八百比丘尼と人魚伝説 ~不老不死の謎をさぐる

空印寺(福井県小浜市)の境内にある「八百比丘尼入定洞」
空印寺(福井県小浜市)の境内にある「八百比丘尼入定洞」
 不老不死の肉体を持つという、八百比丘尼(やおびくに)。その伝説は、福井県の若狭地方をはじめとして、日本各地に残っています。

 八百比丘尼は諸国をめぐって人々へ説法し、何百年も生きたと伝えられてきました。また、人魚の肉を食べたことで不老不死となった、という由来もよく知られています。

 令和5年(2023)2月、岡山県の圓珠院が所蔵している「人魚のミイラ」についての研究発表が行われました。これは、同寺院にて長年保管されている人魚のミイラの構造や作成年代について、倉敷芸術科学大学が研究チームを立ち上げ、約1年かけて調査したものです。

 今回は、八百比丘尼伝説や人魚の肉にまつわる信仰の歴史について解説していきます。

八百比丘尼とは

 現代において、八百比丘尼が出てくる作品というと、手塚治虫の漫画『火の鳥(異形編)』が挙げられるでしょう。このお話では、八百比丘尼はどんな怪我や病でも癒す尼僧で、永劫の時のなか、生きとし生けるものを救いつづける宿命のもとにあります。

 八百比丘尼は「やおびくに」または「はっぴゃくびくに」と呼ばれ、不老不死で数百年の長い時を生き、不思議な力を持つといわれています。他の伝説にみられる白比丘尼(しらびくに)という人物にも、ほぼ同じ特徴があります。

 若狭地方では多くの八百比丘尼伝説が残されており、設定に細かな違いはあるものの、大筋の流れは以下の通りとなっています。

ある時、村人が見知らぬ者から歓待を受ける。出てきた食事のなかに、人の頭がある魚のようなものがあったので、村人は食事に手を付けずに逃げ帰ってきた。村人は土産として(もしくは何らかの理由により)肉片の一部を持ち帰ってきており、娘(または妻)が知らずにその肉片を食べてしまう。それは人魚の肉で、娘は八百年生きることとなった。娘は諸国をめぐって、壊れた社寺の修復、植樹などに力を尽くす。最期は若狭地方の小浜に戻り、洞窟にて入定(にゅうじょう/即身成仏とも)した。
※『長寿伝説を行く』『笈埃随筆 巻五』『日本巫女史』などより要約

 若狭地方では、八百比丘尼が入定したのは空印寺(くういんじ)という曹洞宗の寺院近くにある洞窟だと伝えられています。

 八百比丘尼にまつわる伝説は、福井県や石川県といった北陸地方にとどまらず、和歌山県や高知県、神奈川県や埼玉県など、日本全国に残されています。

 各地を訪れた八百比丘尼は、長命の証拠として、当時より何百年もの昔である源平合戦や源義経をこの目で見たと語りました。その臨場感あふれる語り口や、説法の巧みさにより、多くの人々に受け入れられたと考えられています。

 八百比丘尼伝説は、不老不死や人魚への畏怖と、社寺の修復などの偉業があわさり、広く長く親しまれた不思議な伝承といえるでしょう。

八百比丘尼伝説の始まりと広がり

 八百比丘尼伝説が世間に広まったのはいつ頃なのでしょうか。

 「比丘尼」という言葉についてですが、これは仏教語(パーリ語)で、出家した女性のことをさします。一方、男性の出家者は「比丘(びく)」と呼ばれます。

 大正時代に書かれた『日本伝説研究』によると、八百姫(やおひめ/八百比丘尼の別名)は雄略天皇12年(468)に生まれたという説があるようですが、詳しいことは分かっていません。

 また八百比丘尼の起源については、歩き巫女や熊野比丘尼(くまのびくに)などの、中世に流行した女性宗教者たちがもとになっているという説も見られました。

八百比丘尼の目撃情報が京都をかけめぐる

 室町時代の頃、実際に八百比丘尼が姿を見せたという記録があります。民俗学者の柳田国男は、八百比丘尼について考察する際、『臥雲日件録』『唐橋綱光卿記』『中原康富記』という3つの日記に書かれた出来事を参照しました。

