災いを呼ぶ厄神の歴史

『怪談夜更鐘』に描かれた疫病神(出典:wikipedia)
『怪談夜更鐘』に描かれた疫病神(出典:wikipedia)
 貧乏神や疫病神(厄病神/やくびょうがみ)。一般に人へ災いをもたらす神として知られる悪神を、まとめて厄神(やくじん)と呼ぶことがあります。

 疫病神は、人に病気をもたらす神のこと。貧乏神は、訪れた家を貧乏にしたり、災いをもたらしたりする神をさします。いずれにしても厄神は、人々から疎まれながら、神という立場にあって人々に祀られる存在でもありました。

 なぜ、厄神は生まれたのでしょうか。そして今日に至るまで、どのようにして祀られてきたのでしょうか。今回は厄神の歴史をたどりつつ、災いを目に見える形とした、かつての日本人の心を読み解いていきます。

厄神の歴史

 厄神の「厄」とは、苦しみや災いのこと。古くから人々は厄神を深く畏れ、敬うことで厄を遠ざけようとしてきました。

疫病神(厄病神)

 疫病は、短い期間に大流行して多くの死者を出す感染症のことです。特に医療が発達していない時代には、今以上に脅威とされる存在でした。

 疫病神は、いつから神として祀られるようになったのでしょうか。実は『古事記』と『日本書紀』には、既に疫病のことが記されています。

 『古事記』では「伇病(えやみ)」、『日本書紀』では「疾疫(えのやまい)」と記され、崇神天皇5年(紀元前93)の時代に、民の半数が亡くなるという事態が起こりました。

 『日本書紀』によると、その病災は、天皇のところで祀られていた天照大神(あまてらすおおみかみ)と倭大国魂(やまとのおおくにたま)という神が同じ場所にいるからだと分かり、この二柱の神を別々のところで祀ろうとします。

 しかし、倭大国魂を祀ろうとしていた姫が衰弱してしまったため、天皇がその理由を占うと、大物主大神(おおものぬしおおかみ)からの託宣があり、指示通りにすると疫病はおさまりました。

 つまり、神の祟りによって疫病が起こったため、正しく神を祀ったところ、これが鎮まったと当時の人々は考えたのです。

 それから時は下って古墳時代後期、欽明天皇の世では、仏教の伝来にともなって蘇我氏と物部氏の争いが起こり、疫病の流行を理由に仏像が捨てられるという事態が発生します。

 次の代である敏達天皇の頃には、仏像を燃やした罪で天皇などが疫病にかかったという噂が立ち、蘇我馬子が廃仏派を一掃したことによって、仏教を尊ぼうという風潮が広がっていったと考えられています。

 古代の歴史書に記された出来事の真偽については疑問が残りますが、奈良時代という昔から、神仏が疫病の蔓延に関わっていると考えられていたことは間違いなさそうです。

 こうした流れから、流行り病が広まる=神の祟り、という概念が生まれて、疫病神という存在が形づくられていったのではないでしょうか。

貧乏神

 貧乏神は、居ついた家に貧乏をもたらすとされる神です。「大歳(おおとし/おおどし)の客」と呼ばれる昔話には、世間一般に知られるイメージの貧乏神が登場します。

 「大歳の客」は、物乞いに身を変えた歳神が、大晦日に貧乏な家を訪れた際、とても親切にされたのでお礼に黄金や小判などを与えたのに対し、冷たくあしらわれた強欲な金持ちの家には不幸が襲いかかった……といったあらすじで、全国的に広く言い伝えられています。

 この昔話に登場する貧乏神は、貧しい身なりで、ひどく痩せた老人の姿をしています。また「大歳の客」以外でも、貧乏神が居ついた家の者が手ひどく扱えば貧乏なままだけれど、貧乏神をもてなしたり、丁重に扱ったりすれば家が裕福になるといったお話は、今日でも多く語り継がれています。

 こうした物語の普及を受けてか、江戸時代においては、随筆などに貧乏神が登場することもありました。

 江戸時代のベストセラー作家、井原西鶴が書いた『日本永代蔵』「祈る印の神の折敷」では、いつも人々から虐げられていた貧乏神が、とある貧しい家で祀られ、精一杯の歓待を受けたことに感激し、富をもたらすというお話が描かれています。

