【史跡散策】楽器の街 浜松で「銅鐸」を満喫~「銅鐸の谷」を訪れる~

実は考古学の聖地、浜松

 静岡県で最多人口を誇る浜松市は日本の三大楽器メーカー(ヤマハ・河合楽器・ローランド)の本社があり“音楽の街”として有名です。

 一方で、本州で唯一の旧石器時代の人骨“浜北人”が発見されたり、これまで3体しか発見されていない“見返り鹿 埴輪”の1体が出土(他は島根県と奈良県)しています。

本州唯一の旧石器時代人骨が出た“根堅遺跡”(筆者撮影)
本州唯一の旧石器時代人骨が出た“根堅遺跡”(筆者撮影)

 そして、“銅鐸の出土地数”は、なんと市町村単位では「日本一」なのです!

 さりげなく、考古学の聖地ともいえる浜松市。今回はそんな浜松市にある「銅鐸の谷」へ行ってきました。

辺田平1号墳から出土した“見返り鹿 埴輪”(筆者撮影)
辺田平1号墳から出土した“見返り鹿 埴輪”(筆者撮影)

「銅鐸の谷」はどこにあるの?

 浜松市内の25か所で銅鐸が発見されています。そのうち7か所が浜松市北区細江町中川にある通称“滝峯の谷”に集中しています。故に、ここが「銅鐸の谷」と呼ばれるようになりました。

 現在、「銅鐸の谷」は土地開発され“細江テクノランド”と呼ばれる工場地帯になっていますが、この一角に“銅鐸公園”というおもしろそうな公園があります。

銅鐸公園にある「銅鐸の谷」の地図(筆者撮影)
銅鐸公園にある「銅鐸の谷」の地図(筆者撮影)

 この地図には6カ所しか記載されていませんが、もう1つ“コツガサヤ銅鐸”がこの谷(具体的な場所は不明)から出土していると伝わります。


ちょっとだけ銅鐸をお勉強

 銅鐸は弥生時代、主に西日本で使用されていた青銅器の一つで、祭祀に用いられた楽器(鐘)だと考えられています。しかし、時代が進むにつれ造形がシンプルな銅鐸から、大型化したり造形が立派になったりしていきます。

 佐原真氏は『才四郎谷の銅鐸』において、“音を「聞く銅鐸」が、目にも立派な「見る銅鐸」に変わっていたのである。” と説明しています。

 因みに、浜松で発見された銅鐸はその形状や大きさから中期の作品が多いです。また、銅鐸は吊り手に大きな飾耳を持つ“近畿式”と、それが無い“三遠式”に分類されますので意識して見てみるのもおもしろいですよ。


いざ、「銅鐸の谷」へ

 銅鐸公園を目指せば「銅鐸の谷」に着きます。

こんな看板が公園付近のあちこちにあります(筆者撮影)
こんな看板が公園付近のあちこちにあります(筆者撮影)

銅鐸公園に到着

 看板のとおりに進んで坂を下っていきます。「銅鐸の谷」の谷間に銅鐸公園はあるのですね。

駐車場への入り口は結構狭いので気をつけましょう(筆者撮影)
駐車場への入り口は結構狭いので気をつけましょう(筆者撮影)

 銅鐸公園は“滝峯才四郎谷銅鐸(近畿式)”の出土地で、発見された状態をレプリカで再現展示しています。

 谷の斜面にある階段を上っていくと・・・

階段は滑りやいのでご注意を!(筆者撮影)
階段は滑りやいのでご注意を!(筆者撮影)

 ありました!“滝峯才四郎谷銅鐸”です!

塗装が剥げて赤くなっている銅鐸のレプリカ(筆者撮影)
塗装が剥げて赤くなっている銅鐸のレプリカ(筆者撮影)
「姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」にある本物の“滝峯才四郎谷銅鐸”(筆者撮影)
「姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」にある本物の“滝峯才四郎谷銅鐸”(筆者撮影)

 「銅鐸の谷」というだけあって、本当に谷の斜面に埋めたのですね。この銅鐸は弥生時代に埋められた状態のまま発見されたので、銅鐸がどのように埋められたかがよくわかる貴重な発見だったようです。


反対側の斜面からも銅鐸が

 銅鐸公園と反対側の斜面からは“穴の谷銅鐸(近畿式)”が出土しています。今は工場が建ち、出土地は消滅しています。

「姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」にある本物の“穴の谷銅鐸”(筆者撮影)
「姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」にある本物の“穴の谷銅鐸”(筆者撮影)

実物は東京にある“悪ケ谷銅鐸”出土地へ

 銅鐸公園を出て、そのまま坂を下りきると、左側に説明板が建っています。ここが、鹿と鳥の絵が描かれた“悪ケ谷銅鐸(三遠式)”の出土地です。

説明板の後ろに見える斜面から発見されたそうです(筆者撮影)
説明板の後ろに見える斜面から発見されたそうです(筆者撮影)
「東京国立博物館」にある本物の“悪ケ谷銅鐸”(筆者撮影)
「東京国立博物館」にある本物の“悪ケ谷銅鐸”(筆者撮影)

