「鈴木貫太郎」日本を救ってくれた ”政治力ゼロ” の総理大臣が持っていた物とは

鈴木貫太郎の肖像(出典:<a href="https://www.ndl.go.jp/portrait/" target="_blank">近代日本人の肖像</a>)
鈴木貫太郎の肖像(出典:近代日本人の肖像
日本という国は四方を海で囲まれており、大陸の国々のように「地上国境線」というのがありません。また、日本は資源の無い国であり「攻め落としても得られる物がない」ということもあり、対外国との戦争は数えるほどしかありません。

文永の役(1274)と弘安の役(1281)のいわゆる元寇、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役、1592~93、1597~98)、日清戦争(1894~95)、日露戦争(1904~05)、第一次世界大戦(1914~18)、第二次世界大戦(1939~45)の7回が日本の「対外国戦争」の全てです。

そして日本は7回の戦争のうち、5回勝利しており、豊臣秀吉の朝鮮出兵も被害は出たものの、日本本土への影響は全くありませんでした。つまり、第二次世界大戦で敗北するまで日本は「ほとんど負け知らず」であり、本土が他国によって支配されるという経験は全く無かった訳です。

元寇でモンゴル帝国第5代皇帝・クビライが攻めてきたのはマルコ・ポーロの『東方見聞録』に「日本には溢れかえるほどの金がある」と書いてあるのを信じたからです。もし実態を知っていたら元寇は起こらなかったでしょう。「負け知らず」「他国に支配されたことが一度も無い」ということは、逆に「負けたらどうなるのか」という経験が全く無いということです。つまり、第二次世界大戦の敗北というのは日本にとって「初めて外国に敗北し、国土を占領される」という経験だったのです。

この日本開闢以来、初めての敗戦という事実を受け入れる決断をしたのが鈴木貫太郎(すずき かんたろう)内閣でした。これが一体どれほどの難事業であったかは、現在の日本に暮らす方にお伝えするのは中々に困難です。当時の日本の軍人には「勝利か死か」という結果しか頭になく、「敗北」は選択肢に全くなかった、ということをお伝えすれば、その困難さを少しは御理解して頂けるでしょうか。

また、それまでは「鬼畜米英」「欲しがりません勝つまでは」と国民に言い聞かせ、さんざん戦争に協力させてきたのは全て勝利するためでした。その国民に対して何と言えばいいのか… 日本初の「敗戦の受け入れ」という最大級の難題を担当した鈴木貫太郎総理大臣は、一体どんな手を使い、この難題に立ち向かったのでしょうか?

鈴木貫太郎という人物

実は鈴木貫太郎氏は生粋の海軍軍人でした。慶応3年(1867)に関宿藩士で代官をしていた鈴木由哲の長男として生まれた彼は、海軍兵学校に学び、日清戦争に従軍した後に海軍大学に進み、卒業します。そして日露戦争では、ロシアの戦艦3隻に魚雷を命中させて勝利に貢献しています。

大正12年(1923)に海軍大将、大正13年(1924)に連合艦隊司令長官、さらにその翌年に海軍軍令部長に就任、という日本海軍における大出世コースを歩んでいたのです。ところが昭和4年(1929)に全く予想もしなかったオファーを受けます。それは「天皇陛下(昭和天皇)の侍従長になってくれ」というものでした。実はこのオファー、昭和天皇ご自身と皇太后・貞明皇后のご希望だったのです。

驚いた彼は「私なんてとても…」と思ったそうですが、何しろ天皇陛下のご希望です。「俺に侍従なんて務まるのかな?」と思いつつ、やむなく引き受け、海軍から侍従へと転身することになります。

海軍大将時代の鈴木貫太郎(1923年頃。出典:wikipedia)
海軍大将時代の鈴木貫太郎(1923年頃。出典:wikipedia)

そんな訳で鈴木貫太郎は侍従長になったのですが、当然ながら皇室内の各種伝統行事やら、しきたりなんぞは全く知りません。そこで、そういったことは全てわかっている侍従に任せて、自身は昭和天皇の「お話相手」と「いざと言う時の助言、仕切り役」に徹しました。それは的を得たやり方であり、彼は歴代の侍従長の中でも別格とされ、「大侍従長」と呼ばれるようになるのです。

