【千葉県】大多喜城の歴史 中世と近世が渾然一体となった房総随一の城

大多喜城天守閣
大多喜城天守閣
 いすみ鉄道大多喜駅から歩いて5分ほどの丘陵上に、3層4階の模擬天守を持つ大多喜城があります。その規模は房総地方随一とされ、あの徳川四天王のひとり、本多忠勝が入城したことでも知られていますね。

 室町時代に築城された大多喜城は、まさに戦国乱世と近世の発展を見てきた城です。歴代城主の事績とともに、その興亡の歴史をひも解いてみたいと思います。

真里谷武田氏によって築かれる

 房総半島で勢力を築いた上総武田氏は甲斐武田氏と同族とされますが、長南と真里谷の2系統がありました。そのうち真里谷城主だった真里谷信興の三男・信清が、大永元年(1521)に初めて大多喜に城を築いています。

 当時は小田喜もしくは小滝と呼ばれており、「大多喜」と改称するのは近世以降のことです。ただし信清はその4年後に隠居しており、真里谷武田氏には真里谷城があったことから、信清の隠居城として築城されたという説もあるのだとか。

 本来なら中世大多喜城は「小田喜城」と呼ぶのが正しいのですが、ここでは大多喜城で統一させて頂きます。

大多喜城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

 その後、真里谷武田氏は混乱の時期を迎えました。信清の嫡男・信応と、庶兄の信隆が家督をめぐって争い、北条氏や里見氏が介入したことから、上総は大いに乱れたといいます。いっぽう大多喜城は真里谷直信が支配していました。直信については記録が残っていないため、信清の子なのか?それとも同族に過ぎないのか?判然としないそうです。こちらは小田喜武田氏と呼ばれ、信隆を支える立場となっています。

 やがて直信の跡を継いだのが真里谷朝信でした。『正木家譜』によれば、「朝信ハ義豊ノ母方ノ続キ也」とありますから、里見義豊の縁者ということになります。義豊は里見氏の家督を継ぐも、叔父の里見実堯と争って自害に追い込まれました。それゆえ朝信は里見氏と対立することとなり、悲惨な結末を迎えてしまうのです。

大多喜の支配権が小田喜武田氏から正木氏へ移る

 小田喜武田氏の勢力は天津・興津・勝浦へ及び、里見氏の重臣・正木時茂の領地と接するようになります。こうなると互いの勢力がぶつかり合うのは必然でした。後世の軍記物語によると、天文13年(1544)に川原の戦いで朝信が敗死。大多喜城は正木氏の手に落ちたことにされていますが、もちろん確証はありません。

 ただ天文11年(1542)に時茂の弟・時忠が、勝浦地域に賦課した年貢の割符状が残っていること、そして東長寺の住職へ法衣を寄進していることから、その前後に支配権が小田喜武田氏から正木氏へ移ったものと考えられます。

 とはいえ時茂が大多喜へ移ろうにも、正木氏はよそ者に過ぎません。そこで統治を進めるために吉田・上野・真田といった地元国衆たちを登用し、さらに真里谷武田氏の一族などを加えたうえで、「小田喜衆」を組織させました。

 こうして大多喜城は正木氏の支配下となりますが、当時はいったいどんな城だったのでしょう?真里谷・正木時代、そして次の里見氏が支配した時期を通じて、おおむね変化はなかったと考えられますが、石垣を用いない典型的な中世城郭だったようです。

 従来まで、中世大多喜城と近世大多喜城はまったく別の場所にあるとされてきましたが、大多喜城の北西地域を発掘調査した結果、大規模な中世城郭遺構が見つかっています。

 現在の本丸より遥かに広大な曲輪が造成され、大規模な切岸や土塁・腰曲輪などで厳重に防御されており、蛇行する夷隅川が外堀の役目を果たしていました。また模擬天守が立つ本丸や二の丸の辺りまで城域が広がっていたと推測されています。

 つまり戦国時代の大多喜城は、二つの尾根全体を城域とした巨大なものであり、近世大多喜城もその一部だったということ。のちに本多忠勝が入城した際、城を大規模改修するのですが、あまりに広すぎたことから、半分しか改修できなかったという状況が想像できます。

 現在見られる大多喜城は、中世城郭そして近世城郭それぞれの特徴を併せ持った特異な城だと言えるでしょう。

城内で謀殺された正木憲時

 ちなみに時茂は「槍大膳」として知られた猛将です。東上総を奪い取ると下総まで席巻し、正木氏の全盛期を築き上げました。やがて時茂が永禄4年(1561)年に没すると、跡を継いだのが信茂です。

