新田義貞3人の子息 南朝武将として戦い抜く
- 2024/05/09
新田義貞には長男・新田義顕(よしあき)、次男・新田義興(よしおき)、三男・新田義宗(よしむね)の3人の子息がいて、いずれも南朝の有力武将として活躍しました。知名度では父・義貞に及びませんが、義興と義宗の活動は父よりもかなり長期間にわたりました。一度も北朝に寝返ることがなかったのも新田父子の特徴です。特に文和元年(1352)の武蔵野合戦では、足利尊氏を追い詰め、自害を覚悟させるほどでした。3兄弟の戦いぶりをご紹介します。
長男「新田義顕」越前・金ケ崎城の攻防
新田義貞の長男・新田義顕(1317?~1337年)は、系図によって死亡したときの年齢が18、19、21歳とばらつきがあり、生まれは文保元年(1317)、元応元年(1319)、元応2年(1320)と諸説あります。幼名は辰千代、通称は小太郎です。
源義国
┏━━━━━┫
足利義康 新田義重
┃
(数代略)
┃
義貞
┏━━┳━━┫
義宗 義興 義顕
義顕の母は得宗被官・安東氏
新田義顕の母は安東聖秀の姪。『太平記』に義貞の妻の伯父として安藤左衛門入道聖秀が登場します。また、史料により「安東」とも「安藤」とも書き、系図では、安藤左衛門五郎藤原重保の娘とか、安東左衛門入道の養女とされます。つまり、安東重保の娘が、伯父の安東聖秀の養女なったようです。いずれにしても、安東一族は長崎円喜と同様、執権・北条氏直属の家来「得宗被官」。新田義貞は元弘3年(1333)に鎌倉幕府を直接攻撃しますが、もともと北条氏との関係は密接だったのです。
『太平記』によると、義貞の鎌倉攻めの際、鎌倉を守る北条氏の軍勢の中に安東聖秀もいました。義貞正室の使いが助命を約束する義貞の書状を渡します。正室の書状も添えられていましたが、安東聖秀は降伏を受け入れません。
安東聖秀:「(降伏を勧める)義貞夫妻は似たような者で嘆かわしい」
使者の前で腹を斬り、得宗被官として北条氏への忠義を貫きました。
武者所の一番頭人、越後守
後醍醐天皇の建武の新政がスタートしたとき、論功行賞で、新田義貞に上野、播磨、新田義顕に越後、義貞の弟・脇屋義助に駿河が与えられます。足利尊氏には武蔵、常陸、下総の3カ国、その弟・足利直義には遠江が与えられていて、源氏嫡流とされた足利尊氏、直義兄弟と並び、新田一族で4カ国を得ているのです。義貞が鎌倉を攻撃、幕府を直接滅ぼしたことが大きく評価され、位階は尊氏が従三位、義貞が従四位上、義顕が従五位上と差を付けられていますが、若い義顕も新田一族を代表するメンバーの一人として扱われています。新田義顕は武者所の一番頭人にも就きました。武者所は京の治安を守る組織。一番から六番の6隊編成で、頭人は各隊のトップ。新田一族が多数登用されました。
その後、足利尊氏は後醍醐天皇に反目、新田勢は後醍醐側の主力として足利勢と戦います。建武3年(1336)1月、足利勢を迎え撃った大渡・山崎の戦いでは、新田義顕は3000騎を率いていましたが、敵に囲まれては脱出するという危機一髪の状況に何度も陥り、負傷し、鎧の袖、兜のしころも切り落とされながら、かろうじて京に帰り着きます。
父に先立ち、金ケ崎城で戦死
建武3年10月、新田義貞は恒良親王(後醍醐天皇第5皇子、皇太子)、尊良親王(同第1皇子)を奉じ、京を離れて北陸へ。越前・金ケ崎城(福井県敦賀市)を拠点に抵抗を続けます。いったん金ケ崎城を脱出した新田義貞は杣山城(福井県南越前町)で態勢を立て直そうとしますが、足利勢・斯波高経の厳重な包囲に金ケ崎城を救出できません。建武4年(1337)3月6日、ついに金ケ崎城は落城。徹底した兵糧攻めで抵抗する力は既に奪われていました。
義顕:「戦況はこれまでと思われます。われらは武士として名を惜しむ家に生まれた者であり、自害しますが、宮さまは敵の中にお出になられても、まさかお命を奪い申し上げることはありますまい」
尊良:「股肱の臣なくして首領が存在し得るであろうか。私もこの命を刃の上に縮め、仇をあの世で報いようと思う。自害はどのようにするのが良いのか」
新田義顕と尊良親王は自害し、恒良親王は足利勢に捕らえられました。
次男「新田義興」尊氏追い詰めた武蔵野合戦
新田義貞の次男・新田義興(1332?~1359年)は享年28歳とする系図を信じれば、元弘2年(1332)ごろの生まれとなり、兄・新田義顕とは15歳ほどの年齢差です。幼名・徳寿丸。母は上野国一宮、貫前神社(群馬県富岡市)の神官の娘とされています。父・義貞は建武5年(1338)、越前で戦死し、鎌倉幕府滅亡からわずか5年で姿を消しますが、義興はその後20年間も足利勢と戦い続けます。
幼名での出陣、吉野で元服?