実は海軍軍令部長という役職は、皇室ランクでいくと、侍従長より30番も上です。つまりランクが30番も下がったわけです。「それが嫌だから引き受けなかったなんだろう?」と言われるのが嫌だったから引き受けた、と後に語っていますが、これは言い訳でしょう。天皇陛下のご命令であれば、お受けせざるを得なかったのですから。

しかし何故、昭和天皇ご夫妻は彼を侍従長にご希望されたのでしょうか? 実はその理由こそが「鈴木貫太郎」と言う人物の持つ「特別なもの」に由来するのです。

3人の青年の訪問

そんなある日、鈴木貫太郎のところに3人の青年が訪ねてきました。日本青年協会の富永半次郎と青木常磐、陸軍第2大隊第6中隊長の安藤輝三(あんどう てるぞう)大尉の3人です。

鈴木は3人の青年と時局についての意見を交わしました。当時、陸軍の内部では北一輝の「日本改造論」が流行っており「君側の奸」を除くことが重要だという認識が広まっていました。鈴木侍従長は「君側の奸」の最たるもの、と思われていたのです。

「君側の奸」というのは、君主の側で君主を思うままに動かして操り、悪政を行わせるような奸臣(悪い家臣・部下)の意です。つまり、3人の目的は鈴木侍従長の"人"と"なり"を確認しにきたのです。しかし実際に論を交わしてみて、安藤輝三大尉はびっくりします。

「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人は西郷隆盛のような人だ。懐の深い大人物だ」

面会の後、安藤は上記のように語っています。そして座右の銘にするから、と書を鈴木に希望しました。彼はそれに応えて後日に書をしたため、安藤大尉に送っています。

ちなみに安藤大尉が中隊長を務めていた第2大隊第6中隊というのは、以前、秩父宮雍仁親王が中隊長を努めていたことで「殿下中隊」と呼ばれ、連隊長をかの永田鉄山少将が務めていたという陸軍の中においても由緒ある部隊でした。それほどに安藤大尉は将来を期待されている人物だったのです。

鈴木貫太郎に会って大きな感銘を受けた安藤輝三(出典:wikipedia)
鈴木貫太郎に会って大きな感銘を受けた安藤輝三(出典:wikipedia)

二・二六事件の勃発

昭和11年(1936)2月26日、磯部浅一陸軍一等主計、栗原安秀陸軍中尉、野中四郎陸軍大尉、香田清貞陸軍大尉、安藤輝三陸軍大尉の5名を首班とする部隊が下士官・兵を率いて政府要人を襲撃。続いて永田町と霞ヶ関一帯を占拠する事件が起きました。いわゆる「二・二六事件」です。

彼らは岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監、牧野伸顕前・内大臣を襲撃し、更に首相官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞を占拠しました。全員「皇道派」と呼ばれる軍閥に属しており、北一輝の日本改造論の信奉者でしたので「君側の奸」を排除しようとしたのです。

事前に誰の部隊が誰を襲撃するかが決められましたが、安藤輝三大尉は最後まで決起に反対していました。計画の中心人物であった磯部主計、栗原中尉は、安藤大尉を決起部隊から外そうか、とまで考えていたそうです。そんな安藤ですが最後には決起に参加します。

これからは先は憶測ですが、安藤大尉が決起を決意したのは襲撃名簿に鈴木貫太郎侍従長の名前があったからではないか、と思われます。「このままでは磯部、栗原は必ず事を起こす。そうなったら鈴木侍従長の命が危ない」と考えたのではないでしょうか? 何故なら安藤大尉は自ら望み、鈴木侍従長の襲撃役を引きうけて決起に参加しているからです。決起に参加したら自分の命はまず無いと考えなければなりません。つまり安藤大尉は鈴木侍従長の代わりに自分が死のうと決意した可能性が極めて高いのです。