 なお、滝峯七曲り1号銅鐸(近畿式)、2号銅鐸(三遠式)と不動平銅鐸(近畿式)の出土地は、木がうっそうと生える森の中なので、遠くから眺めて雰囲気だけお楽しみください。


「姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」にも寄ってみる

 「銅鐸の森」から5kmほど離れた浜松市北区細江町気賀に「姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」があります。ここは浜松市内で発見された7個の実物銅鐸と1個のレプリカ銅鐸が展示されています。

「姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」は“細江神社”の隣にある(筆者撮影)
「姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」は“細江神社”の隣にある(筆者撮影)

その前にちょっと寄り道

 「銅鐸の谷」から「姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」に行く途中、天竜浜名湖鉄道の岡地駅手前にある都田川の橋に寄りました。

 ここは船渡1号銅鐸と2号銅鐸(ともに三遠式)が出土した場所です。

この川岸で銅鐸が発見された(筆者撮影)
この川岸で銅鐸が発見された(筆者撮影)

 この船渡銅鐸を少し紹介します。

 1号銅鐸は東京大学総合資料館に保管されています。一方で、2号銅鐸はドイツのベルリン博物館所蔵でしたが現在は所在不明だそうです。

 私はこの2号銅鐸の写真を見ましたが、とてもシンプルな形状ながら綺麗な三遠式銅鐸で、現在フランスのギメ美術館にある銅鐸がそれではないかと思っています。

 ただし、ギメ美術館の銅鐸は出土地不明(伝遠江)で、浜松市も船渡2号銅鐸とは別物と説明しています。

 なお、浜松市の三方原から江戸時代に出土した三遠式銅鐸も所在不明なので、これがギメ美術館の銅鐸かも??


「姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」でたっぷり銅鐸を満喫

 なんと入館料は驚きの0円!それでは銅鐸が展示されている2階へ上がりましょう。

ズラリと並んだ銅鐸たち(筆者撮影)
ズラリと並んだ銅鐸たち(筆者撮影)

 事務室でお願いすると、銅鐸の説明をしてくれます。マニアックな話もしてくれて、歴史好きにはたまらない内容でした。

★資料館の方のお話 その1
 “滝峯才四郎谷銅鐸”の表面をよく見ると、一部“修復”されている跡があります。これは、発掘された後に修復したのではなく、“弥生時代の人によって修復”された跡だそうです。

 製造時にミスったのか、使用中に割れたのかは不明ですが、周りの文様と同じになるように修復されていますね。銅鐸が当時の人から大切にされていた物だった証明として大発見だったようです。

当時の人の想いが伝わる修復跡(筆者撮影)
当時の人の想いが伝わる修復跡(筆者撮影)

★資料館の方のお話 その2
 現在見ることのできる銅鐸の色は大きく分けて「青緑色」と「黒っぽい鉛色」の2種類です。

 もともと銅鐸は銅と錫の合金でできた「青銅(新品の10円玉みたいな色)」で、通常は青緑色に錆びますが、錫の量を増やすと黒っぽい鉛色に錆びるそうです。

 これは他の青銅器も同じなので、青銅器を見る際は現在の色にも注目してみるとおもしろいですね。

★資料館の方のお話 その3
 銅鐸公園のレプリカは2代目です。

 初代レプリカは本物同様の材質を用いて作られたのですが、なんと盗難に遭ってしまいました。そこで、地元の彫刻家である岡田力三氏が作った塑像が2代目レプリカとして今は設置されています。

 上でお見せした写真の塗装が剥げて赤くなった銅鐸がこの2台目なんですよ。


最後に

 「姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」の横に見える山の裏手に小野銅鐸(三遠式)、ミカンで有名な三ケ日には山田銅鐸・猪久保銅鐸(共に近畿式)・荒神山銅鐸(三遠式)の出土地があり、車なら30分程で行けます。

 また、JR「天竜川駅」北口周辺の2ヵ所から銅鐸片が見つかっていますし、歩いて10分程の貴船神社横からも2つの銅鐸が発見されています。

 その他、伝承等を加えると冒頭でも書いた通り25ヶ所から銅鐸が発見されています。

 さすが“楽器の街”浜松、楽器生産は弥生時代から盛んだったのでしょう。

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  この記事を書いた人
まつおか はに さん
はにわといっしょにどこまでも。 週末ゆるゆるロードバイク乗り。静岡県西部を中心に出没。 これまでに神社と城はそれぞれ300箇所、古墳は500箇所以上を巡っています。 漫画、アニメ、ドラマの聖地巡礼も好きです。

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