『太平記』では、建武4年(1337)、北畠顕家が奥州勢を率いて京へ進撃する際、新田義興も挙兵。このときは6歳くらいのはずで、幼名・徳寿丸での登場でした。武蔵・府中で北畠顕家に合流、鎌倉を攻めます。続く暦応元年(1338)、義興は北畠顕家に従って西に進みます。討ち死にした顕家とはどこで別れたかは不明ですが、吉野で後醍醐天皇の前で元服。「義貞の家を興す者」と、諱(いみな、実名)「義興」もここで決まります。また、北畠顕家死後、南朝勢力が立て籠もった石清水八幡宮が放火され、炎上しますが、義興も籠城していたようです。どうやって脱出したのか、その後は東国に戻って活動。暦応4年(1341)には常陸にいて、北畠親房(顕家の父)と連絡を取り合っています。
電撃作戦の鎌倉攻め
観応3年(1352)閏2月、新田義興は弟・新田義宗、従兄弟・脇屋義治(脇屋義助の子)とともに上野国で挙兵します。『太平記』以外の史料では、閏2月15日か16日に上野で挙兵し、18日には鎌倉入りする超電撃作戦です。鎌倉にいた足利尊氏は攻められる前に敗走。石浜の陣(東京都荒川区)で自害も覚悟したといいます。しかし、尊氏はここから巻き返し、義興、義宗を個別に撃破することで窮地を脱します。義興と脇屋義治は鎌倉を攻略しながら、維持することはできずに撤退。その後は1年ほど相模・河村城(神奈川県山北町)で籠城。落城後は甲斐に逃れました。
なお、新田勢は文和2年(1353)~文和4年(1355)に越後で足利勢への抵抗を続けており、文和3年(1354)9月の挙兵には義興も加わっています。
矢口の渡での謀殺
足利尊氏が死去した翌年の延文4年(1359)10月、新田義興は関東に入ります。『太平記』によると、潜伏先の越後から密かに武蔵に入った義興ですが、関東管領・畠山国清がその動きを察知し、捜索に乗り出します。義興を逮捕できず、焦った畠山国清は、義興の旧臣だった竹沢右京亮を使って罠を仕掛けますが、うまくいきません。竹沢は江戸遠江守、その甥の江戸下野守を仲間に加え、さらに手の込んだ謀略を仕掛けます。
竹沢、江戸は領地を没収されたとして、畠山国清討伐を義興に依頼。義興は家臣を引き連れて鎌倉へ向かいますが、多摩川を渡る矢口の渡しで舟が沈みます。買収された船頭が舟底の穴をふさぐ栓を抜いて川に飛び込み、逃げました。
竹沢ら:「愚かな者どもだ。はかりごととも知らずに」
川岸では竹沢、江戸の兵が嘲笑。そして義興は最期のときを迎えます。
義興:「悔しいことだ。日本一卑怯な者に騙されてしまった。7回生まれ変わっても恨みを晴らすぞ」
義興は無念の自害。ともに自害した家臣もいれば、泳いで岸の敵兵に飛び込んで斬り合いをした家臣もいました。
謀殺された義興ですが、宿敵に対する恨みはすさまじく、怨霊となって討ち果たします。まず、江戸遠江守は新領地に向かう際、矢口の渡しで暴風雨と雷に遭い、迎えの舟は沈み、しかも義興の亡霊に肩を射抜かれ落馬。7日間悶絶して死亡します。
畠山国清は、夢に義興の亡霊が出てきて、牛頭、馬頭を率いて鎌倉公方・足利基氏を攻めようとします。目覚めた畠山国清がこの話を終えないうちに落雷で住宅300棟、仏閣など数十カ所がいっぺんに灰燼に帰す怪奇現象が起きました。その後、畠山国清は失脚しますが、これも義興の亡霊が吉野に現れて「畠山入道を義興が手にかけ、生きながらに恥を晒してやろうと思っています」と宣言した通りになったのです。
矢口の渡しの近くには今、新田義興を祀った新田神社(東京都大田区)があります。
三男「新田義宗」越後拠点に抵抗続ける
6歳で昇殿 義貞を継ぐ