安藤大尉の部隊は鈴木侍従長の家を襲いますが、おそらく安藤大尉は「とどめは私がするから、決して殺さぬように」と部下に命令していた可能性があります。最初に鈴木家に踏みこんだのは部下達で、鈴木侍従長に向かって4発の銃弾を放ちましたがすべて急所を外しているのです。それでも4発の銃弾を受けたら相当な出血になります。

安藤大尉は兵士に「鈴木侍従長閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃!」と言います。そして鈴木侍従長に向かい、

「まことにお気の毒なことをいたしました。我々は閣下に対しては何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります。自分は自決し責任を取ります」

と述べました。鈴木侍従長の妻が名前を聞くと、「安藤輝三」とだけ名乗って立ち去っていったそうです。

後に鈴木侍従長は

「首魁のような立場にいたから、止むを得ずああいうことになってしまったのだろうが、思想という点では実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」
「安藤がとどめをあえて刺さなかったから自分は生きることができた。彼は私の命の恩人だ」

と語り、死ぬまで感謝していたそうです。

しかしこの事件で「陸軍は何をするか分からない。逆らったら殺されかねない」という認識が政治家の間に広まってしまい、次第に政治も陸軍が主導するような形になっていき、遂には太平洋戦争(1941~45)へと突入してしまうのです。

戦局の悪化と鈴木内閣の発足

真珠湾攻撃で威勢よく戦争を開始したものの、段々と日本軍は米国軍に押されていき、戦局は徐々に悪化していきます。

そして昭和20年(1945)4月、戦局悪化の責任を取り、小磯國昭内閣は総辞職します。となると、次の総理大臣を決めねばなりません。最終決定権は天皇陛下にありますが、候補者を挙げるのは重臣達の役割でした。しかし、この時点で日本の敗北はもはや避けようがないと認識されており、誰を推挙するべきか重臣達は相当に悩んだと思いますが、意外や意外、重臣達全員が鈴木貫太郎を推挙したのです。

「とんでもない話だ。お断りする」

推挙された鈴木貫太郎はびっくりして拒絶しましたが、重臣会議の結論を聞いた天皇陛下から言われたら是非もありません。これも想像ですが、重臣達(木戸幸一、若槻禮次郎、近衛文麿、岡田啓介、平沼騏一郎)は事前に昭和天皇から「鈴木が良い」という内命を受けていたように思われます。そうでなければ、この一癖も二癖もある5人が同じ人物を推挙するとは、とても考えられないからです。

おそらく昭和天皇は鈴木貫太郎という人物の持つ「特別なもの」だけが、「敗戦」という経験をしたことのない日本を救う唯一の力だと考えたのではないでしょうか。

鈴木が重臣達からの推挙を強く拒否したのは、そもそも政治経験が全くなかったからです。つまり政治力はゼロです。政治力だけを言うのなら5人の重臣達の方がはるかに上でした。こうして総理大臣をすることになった鈴木貫太郎氏ですが、就任にあたって事前に陸軍省を尋ね「陸軍大臣は阿南大将にして欲しい」旨を伝えています。

少将時代の阿南惟幾(あなみ これちか。出典:wikipedia)
少将時代の阿南惟幾(あなみ これちか。出典:wikipedia)

これも推測ですが、阿南大将の「ご指名」も昭和天皇のお考えであったと思われます。敗戦処理にあたり、もっとも問題になるのは陸軍であることは明白でした。なにしろ「勝利か死か」という教育しか受けていないのです。また、この戦争は陸軍が主導を取って始まったものであることもあり、陸軍の中には過激派が多いことも分かっていました。つまり、敗戦処理をうまく進めるためには陸軍をいかに納得させて抑え込めるか、ということが重要だったのです。そして、それが出来るのは阿南大将以外にはいない、と昭和天皇はお考えになったのでしょう。

昭和天皇は阿南大将をとても気に入っており「あなん」と呼んで親しくされていました。鈴木侍従長といい、阿南大将といい、昭和天皇の人を見る目は確かだったのです。

ちなみに鈴木内閣誕生の約1か月後、昭和20年(1945)5月にはナチスドイツが壊滅。枢軸国は日本だけ、という状態になってしまいました。

ポツダム宣言と原爆投下

しかし何しろ、鈴木は「政治経験ゼロ」です。そして事態は風雲急を告げており、連合国側は7月末にポツダム宣言を日本に送りつけてきました。

その第一報は外務省に入りましたが、元々、戦争終結を考えていた外務省は「受け入れ」で意見が一致しました。しかし当時、外務省は連合国側ではないソ連に対し、戦争終結の仲介役を引き受けて欲しい旨を打診しており、その返事をもらってからにした方が良い、と考えてしまったのです。