 しかし永禄7年(1564)の第二次国府台合戦において信茂が戦死。さらに余勢を駆った北条氏が内房地域へ進出し、亡き時茂の弟・時忠までが離反しました。そんな時期に当主となったのが若い憲時です。
幸いなことに、甲相駿三国同盟の崩壊や北条氏康の死が重なったことで、北条方の攻勢を何とか撃退しています。そして天正5年(1577)、北条・里見の間で和睦が成立したことにより、上総にはつかの間の平和が訪れました。

 すると翌年、里見氏の家督争いがまたしても勃発します。当主の里見義弘が没すると、弟の義頼と嫡子・梅王丸が対立したのです。憲時はこの争いに介入し、梅王丸を積極的に支援しました。これに対して義頼は佐竹氏に宛てて、「憲時の振る舞いは勝手極まりなく、このままでは反乱に及ぶだろう」と述べています。

 結果的に機先を制した義頼が勝利したことで梅王丸は廃嫡となりますが、梅王丸派に加担した憲時への憎悪は相当なものだったようです。天正9年(1581)、大多喜城二の丸において憲時が謀殺されました。明らかに義頼の差し金であり、その証拠に憲時が死んだあと、義頼は間髪入れずに大多喜城へ入城しています。

徳川四天王・本多忠勝が入城する

 憲時が暗殺されたのち、義頼は息子の一人に正木氏の名跡を継がせて、正木時茂と名乗らせました。ただ幼少だったことから、城代として正木頼房が任命されています。頼房は亡き憲時の弟だとされますが、里見方に加担したことで優遇されたのでしょう。

 こうして大多喜には平和な時代が訪れますが、まもなく歴史の大きなうねりが押し寄せてくるのです。天正18年(1590)、豊臣秀吉が空前の大軍を率いて関東へ出陣し、北条氏の小田原城を囲みました。いっぽう浅野長吉・本多忠勝・平岩親吉らの率いる別動隊が上総へ上陸しています。

 しかしながら里見氏は秀吉に忠誠を誓っており、所領も安堵されているはず。なぜ軍勢が里見領内へ踏み込んできたのでしょう。その裏には里見氏の惣無事令違反があったようです。かつての小弓公方・足利義明の遺児を匿った里見義康は、軍勢を三浦半島へ送り込んで再興させる意図がありました。それが秀吉の逆鱗に触れたことで、上総と下総の没収へと繋がったのです。これは里見氏の致命的なミスとしか言いようがありません。つまり浅野らが踏み込んだ時点で、上総没収の方針は確定していたのです。

 さて小田原攻めが終わると徳川家康の関東移封が決定しました。徳川四天王のひとり本多忠勝も上総へやって来ますが、すぐに大多喜城へ入城したわけではありません。当初は万喜城へ入って兵糧を受け取り、しばらく経ってから大多喜への入封を命じられています。その裏には秀吉の意向が働いていたらしく、忠勝が10万石という大封を得たのも、里見氏への抑えを期待されたためでしょう。

 家康に対して「井伊・本多・榊原にはどれほど加増をするつもりか?」と秀吉が尋ねたところ、家康は「5万石与えるつもりです」と答えました。すると「それでは少なすぎる。10万石にせよ」と命じたという話が伝わっています。

 こうして大多喜城主となった忠勝は、伊勢桑名へ移るまで10年過ごしました。ちょうど文禄・慶長期は築城・改築ラッシュにあたり、全国で織豊系・近世城郭が登場した時期です。もちろん大多喜城も例に漏れず、大規模な改修を受けたはずですが、それを示す史料はほとんど残っていません。

 ただし、当時の状況を裏付ける書物は現存しています。それがスペイン人・ロドリゴの回顧録です。慶長14年(1609)に房総沖で難破したロドリゴの船は、夷隅郡岩和田付近に漂着しました。そして江戸へ上る途次で大多喜城へ立ち寄っているのです。

 彼が記した『日本見聞録』によれば、城内へ案内されたロドリゴ一行は、まず5メートルの高さを持つ城壁と、立派な鉄張りの門を目にしました。城は天然の地形をうまく生かした構造になっていて、要所には大小の切石を積んであります。

また城主(本多忠朝)の御殿には豊かな装飾が施され、そこで盛大な歓待を受けたそうです。これは大多喜城が、少なからず改修を受けたことを示すものでしょう。また忠勝・忠朝の時代は、城の改修より城下町の整備を優先したのでは?という説もあるようです。

 ちなみに大多喜城の絵図の中には、三層の天守を描いたものがあります。これが現在の模擬天守のモデルとなっているのですが、二層の櫓を「神殿」とする絵図もあるとか。本当に天守があったかどうかは不明なのです。

