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直江兼続と大国実頼 兄弟の絆を引き裂いたのは関ケ原の合戦だった

直江兼続と大国実頼が仕えた上杉家の居城・春日山城跡
直江兼続と大国実頼が仕えた上杉家の居城・春日山城跡
 戦国時代には、互いに手を携えながら活躍してきた兄弟が何組も登場します。有名なのは豊臣秀吉と羽柴秀長ですが、上杉景勝に仕えた直江兼続と大国実頼も、上杉家を守るため、兄弟で力を合わせながら粉骨砕身、努力してきました。

 そんな兼続と実頼の絆は、関ケ原の合戦によって引き裂かれることになったのです。

上杉景勝の家臣として活躍

 直江兼続は元の名を樋口与六、大国実頼は樋口与七と名乗っていました。2人は、上杉謙信の同族である上田長尾家の家臣・樋口兼豊の長男、二男に生まれ、母親は直江家の出身だったと言われています。つまり、同父同母兄弟でした。

 上杉謙信は、上田長尾家から甥である長尾顕景(のちの上杉景勝)を養子に迎えましたが、顕景に従っていた与六、与七も随行し、謙信の薫陶を受けていたと思われます。

 景勝と、もう一人の養子だった景虎(北条氏出身)が、謙信の死後に争った御館の乱では、与六、与七も景勝方として戦いに加わり、景勝の勝利に貢献します。その後、与六は直江家へ、与七は小国家(のちに大国家)にそれぞれ婿養子として入り、家を継いだのです。

豊臣秀吉から褒められた実頼

 直江兼続は、景勝の腹心としてその名をとどろかせますが、弟の小国実頼も、兄を助けながら景勝の家臣として懸命に働いていました。そんな実頼に立身出世のチャンスが巡ってきます。

 天正15年(1587)の聚楽第完成を祝うため、景勝の使者として豊臣秀吉に謁見しました。この時、秀吉は実頼を大いに褒めちぎったそうです。そしてこの頃、姓を小国から「大国」と改名しています。

 この後、実頼はたびたび上洛し、連歌の会に参加するなど、京の文化人だけでなく、さまざまな大名家との交流も深めていました。つまり、上杉家における外交官の役割を果たしていたと思われるのです。

上杉家も、兄弟も運命を変えた関ケ原

 豊臣秀吉の死は、上杉家にとっても大きな転換期となりました。最大の実力者である徳川家康が次第に実権を握り、対抗する大名を次々に抑え込もうとします。上杉景勝に対する、家康の「上杉征伐」もその一つの軍事行動でした。

 景勝は、家康との決戦を覚悟し、兼続に戦闘態勢を整えさせます。もちろん、実頼も軍事作戦の中心的な役割だったことは言うまでもありません。しかし、家康は上杉家を攻めることなく西へと反転し、やがて天下分け目の「関ケ原の合戦」が勃発します。

 家康が関ケ原の合戦に勝利したことで、敵対していた上杉家は窮地に追い込まれます。改易は免れましたが、大幅に領地を削られてしまいました。そして、合戦を境に兼続と実頼の絆にほころびが生じるのです。

兄の使者を切り捨てた実頼の思い

 上杉家を何としても守りたい兼続は、家康の腹心である本多正信に接近します。まるで媚びへつらうかのように、正信の息子の政重を養子に迎え入れ、直江家の跡継ぎにしようとまで考えていたのです。

 実頼は、そんな兄の態度に激怒します。「そもそも徳川と上杉は、豊臣政権では同格だった。上杉の誇りを捨てるつもりか」と実頼は思ったのかもしれません。本多政重を迎えるために兄が立てた使者を切り捨て、そのまま姿を消してしまったのです。

 慶長19年(1614)に豊臣秀頼が挙兵した時、実頼は何を考えていたのでしょうか。自分を認めてくれた秀吉公のために、はせ参じたい・・・でも、上杉家を窮地に追い込むような振る舞いはできない・・・忸怩(じくじ)たる思いが伝わってくる気がします。

おわりに

 元和5年(1620)、直江兼続は60歳の生涯を閉じました。その臨終の場には弟の大国実頼の姿はありません。実頼の出奔後、生きて兄弟が対面することはなかったのです。

 それから間もなく、実頼は米沢の地に戻ってきましたそうです。郊外の中小松村(山形県川西町)に居を構え、連歌を楽しむ余生を過ごしたとされ、兼続の死から2年後に亡くなったと伝えられています。

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  この記事を書いた人
マイケルオズ さん
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

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