また、ポツダム宣言の重要性にも気が付いていませんでした。実はポツダム宣言は最後に以下のように書かれていました。

われらは右条件より離脱することなかるべし

つまり連合国側はこれを最後通牒として送っていたのです。しかし外務省をはじめ、鈴木内閣の閣僚は誰一人として、それに気が付いておらず、ポツダム宣言を「ただの宣言」と受け取ってしまったのです。

ですので、鈴木総理は記者に向かって「あの共同声明はカイロ会談の焼き直しであると考えている。政府としてはなんら重大な価値があるとは考えない。ただ 黙殺するだけである。われわれは戦争完遂に邁進するのみである」と言ってしまったのです。

新聞は

「笑止!米英共同宣言、自惚れを撃砕せん、聖戦を飽く まで完遂」「政府は黙殺」

と書き立てました。そして海外のマスコミは「日本はポツダム宣言受け入れを拒否した」と伝えました。

このとき、なぜ専門家である外務官僚が気が付かなかったのか、と悔やまれてなりません。日本が宣言受け入れを拒絶した、と判断した連合国側は、広島・長崎に原爆を落とし、力の差を徹底的に見せつける手段に出ました。歴史にタラレバは禁物ですが、本当に、この件だけは悔やまれてなりません。

アメリカのラジオ放送はトルーマン大統領の声明を伝えます。

「われわれは二十億ドルを投じて歴史的な賭けをおこない、そして勝ったのである……六日、広島に投下した爆弾は戦争に革命的な変化をあたえる原子爆弾であり、日本が降伏に応じないかぎり、さらにほかの都市にも投下する」

この声明は外務省を通じて昭和天皇にも伝えられました。それを聞いた天皇陛下は

「このような武器がつかわれるようになっては、もうこれ以上、戦争をつづけることはできない。不可能である。有利な条件をえようとして大切な時期を失してはならぬ。なるべくすみやかに戦争を終結するよう努力せよ。このことを木戸内大臣、鈴木首相にも伝えよ」

と命じられました。そして8月9日、外務省が戦争終結の仲介役を頼んでいたソ連が日本に宣戦布告して満州、樺太に侵攻してきたのです。東郷外相は鈴木総理の家まで駈けつけましたが、 首相はぽつんと言いました。

「この戦は、この内閣で終末をつけることにしましょう。」

この言葉は鈴木総理が、自ら火中の栗を拾う決心をしたことを意味していました。

終戦工作の開始 ~鈴木が持っていた「特別なもの」~

鈴木総理は閣議の最中でもずっと同じ姿勢でおり、話を聞いているのか、いないのか分からない風だったそうです。また、自ら発言することも少なく、重要なときにしか言葉を発しなかったそうで、政治家という人種に慣れていた他の大臣からすると、全く腹の内が読めない総理に映っていたようです。

読めないのも道理で、鈴木総理は最初から「いかに終戦をうまく行うか」という事しか考えていませんでした。普通の人であれば「終戦となれば、自分はどうなるのか?」が気になるところですが、鈴木貫太郎という人物にはそんなことはどうでもよかったのです。

鈴木総理は無私無欲で、「自分よりも他人の利益を優先させる」「成果を挙げるのが目的であって、それが自分の手柄でなくても構わないし気にもしない」という性格でした。まさに安藤大尉が言った「西郷隆盛と同じ」であり、自分のことは後回しで困っている人を助けるのが最優先なのです。

また、「私」がないから、事の軽重を見誤ることがなく、たえず醒めた態度で悠々としていられました。それが鈴木貫太郎という人物です。これが昭和天皇の見込んだ、鈴木貫太郎という人物が持っていた「特別なもの」でした。