江戸時代の大多喜城

 関ヶ原の戦功によって忠勝は伊勢桑名へ移ったあと、次男の忠朝が大多喜城を引き継ぎました。ところが大坂夏の陣で忠朝が討ち死にしたことで、甥にあたる政朝が城主に就任しています。

 その後は阿部・青山・稲垣と頻繁に藩主が交代し、元禄13年(1703)に2万石で入封したのが松平正久です。ここから9代170年にわたって松平氏が藩主を務め、幕末まで続いていきました。

 ただし本多期を除けば、江戸時代を通じて大多喜城が整備・改修されたという記録は残っていません。絵図から推察するに、せいぜい御殿や屋敷の建築が確認できる程度です。本来なら櫓や門といった重要な箇所は修理が必要になるはずですが、そのような補修記録が確認できないのです。

 松平時代における史料が少ないこともありますが、もしかすると大多喜城は、自然の要害に任せたシンプルな城だったのかも知れません

 かたや大多喜城の城下町は大変な賑わいだったようです。先述したロドリゴの「日本見聞録」によれば、人口は1万数千人を数えたとか。また江戸時代を通じて商業都市として繁栄し、定期的な市が開催されるなど、房総地域の中心地として発展しました。歴代藩主たちも、城の防備より城下の繁栄を優先させたのでしょう。

おわりに

 中世城郭から近世城郭へ改修された城はたくさんありますが、大多喜城ほど中世遺構を色濃く残す城はありません。現在の模擬天守から谷を挟んだ向こう側には、曲輪や堀を含む古い城跡が現存し、そこが戦乱の舞台だったことを想起させます。

 また県立大多喜高校がある二の丸には、往時を偲ばせる薬医門が現存しており、本多忠勝が掘らせたという大井戸なども残っています。中世と江戸時代という異なる時期の遺構を見られるのは、大多喜城の大きな魅力ではないでしょうか。

 さらに大多喜の城下町も見逃せません。「房総の小江戸」と呼ばれるだけあって、歴史的価値の高い建物がたくさん現存しています。少しノスタルジックな雰囲気を味わいつつ、街歩きをおすすめしたいところです。

補足:大多喜城の略年表

出来事
大永元年
(1521)
真里谷信清によって築かれる。
天文13年
(1544)
真里谷朝信が敗死。正木時茂によって奪われる。
天正9年
(1581)
正木憲時が城内で謀殺され、里見が直接支配に乗り出す。
天正18年
(1590)
徳川家臣・本多忠勝が入城。
慶長6年
(1601)
忠勝が伊勢桑名へ移り、次男の忠朝が引き継ぐ。
慶長14年
(1609)
スペイン人ロドリゴが大多喜城へ立ち寄る。
慶長20年
(1615)
本多忠朝が大坂の陣で戦死。甥の政朝が新たな藩主となる。
元和3年
(1617)
本多政朝が播磨龍野へ移り、その後は阿部・青山・稲垣と藩主が入れ替わる。
元禄16年
(1703)
松平正久が入封。9代170年で幕末まで続く。
同年元禄地震が発生。大多喜藩で大きな被害が出る。
明治元年
(1868)
松平正質が戊辰戦争の戦犯として幽閉され、大多喜藩は佐倉藩の管理下に置かれる。
明治3年
(1871)
廃藩置県とともに廃城となり、城内の建造物が破却される。
昭和41年
(1966)
県史跡「上総大多喜城本丸跡」として指定される。
昭和50年
(1975)
本丸跡に模擬天守(現・県立中央博物館大多喜城分館)が建設される。
平成29年
(2017)
続日本100名城に選定される。


【主な参考文献】
  • 峰岸純夫・齋藤慎一『関東の名城を歩く 南関東編』(吉川弘文館 2011年)
  • 川名登『すべてわかる戦国大名里見氏の歴史』(国書刊行会 2000年)
  • 小高春雄『房総里見氏の城郭と合戦』(戎光祥出版 2018年)
  • 大多喜町教育委員会『わたしたちの郷土 ―大多喜町の歴史―』(2014年)

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  この記事を書いた人
明石則実 さん
幼い頃からお城の絵ばかり描いていたという戦国好き・お城好きな歴史ライター。web記事の他にyoutube歴史動画のシナリオを書いたりなど、幅広く活動中。 愛犬と城郭や史跡を巡ったり、気の合う仲間たちとお城めぐりをしながら、「あーだこーだ」と議論することが好き。 座右の銘は「明日は明日の風が吹く」 ...

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