源義経暗殺失敗「土佐坊昌俊」 義経父の忠臣・金王丸との同一人物説も

弁慶から源義経に引き渡される土佐坊昌俊(『堀川夜討之図浮絵二枚続』より。出典:wikipedia)
弁慶から源義経に引き渡される土佐坊昌俊(『堀川夜討之図浮絵二枚続』より。出典:wikipedia)
 協力して平家を追討した源頼朝と源義経の兄弟ですが、平家滅亡後は関係が悪化し、悲劇的な結末を迎えます。その発端は鎌倉から送られた刺客による義経暗殺未遂事件「堀川夜討ち」です。

 刺客は土佐坊昌俊(とさのぼう しょうしゅん)。どんな人物なのか、詳しい経歴は不明ですが、興福寺の悪僧だったともいい、頼朝、義経兄弟の父・源義朝の最期も見届けた忠臣・金王丸(こんのうまる)と同一人物という伝説もあります。

「堀川夜討ち」義経館襲撃も撃退され斬首

 平家滅亡から7カ月後の文治元年(1185)10月17日、土佐坊昌俊は60騎で義経の六条室町邸を襲撃します。頼朝から命じられて鎌倉から派遣された少数精鋭の襲撃部隊。義経配下の武士は京郊外の嵯峨野に遊びに行っていましたが、義経は自ら門を開いて応戦します。佐藤忠信ら少数の残留部隊を率いて戦い、さらに叔父・源行家も駆け付け、義経に加勢。土佐坊昌俊は撃退されて敗走し、その後、鞍馬山で捕らえられ、10月26日、六条河原で斬首されました。

 義経は襲撃を受けた直後に後白河法皇に訴え出て、頼朝追討の宣旨(命令書)を求めます。後白河法皇側は頼朝を敵に回したくはないものの「今のところ、京で義経以外に朝廷を警護する武士はいない。義経が乱暴に及んだ場合、防ぐことをできる者がいないので、まずは義経の申請通り命令を出して、追って鎌倉の頼朝に事情を伝えよう」ということになります。

 10月18日、義経と行家に対して頼朝追討の宣旨が出されました。土佐坊昌俊の義経暗殺未遂事件で頼朝、義経の関係は修復不可能になったのです。また、これらの情報は10月22日には鎌倉に伝わっています。

襲撃時にみせた静御前の機敏な行動

『平家物語』ではこの場面がドラマチックに描かれています。

頼朝の密命を帯び、土佐坊昌俊が京に着いたのは9月29日。義経の屋敷に挨拶に来ないので、武蔵坊弁慶を使者に立て、義経は土佐坊昌俊を呼びつけます。

義経:「土佐坊、わが兄・鎌倉殿からこの九郎義経への文はないか」

昌俊:「今回、特にこれといった用件もありませんので、お文はありません。ただ、口頭で『京警護のお役目ご苦労。引き続き頼む』とおおせでした」

義経:「そうではあるまい。土佐坊。お前はこの義経に討ちに来たお使いであろう。『軍勢を派遣するのは京が大騒ぎになって具合が悪いから、社寺参詣と見せかけてだまし討ちにせよ』と命じたのではないか」

昌俊:「まさか、そのような。拙僧はいささか宿願があって熊野参詣のため上京したのです」

 土佐坊昌俊はただちに起請文を7枚書き、焼いて灰を飲んだり、神社に奉納したりします。そして、宿舎に帰るなり、配下の武士に告げます。

「おい。今夜やるぞ」

 一方、義経の屋敷でも、愛妾・静御前は土佐坊昌俊の態度を怪しみ、早速、かぶろ2人に偵察させます。かぶろは、かつて平清盛が平家の悪口を言う者がいないか京の市中を探らせた300人の少年スパイ団。その残党3、4人を義経が使っていたのです。ところが、かぶろは戻ってきません。

「女ならば、かえって目につかないかも」

静御前が女を土佐坊昌俊の宿舎へ偵察に出すと、すぐ戻ってきました。

「かぶろらしき2人が門前で切り倒されていました。武者たちが今にも出陣しようと勢ぞろいしており、社寺参詣の様子などはありません」

 静御前は大将用の鎧などをさっと出して義経を着替えさせます。静御前の動きは実に機敏で、スパイであるかぶろを動かす立場でもありました。

 義経は夜討ち部隊を迎撃。伊勢義盛、佐藤忠信、武蔵坊弁慶といった義経側近武将も続々と駆け付けます。土佐坊昌俊は敗走。鞍馬山で逮捕され、義経の前に引き出されました。

義経:「土佐坊よ、起請文の神罰が当たったようだな」

昌俊:「なにしろ事実でないことを書きましたのでね」

義経:「しかし、土佐坊。兄・鎌倉殿への忠誠心は立派だ。命が惜しければ鎌倉に帰してやろうとも思うが、どうだ」

昌俊:「鎌倉殿からは『法師ではあるが、お前こそ義経を狙えるものだ』とのお言葉をいただいてきました。命は鎌倉殿に差し上げてきたのです。今さら取り返すつもりもありません。お情けがあるならば、早々に首をおはねください」

義経暗殺に唯一名乗り、老母案じ所領も

 『吾妻鏡』によりますと、鎌倉で10月9日、義経追討について協議されました。多くの武士が辞退しましたが、土佐坊昌俊が進んで引き受け、頼朝に褒められます。弟の三上家季をはじめ83騎を引き連れ、鎌倉を出発。その際、下野国に残した老母や乳児を心配して頼朝の同情を買い、下野・中泉荘(栃木県栃木市)を与えられました。ある意味、「死んでこい」という恩賞の前渡しです。