 これらのことから、貧乏神がただ災いをもたらすだけではなく、福を授けてくれる存在でもあることがわかります。

 現代での貧乏神は、ゲームやマンガなどで、主人公に損をさせるキャラとして親しまれています。悪神でありながら、どこか憎めない。そんな特徴が、現在まで受け継がれている気がしますね。

 疫病神は、おそろしい神の祟りという側面を持つ存在。一方、貧乏神は祀られてから去ると福を授けてくれる存在。そう考えてみると、厄神も、それぞれに多様な歴史を持っていることがわかります。

厄神はどのように祀られているのか

 厄神は、神社などで祀られているものと、特定の期間だけ家などで祀られているものがあります。

 たとえば、東京都文京区にある北野神社の末社・太田神社では、明治以前まで、貧乏神と同じ側面を持つとされた黒闇天(黒暗天/こくあんてん)が祭神として祀られていました。

 その由来は、正直者の旗本の家に長い間住みついていた貧乏神が、そのお返しに「自分を祀れば福を呼び込む」とお告げをしたことによります。

 黒闇天は仏教における神の一柱で、「涅槃経」などによると、福の神である吉祥天の妹とされており、吉祥天は黒闇天を連れて家を訪ねてくるといいます。

 これは前章で述べた通り、悪い面と良い面が重なりあう、「禍福(かふく)は糾(あざな)える縄の如し」という考え方にもつながります。

 特定の期間だけ祀られる厄神については、大晦日から正月にかけて厄神を迎え、送り出すという「厄神の宿」と、夏に害虫と同時に疫病を祓い退ける「虫送り」が代表的です。

 このようにして厄神は、人々の生活に肉薄しながら、歓待され退けられるという、少し変わった祀られ方をする神さまとして敬われてきたのでした。

 災いをもたらす存在を、ただ拒絶するのではなく、神として祀った上で、出て行ってもらう。古代の人々の心には、得体のしれない脅威、人智をこえた荒ぶるものに対する畏敬の念が、深く根づいていたのでしょうね。

コロナも神格化!生まれ続ける厄神

 近年、世界的な大流行となった新型コロナウイルス。そのコロナを神として祀った神社が、千葉県香取市の山倉大神(おおがみ)です。

 もともと疫病退散祈願の神社として知られていた山倉大神では、令和3年(2021)に、疱瘡(ほうそう)神の石祠とともにコロナ神の石祠が祀られ、合祀祭が営まれました。

 疱瘡神とは、天然痘をつかさどる神のこと。天然痘は8世紀の奈良時代から日本に広まったとされる感染症です。天然痘を防ぐ種痘法が日本で広まる江戸時代後期より前、天然痘は致死率の高い、恐るべき流行り病でした。

 奈良時代、奈良県の東大寺において大仏が建立された理由のひとつとして、天然痘の大流行があったことも知られています。

 天然痘で死亡した最古の例は、紀元前1100年頃のエジプトまで遡りますが、昭和55年(1980)には、WHOより天然痘の撲滅宣言が出されました。

 こうして天然痘は、人類が初めて根絶できた感染症となったのです。

 そんな疱瘡神の隣にコロナ神が祀られたように、これからも日本では、さまざまな厄神が生まれていくのかもしれません。

おわりに

 疫病や不作、天災などの災害に悩まされていた近代までの日本と、新型コロナウイルスによってパンデミックに陥った現代日本。かつて日本の人々は、災いのもとを厄神としてあがめ、追い払うことでこれを鎮めようとしました。

 新型コロナウイルスが流行した当初、「アマビエ」と呼ばれる疫病封じの妖怪が話題になったのも、日本ならではという感じがしますね。

 全世界では今も、研究者や医療関係者の方々が力を尽くしてくださっていますが、新型コロナウイルスをはじめとして、根絶できる感染症が増えていくことを祈っています。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
なずなはな さん
民俗学が好きなライターです。松尾芭蕉の俳句「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」から名前を取りました。民話や伝説、神話を特に好みます。先達の研究者の方々へ、心から敬意を表します。

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