 それによると、文安6年(1449)、不老不死の尼僧が京の都へ現れたということです。若狭国から来たという彼女は白髪であったことから白比丘尼と呼ばれ、その年齢は二百~八百歳あまりとされていました。白比丘尼は東洞院通の北側にある大地蔵堂にて見物料をとり、ひとめ見ようとする人々が集まったために、都は騒然としたそうです。

 これらの日記は僧侶や貴族・役人によって書かれており、当時、八百比丘尼と同じ特徴を持った尼僧が上洛してきたのは間違いないようです。ただ、長寿となった理由や不思議な力については不明で、日記の著者たちも不審な人物だと感じていました。

 とはいえ、八百比丘尼の話がこれほど騒ぎになったということは、すでにこの頃には八百比丘尼伝説が一般へ浸透していたことの裏付けにもなるでしょう。

 また八百比丘尼は椿の枝を持ち、松などの植樹をしたことでも知られました。これは、後年になって、人よりも長い時を生きる樹木の由来を語ることで、伝説の人物が確かに来訪したという証拠にもなりえたのではないでしょうか。

 こうして、八百比丘尼伝説は長く人々に語り継がれていったと考えられるのです。

なぜ人魚の肉を食べると不老不死になるのか

 伝説のなかで八百比丘尼が口にし、不老不死となった食べものは、「人魚の肉」でした。

 これを「九穴貝(きゅうけつ・くけつのかい/アワビ)」や「螺貝(つぶがい)」とする地域もありますが、人魚の肉のほうが圧倒的に多いようです。

 日本で人魚の存在が広まった正確な時期については分かっていません。

 『日本書紀』によると、推古天皇27年(619)の時、「人にあらず、魚にあらず、名を知らないもの」が網にかかったとされています。また、その前にも、人のような形のものが川に浮かんだとのこと。

 これは昭和期の生物・民俗学者である南方熊楠によれば、『日本書紀』に書かれているのは「サンショウウオ」だろう、ということです。さらに南方は、かつて人魚だと信じられていたものはマナティかジュゴンの類だとも断じました。

 飛鳥時代からだいぶ下って、建長6年(1254)に成立した『古今著聞集』では、「三重県で人魚が網にかかり、漁師が食べたところ、格別な美味しさだった」と書かれています。ただ、ここでは食べた後については言及がありません。

 また日本だけでなく、中国においても人魚は特別な存在でした。中国の伝承が書かれた地理誌『山海経(せんがいきょう)』によると、人魚の肉を食べれば痴呆症にならないとのことです。南北朝時代に書かれた『太平記』にも、中国の故事を語る際、人魚の油が真昼のように石の壁を照らしたと記されています。

 さらに江戸時代になると、滝川馬琴の『南総里見八犬伝』が大ヒット。物語の中では、悪役として妙椿(みょうちん)という八百比丘尼が登場し、人魚の肉を食べると三千年は生きられるという記述もみられます。

 井原西鶴が執筆した『好色五人女』では、宝物のうちのひとつとして「人魚の塩漬」が含まれており、珍しいものであったことがうかがえます。

 人魚は、上半身が人間で下半身が魚という、不気味な見た目をしています。その姿は滅多に見られなかったことから、人魚には不思議な力があると考えられたのかもしれません。こうした認識は、江戸時代までには広く民衆に知れわたっていたのでしょう。

人魚の浮世絵(江戸時代後期 『観音霊験記 西国巡礼三拾二番近江観音寺 人魚』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
人魚の浮世絵(江戸時代後期 『観音霊験記 西国巡礼三拾二番近江観音寺 人魚』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

社会と時間から逸脱した八百比丘尼

 手塚治虫が『火の鳥(異形編)』で描いた八百比丘尼は、とある罪のために、30年間を無限に繰り返す運命だと知らされます。

 なぜ八百比丘尼だけが、気の遠くなるような長い時間を過ごす必要があったのでしょうか。この疑問について、八百比丘尼が何らかのタブーを犯したと考える説があります。それは、「人魚の肉を食べる」という行為でした。

