「浅野長政」秀吉と兄弟の契りを交わした豊臣政権の五奉行筆頭
- 2018/12/26
浅野氏といえば、江戸時代の「忠臣蔵」に登場する播磨国赤穂藩の浅野内匠頭が有名ですが、その祖先が「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」に仕えた「浅野長政」になります。秀吉に重用されながらも、その没後は家康に仕えるようになったことから、あまり良いイメージをもたれない長政ですが、はたしてどのような人物だったのでしょうか?
今回は秀吉の義兄弟であり、石田三成を押さえて五奉行筆頭を務めた長政の生涯についてお伝えしていきます。
今回は秀吉の義兄弟であり、石田三成を押さえて五奉行筆頭を務めた長政の生涯についてお伝えしていきます。
信長の家臣として登場
浅野氏の婿養子となり、秀吉と兄弟の契りを結ぶ
天文16年(1547)、尾張国春日井郡北野(現在の愛知県北名古屋市)で、宮後城主である安井重継と浅野長詮の娘との間に、長男として生まれたのが長政です。もともとは「長吉」と名乗っており、「長政」に改名するのは秀吉の没後のことです。生涯の大半を長吉として過ごしていたことになりますが、今回はすべて長政の呼び名で統一していきます。
長政は、母親の弟である浅野氏当主・浅野長勝に男子がいなかったので、長勝の娘である「やや」と結婚し、婿養子となりました。そして浅野氏の家督を継ぎます。
ちなみに長男を婿養子に出した重継は、姉の子で、甥にあたる「蜂須賀正勝」(小六)に家督を譲っていますので、安井氏は蜂須賀氏に吸収合併されたことになります。ということは正勝と長政は血縁関係だったわけです。
さらに長政の妻であるややと、秀吉(当時は木下藤吉郎)の正室である「ねね」(おね、後の北政所、高台院)は姉妹でした。ややもねねも長勝の養女だという説が有力ですが、どちらにせよ秀吉と長政は姻戚関係となります。
秀吉がねねを娶ったのが、永禄4年(1561)のこと。このときに秀吉と長政は兄弟の約束を交わしました。さすがの長政もまさかこの義兄弟の契りを結んだ相手が、天下人になるとは思ってもみなかったことでしょう。
初陣は浅井攻め
長勝は、尾張国の戦国大名である信長に弓衆として仕えており、家督を継ぐ長政もまた同じように弓衆として信長に仕えました。秀吉が家臣を持つことを許されるようになってからは、最も近い姻戚として秀吉の与力となるように信長から命令を受けています。長政の初陣は天正元年(1573)の浅井攻めと伝わっており、ここで活躍した長政は、浅井氏滅亡後に小谷城主となった秀吉から、近江国内に120石を与えられました。その後も中国攻めの司令官となった秀吉に従って各地を転戦したと見られ、天正7年(1579)には北近江で300石、天正9年(1581)には播磨国で5600石を加増されています。
秀吉の直臣として活躍
京都奉行職を務める
天正10年(1582)に信長が没すると、秀吉はすぐさま京都に引き返し、謀叛を起こした明智光秀を山崎の戦いで討ち、大きな発言力を得るようになります。清洲会議では秀吉は、信長亡き後の後継者を決め、山城国と光秀の遺領である近江国を手に入れました。ここで京都支配の役目を担ったのが、長政になります。秀吉は「京都奉行」に長政と杉原家次を任命しました。長政は京都奉行の職と共に、山城国の検知奉行も兼任しています。秀吉が驚異的な出世をしていくのと同じように、義兄弟の長政もどんどん出世していくこととなったのです。
天正11年(1583)4月には、賤ヶ岳の戦いに参加し、手柄をあげます。戦後は近江国瀬田城主となり、同年8月には近江国甲賀郡・栗太郡で2万300石を与えられました。長政は瀬田城、次いで坂本城、そして大津城へと移っていきます。
さらに長政は前年に引き続き京都奉行職を務め、山城国と近江国の検知奉行も兼任しました。秀吉の蔵入地の代官も務めています。京都奉行はこの年が最後となったようです。
五奉行の筆頭を務める
天正12年(1584)には、秀吉勢力と、織田信雄・家康の連合軍が衝突します。小牧・長久手の戦いです。この時の長政は1500の兵を率いて秀吉に従軍しました。その後も長政は秀吉勢力の中心人物として様々な場面に登場し、活躍していきます。天正15年(1587)には九州平定に従軍して活躍し、同年9月には若狭国小浜8万石を与えられて国持ち大名となりました。翌年の天正16年(1588)には従五位下・弾正少弼に叙任されています。ちなみに同年の聚楽第行幸には、肥後一揆討伐の検使を務めていたために参加できていません。