新田義貞の三男・新田義宗(?~1368年?)は兄・新田義興との年齢差はあまりないと思われます。母は常陸・小田氏。小田氏は宇都宮氏と同族の八田氏嫡流で、常陸・小田城(茨城県つくば市)を拠点としていました。義宗は6歳で昇殿。幼少期、父・義貞について京にいた時期があったのかもしれません。義興より官位も高く、新田義貞死後、長男・義顕は既に死んでおり、家督を継いだのは次男・義興ではなく、三男・義宗だったようです。
新田義宗は暦応3年(1340)8月、越後の南朝勢を率いて信濃進出を図るなど、このころから越後で活動。越後には鎌倉時代の進出した親族が多かったのです。
観応3年(1352)閏2月の武蔵野合戦で義宗の兵は足利尊氏直属の花一揆と対戦。花一揆は尊氏側近・饗庭(あえば)命鶴丸を大将とする一団で、鎧を華美に飾り、兜に梅の花をさしていました。義宗が差し向けた児玉党の一団が花一揆の若武者を蹴散らし、足利軍は混乱して後退します。
義宗:「尊氏こそ朝敵であり、父の仇。今、尊氏の首を取らずして、いつできようか」
義宗は方々にバラバラになって撤退する敵には目もくれず、尊氏本陣を追いますが、取り逃がします。義宗は笛吹峠(埼玉県鳩山町、嵐山町)に陣を敷きますが、鎌倉に攻め込んだ弟・新田義興、従兄弟・脇屋義治とは合流できず、尊氏との再戦に敗れました。義宗の敗退で、鎌倉を攻略した新田義興にも兵は集まらず、早々に鎌倉を退去。一度は敗れても、態勢を立て直し、冷静に敵の兵力を判断して先に義宗に対応した尊氏の思惑通りでした。
義宗は越後に引き揚げますが、文和2年(1353)10~11月、脇屋義治や宗良親王とともに挙兵するなど、その後も越後を拠点に抵抗を続けました。
最後の挙兵と義宗の戦死
応安元年(1368)7月、新田義宗は従兄弟・脇屋義治とともに越後・上野国境で挙兵します。前年から関東公方・足利基氏死去、一揆や宇都宮氏綱の謀反など関東管領・上杉氏に反発する動きがあり、南朝側としては関東の混乱に乗じて勢力回復を狙い、新田勢の挙兵を促したのかもしれません。しかし、関東管領・上杉憲顕が長男・憲将、次男・能憲、三男・憲春を差し向けて鎮圧。義宗は討ち死にし、脇屋義治は出羽に逃れます。また、新田勢追討のため千葉、宇都宮、小山、結城の名族が出陣したとする史料もありますが、宇都宮氏綱は関東混乱の張本人だし、この年の軍忠状史料は関東の一揆や宇都宮討伐に関するものはあっても、義宗の挙兵に対応したものがないという矛盾があります。義宗の挙兵が小規模、または挙兵前に追討されたとする見方もあります。また、義宗の戦死を応安2年(1369)とする史料もあります。
おわりに
南朝の有力武将が次々と倒れるなか、新田義興、義宗の活動は長期間、足利尊氏をはじめ室町幕府側を悩ませました。2人は少年期から戦場を駆け、兄の新田義顕も若くして戦場に散り、3兄弟は父・新田義貞同様、一生を足利氏との戦いに捧げました。新田氏と足利氏はともに源氏名門の同族ながら宿命のライバル。3兄弟以降の新田氏は本領も失い、史料も少ないのですが、各地に隠れ住みながら足利氏に対する抵抗を続けていたようです。
【主な参考文献】
- 兵藤裕己校注『太平記』(岩波書店、2014~2016年)岩波文庫
- 久保田順一『新田三兄弟と南朝』(戎光祥出版、2015年)
- 田中大喜『新田一族の中世』(吉川弘文館、2015年)
- 亀田俊和、生駒孝臣編『南北朝武将列伝 南朝編』(戎光祥出版、2021年)
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