。

 ときに静御前は義経の子を妊娠していましたが、賴朝は以下のように命じたそうです。

頼朝:「女子なら助けるが、男子なら殺せ」

 いかにも酷いことですが、これは武門における常識でもありました。やがて生まれたのは男子であり、泣き叫ぶ静御前の願いは叶わず、赤子は由比ヶ浜に沈められたと伝わっています。その後に京に戻された静御前の消息は不明となっています。

義経とともに都落ちを決心した郷御前

 とうとう義経の追放・討伐を命じた賴朝は、昨年9月に媒妁して義経に嫁がせた郷御前の実父・河越重頼ばかりか嫡男すなわち郷御前の兄である重房をも誅殺しました。ただ、自身の乳母の娘つまり郷御前の母と、重頼の次男以下の者たちは助命したままです。

郷御前の実家にあたる河越館跡(埼玉県川越市 出典:wikipedia)
郷御前の実家にあたる河越館跡(埼玉県川越市 出典:wikipedia)

 おそらく賴朝は、郷御前が義経と離縁して、義経との間に授かった一人娘を連れて里帰りすればいいとの配慮だったようですが、しかし、とうの郷御前は義経とともに都落ちすることを決心し、そのように付き従ったのでした。

 ことに落日の義経にとっては、吉野山中にて静御前と離ればなれになってから、とうとう最期を迎えるまでの4年あまりこそが、あらためて妻子の有り難さを骨の髄まで感じ得た日々であったろうと察します。

吾が妻は武将の妻女の鏡なり

 なんとか巻き返し・返り咲きを願いつつ七転八倒しながら日々を生き延びつつ、どうにか奥州で頼りの藤原基成の衣川館に落ち着きましたが、文治5年(1189)閏4月30日には、基成の外孫でありながら賴朝に屈してへつらった藤原泰衡の手勢500騎に包囲され、反撃をこころみた義経の手勢10数騎は全滅となります。

 小勢ながらも大将たる義経は討って出ることをせず、郷御前と女子を連れて衣川舘の持仏堂に移って籠もり、手ずから妻子を刺し殺したのちに自害して果てたと伝わります。

 ときに郷御前22歳、女子すなわち愛娘4歳、そして義経の享年31とも伝わっています。なお、義経には男子もいたという話もありますが、最期の持仏堂には見当たりません。

『吾妻鏡』を主な参考資料とした私としては、 ”吾が妻は武将の妻女の鏡なり” という拙き一句をもって、無念・無言の義経が吐いた今生に最後の一息とさせていただきます。

平泉町金鶏山の麓・千手堂境内にある、義経妻子の墓(出典:wikipedia)
平泉町金鶏山の麓・千手堂境内にある、義経妻子の墓(出典:wikipedia)


【主な参考文献】
  • 五味文彦『源義経』(岩波書店、2004年)
  • 中津攸子『新説 源義経の真実』(コールサック社、2022年)
  • 島津久基『義経記』(岩波書店、1939年)

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  この記事を書いた人
菅 靖匡 さん
2004年、第10回歴史群像大賞優秀賞を受賞し、 2005年に『小説 大谷吉継』でデビュー。 以後『小説 本多平八郎』『小説 織田有楽斎』(学研M文庫)と、 さらに2011年から『天保冷や酒侍』シリーズなど、 フィクションのエンタテイメントにも挑戦している。 2020年には『DEAR EI ...

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