この日の午前中、宮中で開かれた最高戦争指導会議の冒頭で鈴木総理は言いました。

「広島の原爆といいソ連の参戦といい、これ以上の戦争継続は不可能であると思います。ポツダム宣言を受諾し、戦争を終結させるほかはない。ついては各員のご意見をうけたまわりたい」

とても簡潔な宣言でした。しかし会議は紛糾し、時間ばかりがかかって結論は出ません。そこで鈴木総理は「奥の手」を出してきます。

「議をつくすこと、すでに二時間におよびましたが、遺憾ながら三対三のまま、なお議決することができませぬ。しかも事態は一刻の遷延も許さないのであります。この上は、まことに異例で畏れ多いことでございまするが、ご聖断を拝しまして、聖慮をもって本会議の結論といたしたいと存じます」

つまり天皇陛下に決めてもらおう、というのです。

これが奥の手でした。会議に参加している、いかなるメンバーも天皇陛下のご意見には反対できないからです。そして昭和天皇は降伏することに賛成である旨の意見を述べ「降伏」が決定されました。もちろん元侍従長である鈴木総理には昭和天皇のお考えは分かっていたことで、単純な作戦でした。

いわゆる「御前会議」という、天皇陛下も出席する会議を開く際には、事前に関係者の承諾手続きをする決まりがあったのですが、鈴木総理はその手続きにあたり「終戦の話ではない」と言って承諾を取り付けて手続きを行っていたのです。

だからといって「無効だ」とはなりません。たとえ手続きに問題があろうとも「天皇陛下のご意見」であることに変わりはないからです。もし手続きの問題で問い詰められれば、自分が腹を切れば済むと思っていたと思われます。それが鈴木貫太郎と言う人物であり、まさに昭和天皇の思っていた通りにことを進めてくれたのです。

こうして日本はポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏をすることが決定されました。実際は、まだ色々な紆余曲折があるのですが、ここではそれには言及しません。

「最終的にご聖断を仰ぎ決定する。何かあれば、全て自分が引き受ける」

これが鈴木貫太郎総理の考えていた終戦工作でした。

こうして書くと簡単ですが、当時の状況を考えれば命懸けの方法であったと言えます。事実、この後、鈴木総理に詰め寄る陸軍軍人がおり、阿南陸軍大臣がいなければ殺されてもおかしくない状況でした。まさに「自分はどうなっても構わない」という手段だったのです。

さいごに。戦争が終わり、作家の志賀直哉氏が鈴木総理のやり方をうまく表現してくれたエッセイを残してくれていますので、以下にご紹介しておきます。

「 かういふ非常な時代には政治の技術など、たいして物の役には立たないのではないか。それ以上のもので乗切るより道がないやうな状態に日本はなつてゐたと思ふ。正面衝突ならば、命を投出せば誰れにも出来る。鈴木さんはそれ以上を望み、遂にそれをなし遂げた人だ。鈴木さんが、その場合、少しでも和平をにほはせれば、軍は一層反動的になる。鈴木さんは他には真意を秘して、結局、終戦といふ港にこのボロ船を漕ぎつけた。吾々は今にも沈みさうなボロ船に乗つてゐたのだ。軍はそれで沖へ乗出せといふ。鈴木さんは舳だけを沖に向けて置き、不意に終戦といふ港に船を入れて了つた」


【主な参考文献】
  • 鈴木貫太郎傳記編纂委員会『鈴木貫太郎傳』(1961年)
  • 半藤一利『日本のいちばん長い日(決定版)』(文藝春秋、1995年)
  • 松本清張『昭和史発掘(6)』(文芸春秋社、2005年)
  • 松本清張『昭和史発掘(7)』(文芸春秋社、2005年)
  • 志賀直哉「鈴木貫太郎」『展望 1946年3月号』(1946年)

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  この記事を書いた人
なのはなや さん
趣味で歴史を調べています。主に江戸時代~現代が中心です。記事はできるだけ信頼のおける資料に沿って調べてから投稿しておりますが、「もう確かめようがない」ことも沢山あり、推測するしかない部分もあります。その辺りは、そう記述するように心がけておりますのでご意見があればお寄せ下さい。

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