天正18年(1590)には小田原征伐に従軍し、北条氏滅亡後に行われた「奥州仕置」では、実行役として中心的な役割を担っています。小田原征伐時に秀吉に従わなかった在地領主らの諸城を次々と制圧し、太閤検地を行ったのです。
長政はこの仕置きに反発した葛西大崎一揆や、翌天正19年(1591)に勃発した九戸政実の乱にも対処しました。長政は太閤検地が終わると、郡代や代官を残して奥州仕置軍を撤退させています。
長年に渡り苦楽を共にしてきた秀吉は、こうしてついに天下統一を果たすことになります。義兄弟である長政も豊臣姓を下賜されました。しかし秀吉の野心は収まることなく、次は海外に目が向けられることとなります。
文禄2年(1592)、朝鮮に出兵した際(文禄の役)には、長政は軍監として渡海しています。この功績が認められ、文禄3年(1593)には長男の幸長と合せて、甲斐国22万5千石に加増移封となり、甲府城に移りました。伊達政宗をはじめとした奥羽や北関東の諸大名らが長政の与力として組み込まれています。
そして秀吉が没する直前の慶長3年(1598)、五奉行の筆頭に列することとなりました。
秀吉没後は家康方へ
家康暗殺計画の疑いで蟄居処分
ここまで順風満帆に出世してきた長政でしたが、秀吉が没すると風向きが変わります。ここには諸説ありますが、五大老筆頭の家康とは親しい関係にあり、逆に同じ五奉行である三成とは不仲だったことが影響していたようです。豊臣姓を下賜されているほどですから、秀吉亡き後も豊臣を支える覚悟だったでしょうが、三成への反発心は大きかったのではないでしょうか。
秀吉が没すると、政権奪取を目論み派閥を形成する家康と、これを警戒する三成や前田利家らが権力闘争を始めるようになります。この状況を見て、長政の心中も穏やかではなかったはずです。
しかし、長政がこの抗争の仲介役となることはありませんでした。慶長4年(1599)、家康暗殺計画に加わったとして、前田利長、大野治長、土方雄久らと共に処罰されることになってしまうからです。
なぜこのような事態になってしまったのでしょうか? 理由は定かではありません。長政と同じ五奉行を務める増田長盛、長束正家が家康に讒言したためとも伝わっていますし、家康が三成方の勢力を分断するための策謀だったという説もあります。特に長政の長男である幸長は三成と犬猿の仲だったようですから、離間の計は比較的簡単に進めることができたのかもしれません。
どちらにせよ、長政は幸長に家督を譲り隠居することとなります。甲斐国に戻った後は、徳川領の武蔵国府中で蟄居させられました。こうして長政は豊臣政権の中枢から失脚してしまったのです。
真壁藩初代藩主
慶長5年(1600)、ついに家康と三成が激突する関ヶ原の戦いが行われます。長政は家康側に味方し、家康の後継者となる徳川秀忠に従いました。長政自身は決戦には間に合わなかったものの、家督を継いでいた幸長は東軍の先鋒として岐阜城を落としています。この功績が認められ、幸長は紀伊国和歌山37万石に加増移封されました。長政は江戸幕府が成立すると、家康に近侍し、江戸で暮らしています。慶長11年(1606)には隠居料として常陸国真壁5万石を与えられ、真壁藩初代藩主となりました。
慶長16年(1611)、長政は病没し、真壁藩は三男の長重に引き継がれます。そして長重の子、長直の代になって播磨国赤穂藩に転封となるのです。この子孫が浅野内匠頭です。長政の長男、幸長の子孫は安芸国広島藩藩主として幕末まで存続していくこととなります。
おわりに
秀吉の義兄弟として、その天下統一に大いに貢献した長政。しかし、残念ながら長政の死後、豊臣は家康によって滅ぼされてしまいます。もし長政が生きていたら、必死になって和解の道を探したかもしれません。淀殿も豊臣秀頼も、長政の声であれば聞き入れたのではないでしょうか。そもそも、秀吉没後に三成ではなく長政がリーダーシップを発揮して豊臣政権を支えていれば、家康との関係もうまく保てたのではないかと推測してしまいます。それを見越して家康は早々と長政を失脚させたのではないでしょうか。秀吉亡き後の豊臣政権存続の鍵を握っていたのは、長政だったことに間違いはないでしょう。
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