終戦間近に誕生した航空部隊「芙蓉隊」 特攻せずに戦い抜いた男たちの物語

沖縄戦に従軍するため鹿屋基地に集結した芙蓉部隊第一陣(1945年4月撮影、出典:wikipedia)
沖縄戦に従軍するため鹿屋基地に集結した芙蓉部隊第一陣(1945年4月撮影、出典:wikipedia)
 太平洋戦争末期、敗戦間近となった日本軍は最後の手段として「特攻攻撃」を採用し、多くの若者が太平洋の海に命を散らした。

 特攻は、当時二十歳にも満たない若者が「自らの意思で」突撃して行った、とされている。確かに、国と家族を護るために自ら志願し、特攻突撃を行ったのも真実のひとつだ。しかし軍部と各隊の指揮官たちは「特攻こそ国に対する至上の行為である」と訓示して、感受性豊かな彼らの思想を刺激し、特攻へと流れをつくって行ったのも事実。そんな中、特攻に異議を唱え、夜間戦闘を主戦法として終戦まで戦い抜いた戦闘部隊が今回紹介する「芙蓉部隊(ふようぶたい)」だ。(以下「芙蓉隊」とする)

 激戦地フィリピンから帰国した歴戦の搭乗員たち。新部隊である芙蓉部隊にて、仲間や新隊長の美濃部正少佐とともに、努力と苦悩を重ねながら国を護り抜いた彼らの軌跡をたどる。

フィリピン脱出

 芙蓉隊は、フィリピンの夜間戦闘機隊が3つ集結した部隊である。戦闘第901飛行隊、戦闘第804飛行隊、戦闘第812飛行隊だ。

 いずれも戦闘機「月光」を装備し、激戦地での戦いを経験した熟練搭乗員達が多く所属していた。しかし、戦力の貧しい状況で挑んだレイテ島の戦い(1944年10月~)で日本軍は力を絞り尽くし、飛行隊が所属していたルソン島にも米軍が迫って来ていた。

 昭和20年(1945)1月8日、804飛行隊と、812飛行隊は、ルソン島のクラーク中基地からトラックに乗車して脱出を始め、1月31日に全員が台湾へと脱出した。901飛行隊はこの1ヵ月前にすでにフィリピンを脱出し、内地へ一足先に帰っていた。

1944年10月下旬頃の戦闘901飛行隊集合写真。マニラ・ニコラスフィールド基地にて。前列でステッキを持っているのが美濃部(出典:wikipedia)
1944年10月下旬頃の戦闘901飛行隊集合写真。マニラ・ニコラスフィールド基地にて。前列でステッキを持っているのが美濃部(出典:wikipedia)

芙蓉隊誕生

 芙蓉隊の隊長となる美濃部少佐は、昭和20年(1945)2月、彼よりも高官ばかりが集まる会議で、堂々と特攻反対を主張した。

 当時の日本軍の情勢は、フィリピンで惨敗しB29が国内にも飛来するようになり、日本各地が空襲で焼け野原になっていた。

 次は沖縄戦と見ていた日本軍は、この沖縄でなんとか敵を食い止め、本土決戦への体力を増強したいと考えていたが、そのためには、沖縄戦で敵機動部隊を叩く必要がある。そこで、特攻攻撃を主力攻撃とするかを最終決定する会議だった。

 上官の代理で出席していた美濃部は、その会議の末席で、自らは特攻攻撃することなく無責任な話をする高官たちに対して、以下のような発言をした。

いまの若い搭乗員のなかに、死を恐れるものは誰もおりません。ただ、一命を賭して国に殉ずるためには、それだけの目的と意義がいります。しかも、死にがいのある戦功をたてたいのは当然です。精神力一点ばかりの空念仏では、心から勇んで発つことはできません。同じ死ぬなら、拡散のある手段を講じていただきたい

 さらに、航空機の不足を特攻攻撃採用の理由の一つとして挙げていた幕僚や幹部たちに、燃料不足ゆえの搭乗員の練習不足は、そこをカバーするだけの創意工夫が不足している旨を述べ、自身の部隊は日々熾烈な訓練を重ね、敵と相応に戦う能力があることを主張し、美濃部の部隊は特攻から外すよう要求した。