畠山重忠も和田義盛も義経追討を辞退

 この場面、『義経記』は、和田義盛や畠山重忠らが頼朝の命令に従わず、義経追討を拒否したため、土佐坊昌俊にお鉢が回ってくるという筋立てです。

昌俊:「僧徒の身として法華経の教義を説き聞かせよとのご命令を受けるかと思いましたところ、ご一門を滅ぼしてこいとのご命令をいただきますことは嘆かわしく存じます」

土佐坊昌俊の言葉に頼朝は顔色を変えます。

頼朝:「さては九郎(義経)に何か約束したことでもあるのか」

昌俊:「恐れ多いことですので挨拶として辞退申し上げただけです。ご命令に従います」

 頼朝は機嫌を直して土佐坊昌俊を褒めたたえます。秘蔵の太刀を贈り、安房と上総を合わせて与えると約束し、やや大げさな厚遇ぶりを示します。こうして土佐坊昌俊は密命を帯びて京に派遣されたのでした。

源義朝の最期を見届けた渋谷金王丸

 土佐坊昌俊は何者なのでしょうか。『吾妻鏡』では、元暦元年(1184)8月、平家追討の総大将・源範頼(頼朝の異母弟)が鎌倉を出陣する際、従軍する御家人の中で最後に名が出ています。僧でもあり、戦場の記録係を兼ねていたかもしれません。

 また、『平家物語』の異本・延慶本では、永万元年(1165)の二条上皇崩御の際の額打論を起こして延暦寺とやり合った興福寺の悪僧・観音坊が、ある事件で土肥実平に預けられ、頼朝に仕えることになったとしています。それが土佐坊昌俊だというのです。

 別の『平家物語』の異本・城方本は、源義朝に従っていた金王丸を土佐坊昌俊の正体としています。

義朝を討った刺客3人を切り伏せる

 金王丸は、源義朝に最後まで従っていた側近武将の一人です。名は渋谷金王丸常光とも。年若く、義朝の身の回りの雑用もこなしました。さらに京に戻って愛妾・常盤御前に義朝の最期を伝え、このとき義経は生後間もない乳児でした。義経とも浅からぬ縁がある人物です。

 金王丸の活躍は『平治物語』などに詳述されています。

 源義朝が平治の乱で平清盛に敗れたのは平治元年(1159)の年末。敗走中に大人数では具合が悪いと、有力家臣団を解散させてそれぞれ東国に向かうよう指示し、源義朝のそばに残ったのは、長男・義平、次男・朝長、三男・頼朝、源氏一門の源重成、平賀義信、義朝の側近・鎌田正清、それに金王丸。計8騎です。

 その後、頼朝がはぐれ、義平が北陸方面に派遣され、朝長は戦傷がもとで死亡。また、一行が青墓宿(岐阜県大垣市)を出発する際、落ち武者狩りに襲われ、源重成が源義朝の身代わりになって討ち死に。残った4人と、途中で合流した僧・源光(げんこう)で、鎌田正清の舅・長田忠致のもとに身を寄せ、尾張・内海で年を越します。ところが、長田忠致が裏切って源義朝、鎌田正清主従が討ち死に。残った平賀義信、金王丸、源光は敵中を脱します。

 長田忠致は源義朝に入浴を勧め、そのとき襲う計画でしたが、湯殿でも金王丸が従い、あかを落としていたので、決行のすきがありません。しかし、金王丸が「湯帷子(ゆかたびら)を差し上げよ。誰かおらぬか」と声を上げても返事がなく、「どうして誰もいないのだ」と湯殿を出たすきに屈強な武士3人が源義朝を襲撃します。

義朝:「正清はおらぬか、金王丸はいないか。義朝は今まさに討たれたぞ」

 源義朝の叫び声に金王丸は戻ってきて刺客3人をたちまち切り伏せます。屋敷は大騒動になり、金王丸は源光とともに「長田を討とう」と敵中に切り込みますが、長田忠致の姿はなく、「それなら討ち死にしよう」と背中合わせになって切り回ります。正面きって立ち向かう敵はおらず、2人は7、8人を切り伏せて厩舎から馬を引っ張り出して堂々と敵中を脱出しました。

常盤御前に義朝の最期を伝える

 金王丸は京に戻り、常盤御前に源義朝の最期を伝えます。このときのやり取りから金王丸が以前にも常盤御前に義朝の言葉を伝えていたことが分かります。金王丸は義朝の私的な用件もこなし、常盤御前母子とも顔見知りだったのです。

 このとき義経(牛若丸)は生まれたばかりですが、7歳の今若丸(阿野全成)、5歳の乙若丸(義円)は金王丸の袖にすがりつきます。

兄弟:「父上はどこにおられます。われらを連れてまいれ」

金王丸:「これは急ぎの使いです。あすにはお迎えにまいりましょう」

 金王丸はあれやこれや言って幼児たちをなだめます。そしてそのまま山寺で髪を切って僧となり、諸国で修行。源義朝の菩提を弔いました。その後の詳細は不明で、それが僧行の武士・土佐坊昌俊に結びついたのかもしれません。

おわりに

 源義経の母・常盤御前とも顔見知りで因縁浅からぬ金王丸こそが土佐坊昌俊であり、その僧が義経暗殺を名乗り出たとすると、運命の流転の悲しさ、残酷さ、そして義経の悲劇性も一段と強調されます。

 伝説としてはよくできていて、頼朝の残酷さもセットになっていますが、これも義経の悲劇には欠かせない要素です。土佐坊昌俊は金王丸なのでしょうか。


【主な参考文献】
  • 五味文彦、本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』(吉川弘文館)
  • 梶原正昭、山下宏明校注『平家物語』(岩波書店)岩波文庫
  • 谷口耕一、小番達『平治物語全訳注』(講談社)講談社学術文庫
  • 梶原正昭校注・訳『日本古典文学全集31義経記』(小学館)

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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