堺事件 毛唐ども侍の死にぎわをとくと見よっ!
- 2023/11/30
言葉が通じぬ者同士の行き違いから、双方に多数の死傷者を出してしまった堺事件(1868年)。この不幸な事件は土佐藩士11人の切腹を以って贖われました。
振り回された挙句、堺の街の警備に就く土佐藩六番隊
「お奉行様、大変でございます。なにやら大勢の毛唐たちが大声で話しながら街中をのし歩いております。女子供が怖がってなりません」
その事件の一報はこのようなものでありました。知らせを受けたのは、大坂堺奉行所で街の警備についていた土佐藩士を率いる警備隊長・箕浦猪之吉(みのうら いのきち)でした。なぜ土佐藩士が堺の街の警備をしていたのか、これにはちょっとしたイキサツがありました。
戊辰戦争の緒戦「鳥羽・伏見の戦い」があったのが、慶応4年(1868年)1月3日から6日まで。直後の9日に新政府側として戦っていた箕浦は、土佐藩6番隊を引き連れて京都から淀城へ向かいます。新政府軍総裁・仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみやよしあき)親王の警護をするためです。
しかし夜になって箕浦たちが淀城に着いた時には、親王はすでに大坂に向かわれた後でした。
箕浦:「仕方がない、我々も宮の後を追って大坂へ向かおう」
軍監・林茂平の判断で翌早朝に箕浦たちも大坂へ向かいます。しかしまたもやです。
「宮の警固は我ら薩摩藩が命じられている。貴殿らは引き上げられるが良かろう」
箕浦たちの知らないところで、宮の警護は薩摩藩兵に代わっていました。
行き場を失った6番隊に今度は堺の街の警備が命じられます。堺は徳川幕府大坂町奉行の支配下でしたが、1月の大坂開城と戊辰戦争の混乱の中、奉行所の役人たちは逃げ散ってしまったのです。
フランス海軍艦艇「デュプレクス号」
1月11日、箕浦たちは堺の街にやって来ましたが、あちこち振り回され、箕浦はこの時点でかなり苛立っていました。そこへもってきて同日にさらに苛立たせる神戸事件まで発生します。これは西国街道を進んでいた備前藩の隊列を、フランス人水兵が無理に横切ろうとして非礼を怒った藩士が槍を持って制止、お互いに言葉が通じずに小競り合いが銃撃事件にまで発展してしまったものです。このとき箕浦はまさか自分自身が同じような事件の当事者になろうとは思いもしなかったでしょう。
慶応4年(1868年)2月15日、フランス海軍の艦艇「デュプレクス号」が泉州堺港沖に錨泊していました。町人が「異国の船がやって来たぞ」と騒いでいるうちは良かったのですが、やがてフランス人水兵が端艇で堺港に入港、ぞろぞろと船を降りて堺の街をうろつき始めます。
当時、外国人が日本に上陸するにはそれなりの手続きが必要でしたが、このフランス人たちはそのような事はお構いなしでした。
箕浦:「仕方がない、わしが行こう」
知らせを受けた箕浦は、八番隊長の西村左平次とともに、隊士を引き連れて現場に急行します。見れば数十名ものフランス人 水兵が我が物顔に街を物珍しそうに歩いています。
箕浦:「女子供が怖がるのも無理はない。お前たちは船へ戻れ」
言葉が通じぬ悲しさ、小競り合いが始まる
箕浦は懸命に呼びかけますが、不幸なことにこの時双方に相手の言葉がわかる者が一人もいませんでした。やむなく箕浦は、フランス兵たちを奉行所に引っ立てるよう部下に命じます。体に手を掛けられて驚いたフランス兵は、抵抗したり逃げ出そうとしたりで混乱しますが、そのうちの一人が立てかけてあった土佐藩隊旗を奪い取ります。そのうち端艇から銃を持って来たフランス兵が箕浦たちに発砲、箕浦も応戦を命じて堺の町中で銃撃戦が始まりました。
双方に幾人もの死傷者が出ましたが、フランス側は弾に当たったり海中に転落したりして11名が死んだと主張。フランス公使レオン・ロッシュは明治新政府に対し、損害賠償と加害者である土佐藩士の断罪を要求します。
神戸事件と時を同じくしてまたしても起こった事件、しかも相手は同じ列強の大国フランスです。慌てた新政府は事件の解決を急ぎ、賠償金15万ドルと箕浦以下20人の土佐藩士をフランス士官の眼前で切腹させることで決着を図ろうとします。最初フランスは刑死を求めましたが、日本側は箕浦たちの行いは自らの任務を果たそうとしたからであるとして、武士の名誉ある死としての切腹は譲りませんでした。
小雨に煙る堺・妙国寺境内
土佐藩の役人が箕浦たちを取り調べ、次々に29人の者が国の尊厳を守るために発砲したと名乗り出ます。その中から隊長箕浦以下20人の処罰が決まります。2月23日、雨が降りしきる堺 妙国寺に広島・熊本両藩の藩士が付き添い、腹を切った時血の色が目立たぬように、と黒っぽい死に装束に身を包んだ箕浦たちが現れます。境内に設けられた切腹の場には日本検使とフランス海軍士官たちが並んで座り、夕刻に箕浦が最初にその場に付きます。彼は辺りに一礼し、左脇腹を3度ばかりさすった後、短刀の切っ先を腹に突きたて、一文字に横へ切り裂き、己の手ではらわたを掴みだしてフランス士官たちに付きつけました。
これは戦国時代、羽柴秀吉に文字通り、詰め腹を切らされた織田信雄も、同じようにはらわたを掴みだす切腹を行なったと伝わります。これは己の心に恥じることの無いのを相手に見せつけるための行為だとされます。腹を切った激痛の中、本当にそんなことが出来たかどうかは疑問ですが…。
ともあれ、武士の切腹の凄まじさを初めて目の当たりにしたフランス人たちは、動揺を隠せませんでした。続いて西村左平次が腹を切り、その後も3人・4人と進み、辺りには鮮血が飛び散り、血生臭い臭いが充満し、フランス人たちは耐え切れずに顔を覆ったり嘔吐する者まで出る始末でした。
とうとうフランス側の犠牲者と同じ、11人が腹を切ったところで、フランス軍艦デュプレクス号艦長が中止を求めます。
「これ以上の犠牲は必要ない」
同じ数の侍が命を落としたことで、フランス側の面目が立ったと思ったのでしょうか。腹を切っていなかった9人は釈放されて土佐藩に戻りました。
おわりに
現在箕浦たちが切腹して果てた妙国寺境内には、「南無妙法蓮華経」と記された碑を中央にして、左に「土佐十一烈士之英霊」右に「仏国遭難将兵慰霊碑」の碑が立っています。亡くなれば同じように祀られるのですね。向かいにある宝珠院には「とさのさむらいはらきりのば」と刻まれた石柱が立っています。寺の裏手には「土佐十一烈士墓」と書かれた立札のそばに二列に並んだ墓があり、箕浦猪之吉たちの名前が刻まれています。
【主な参考文献】
- 髙田祐介『歴史学部論集第6号 堺事件「殉難者」顕彰と靖国合祀』佛教大学歴史学部/2016年
- 合田一道『幕末群像の墓を巡る』青弓社/2014年
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