 そして、美濃部が所属する藤枝基地の131空に幕僚たちが視察に来た。

 燃料の都合上、隊員たちは1人、月15時間しか飛行訓練できていないにもかかわらず、着実に練度を上げている訓練状況を見て、美濃部が統括する部隊のみ、特攻の対象部隊から外され、通常攻撃を進めることになった。

 その後、131空に戦闘901と戦闘812、その後遅れて戦闘804が組み込まれ、昭和20年(1945)3月20日に芙蓉隊は誕生した。

芙蓉部隊の活躍

 芙蓉隊の活躍は当時の記録をもとに書き出すときりがないが、当時29歳の美濃部指揮官が800人の隊員と一丸となって戦い抜いた約半年間の戦果を、一部紹介する。

 芙蓉隊は当初、静岡県の藤枝に基地を構えていた。また、使用していた主な機体は、艦上爆撃機の「彗星」と「零戦」を使用していた。

 元々、フィリピンでは「月光」に乗っていた搭乗員たちも、芙蓉隊に配属された後に、機種転換のための訓練を行った。そして、米軍が沖縄へ進攻することが確実となった3月には、芙蓉隊のベースとなる基地は実戦に向けて、藤枝から鹿児島の鹿屋に移された。

芙蓉部隊の主要機「彗星」と部隊名の由来となった富士山(出典:wikipedia)
芙蓉部隊の主要機「彗星」と部隊名の由来となった富士山(出典:wikipedia)

 米軍も沖縄への進攻を着々と進めており、4月1日の午前8時、嘉手納海岸に上陸。嘉手納の南にある中飛行場と、北方の読谷に近い北飛行場を同日午後2時までに占領。さらに、渡嘉敷島にも大規模な航空施設を建設し始め、対する日本軍は守備範囲であった、西の小禄飛行場も、敵の砲撃で使用不可となった。

 このまま米軍の進攻が進むと、沖縄周辺の制空権が完全に米軍の手に渡ってしまうことは目に見えていたため、日本海軍は同月6日に米軍艦隊に航空総攻撃をかけることを決定。これが「菊水一号作戦」だ。

 芙蓉隊にも、作戦内容が伝えられ、沖縄周辺海域の米軍艦隊への銃爆撃が命じられた。敵に見つかりにくい日の出の30分前を目標に、鹿屋から沖縄までは片道約650キロ(南方まで飛行するのであれば往復約1480キロ)を夜間飛行する。

 美濃部は、フィリピンで夜間戦闘の経験のある、「彗星」のベテラン搭乗員と、水上機出身の経験豊富な搭乗員が零戦に乗って出撃することになった。

 燃料が十分ではない終戦前は、もちろん鹿屋から沖縄までのフライト経験はない。しかし、その状況を悲観視せずに、現状況でできることをするのが芙蓉隊だ。

 沖縄までの上空での風の変化は過去3年分の記録を参考にして、中高度以上では変化が少ないことを割り出すなどして、事前に入念な準備を行い、チャートに全てのデータを記載した。

 燃料も課題だった。ロケット爆弾を装着した彗星は、増槽を付けることができないが、2390キロ飛ぶことができる。零戦は、330リットルの増槽を付けて、銃弾を積まない場合は3400キロの飛行が可能だ。しかし、これらはデータ上の話であって、実戦ではそんな上手くいくはずもない。

 目標付近ではエンジン出力を上げて、攻撃時にはマックスの出力を出す。タンクのエンジンも無くなるまでは使えない。こうして、様々な条件を加味したうえで出された彗星と零戦の当日の作戦可能範囲は往復2100キロだった。一見余裕があるようにも見えるが、途中に敵機と遭遇することなどを考えると、夜間飛行の燃料としては、決して十分とは言えなかった。

 当日の任務は、日の出後の特攻攻撃を成功させるために、敵艦体を錯乱させることだった。6日午前3時15分に彗星7機と零戦8機が飛び立って行ったが、機器不良で彗星1機と零戦4機が帰ってきて、残る彗星6機と零戦4機が、敵艦体に向けて航路を進めた。