 八百比丘尼伝説が、まことしやかに人々の口の端へのぼるような時代。「人魚」は、半分魚・半分人間の存在でした。つまり人魚を食べることは、食人行為に近いと見なされたのかもしれず、禁忌を犯したとして家や村などから排除されたという可能性も考えられます。そして八百比丘尼は、社会だけでなく時間という概念からも逸脱し、諸国を流浪するようになったのかもしれません。

 また八百比丘尼はひとりではなく、複数いたとする説もあります。これは、不老不死の伝説を現実的に考えてみると、あり得そうな話ですね。

 その理由としては、日本各地に、八百比丘尼にまつわる伝説が100以上も残されていることが挙げられます。ひとりが残した功績としてはあまりに多いため、彼女が八百年生きた証拠とも考えられるのですが……。

 仮に、若狭地方には八百比丘尼を育てる場所があり、修行を終えた比丘尼たちが、いろいろな地方を訪れたと考えてみましょう。すると、八百歳ながら若々しい見た目を保ち、源平合戦などを生々しく語れることにも納得できるのではないでしょうか。

おわりに

 倉敷芸術科学大学の研究チームが人魚のミイラを研究した結果は、「魚の部分はニベ科の魚類の皮、上半身は土台に綿などをつめて布や紙、フグの皮によって造形されており、1800年代後半ごろにつくられたもの(要約)」だということでした。特に江戸時代以降は人魚のミイラが多く制作されたようで、他にも国内に現存するミイラは10体以上あるといいます。

※参考:倉敷芸術科学大学HP 「人魚のミイラ」研究最終報告

 人の手でつくられたものが信仰の対象となるのは、仏像や宗教画などでもみられるため、特に不思議なことではありません。この調査では、ミイラが非常に精巧な技術で制作されたことも注目されました。

人魚のミイラの絵(江戸時代後期に描かれた 『梅園魚譜』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
人魚のミイラの絵(江戸時代後期に描かれた 『梅園魚譜』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 今回、八百比丘尼についてのさまざまな考察を読んで、不老不死にあこがれを抱く民衆の気持ちはいつの時代も変わらないのだなと感じました。

 「可能なら病気もせず健康で長生きしたい」という、人間の生存本能にもつながる願い。そうした人々の想いが、八百比丘尼伝説を今日まで生き長らえさせてきたのですね。


【主な参考文献】
  • 手塚治虫『火の鳥③ ヤマト・異形編』(角川書店、1992年)
  • 桜井徳太郎 『民間信仰辞典』(東京堂出版、1980年)
  • 宮田登『ヒメの民俗学』(筑摩書房、2000年)
  • 祖田修『長寿伝説を行く』(農林統計出版、2011年)
  • 九頭見和夫『日本の人魚像』(和泉書院、2012年)
  • 藤沢衛彦『日本伝説研究 第2巻』(大鐙閣、1922-1925年)
  • 正宗敦夫『日本古典全集 古今著聞集 下巻』(日本古典全集刊行会、1930年)※『古今著聞集 巻二十 第三十』を参照
  • 柳田国男『定本柳田国男集 第27巻』(筑摩書房、1964年)
  • 渋沢敬三 編『南方熊楠全集 第7巻 (文集 第3)』(乾元社、1952年)
  • 滝沢馬琴『南総里見八犬伝 第9』(岩波書店、1941年)
  • 小野地健「八百比丘尼伝承の死生観」『人文研究 No.155』(神奈川大学人文学会、2005年)
  • アートアジェンダ 神明神社境内の八百比丘尼像(江戸時代、17世紀後半に制作)(最終閲覧日:2023年3月24日)

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  この記事を書いた人
なずなはな さん
民俗学が好きなライターです。松尾芭蕉の俳句「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」から名前を取りました。民話や伝説、神話を特に好みます。先達の研究者の方々へ、心から敬意を表します。

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