 沖縄戦において初の攻撃参加であったこの作戦に失敗すれば、芙蓉隊の隊員も特攻要員に回される可能性が高まってしまうという、重要な任務であった。

 戦果は、巡洋艦2隻にロケット爆弾命中、輸送船1隻を銃撃で炎上。未帰還機は2機だった。同日の海軍の出撃機391機(内特攻機215機)、陸軍の出撃機133機(内特攻機82機)で、特攻機を除くと、敵に対する戦果は芙蓉隊以外では報告されていない。美濃部の率いる芙蓉隊は沖縄戦における初出撃でその存在の正統性を見事に実証したのだった。

 これ以降も芙蓉隊は終戦まで絶え間ない戦果をあげ「特攻だけが正攻法ではない」ということを身をもって証明し続けた。その後、米軍のB-29は鹿屋にも飛来するようになった。

 空襲で航空機が狙われ、破壊されるのを防ぐために芙蓉隊の基地は鹿屋から少し離れた「岩川」へ5月に移動。岩川では、昼間は飛行場であることを米軍に悟られないため、航空機は基地周辺の山林地帯へ収納。部隊本部も山林の中に三角兵舎を建てた。滑走路も、降着接地点にのみ金網を敷いて、その他は刈草を敷き、昼間は乳牛を放って牧場のように見せた。

 このような入念な飛行場隠蔽工作によって、岩川は終戦まで米軍に飛行場と気づかれることはなかった。この岩川で芙蓉隊は終戦まで、飛来する米軍機を迎え撃ち、戦い抜いたのだった。

終戦

 多くの未来ある若者と、罪なき国民を戦争で失った日本は昭和20年(1945)8月15日、無条件降伏した。

 芙蓉隊は、終戦間近の7月頃から、本土決戦の際には美濃部を指揮官機として、上陸してくる米軍めがけて最初で最後の特攻作戦を行う予定だったとされている。しかし、敵が上陸する前に日本は降伏した。

 ポツダム宣言が出された当初は各地の航空隊でも虚偽ではないかとうわさが流れたものの、18日には、九州方面の指揮官が大分に集められ、軍事参議官の井上成美大将が、宣言は陛下の意思である旨を伝えた。その際に、井上大将は美濃部に「実に良く戦った」と褒めたという。

 大分から岩川へ帰った美濃部は、隊員たちに涙を流して、今後の戦闘行動の一切を禁止する旨を伝えた。

 20日には上層部から隊員の復員命令が出された。しかし、戦後直後の交通機関は麻痺していることを予想した美濃部は、部隊が持っている航空機を使って、隊員たちを故郷近くまで飛ばし、帰らせることにした。故郷が近い者同士がペアを組んで、その中に整備員も乗り込み、彗星は3人乗りに、零戦は2人乗りにした。

 次の日の朝、芙蓉隊として出撃して散華した隊員たちの冥福を祈り、指揮所前で美濃部が述べた。

「この戦争は敗れた。だが10年たてば、ふたたび国を立てなおす可能性がでてくるかも知れない。この間、自重し、屈辱に耐えてがんばってもらいたい。10年ののち、ここにもう一度集まろう」

 その後、隊員たちが乗った彗星と零戦が岩川の空へ消えていった。戦争が始まってからこれまで、戦い抜いた勇者たちの姿が見えなくなるまで、美濃部は帽を振り続けた。

終わりに

 皆さんは芙蓉隊をご存じでしたでしょうか。私は歴史学科に所属していた学生時代に少し触れた程度で、今回初めて深く掘り下げて記事を書きました。

 大戦中、個人の意見を発言することさえ許されなかった時代。敗戦を目前に、特攻作戦を決行しようとする上層部の中でただひとり、異論を唱え、自らの部下には特攻ではなく攻撃という形で戦い続けた美濃部に心打たれた人は多かったのではないでしょうか。

 この記事で紹介した芙蓉隊の戦果はほんの一部にすぎません。他にも、紹介したい芙蓉隊の戦果や歩みは多くあります。この記事を読み、興味を抱いてくれた読者の方々が芙蓉隊に関する書籍を手に取り、さらに多くの知識を得ていただけましたら幸いです。


【主な参考文献】
  • 渡辺洋二『特攻拒否の異色集団 彗星夜襲隊』(光人社NF文庫、2003年)
  • 吉野泰貴『海軍戦闘第八一二飛行隊 日本海軍夜間戦闘機隊 芙蓉部隊 異聞』(株式会社大日本絵画、2012年)
  • 航空自衛隊HP 静浜基地

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  この記事を書いた人
周まり子 さん

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