【静岡県】掛川城の歴史 中世城郭から近世城郭へ、いかにして驚くべき変遷を遂げたのか?
- 2023/03/26
そして令和5年(2023)4月には、再建天守がリニューアルオープンする予定です。きっと大きな盛り上がりを見せることでしょう。掛川城は今川氏が築城し、徳川氏が引き継ぎ、豊臣大名である山内一豊が入った城です。中世城郭から近世城郭へ、その歴史と変遷を掘り下げてみたいと思います。
戦国時代の掛川城は、今川氏の迎賓館だった?
掛川は遠州平野の東に位置し、北・東・南を山で囲まれています。古くは「懸川」とも呼ばれ、平野部から山間部へ地形が大きく変化する場所であることから、古来より要衝とされてきました。また、東西交通だけでなく、駿河湾の海産物や塩などを信州へ運ぶための「塩の道」も掛川を通っており、まさに遠州の要だった場所です。掛川に城が最初に築かれたのは、文明年間(1469~86)頃だとされています。守護大名・今川氏が東遠江の支配を盤石にするため、家臣の朝比奈泰煕に命じて築城させました。それは現在の掛川城から、北東500メートル先にある丘の上に築かれ、現在も「掛川古城」として中世城郭の様相を今に伝えています。
そして泰煕の跡を継いだ泰能の代になると、城域拡張の必要性から新城の築城に踏み切りました。大永2年(1522)に掛川を訪れた連歌師・宗長の日記によれば、堀の掘削と土塁の構築が行われていたらしく、堀は長さ700間(約1200メートル)に及ぶ長さがあり、恐ろしいほどの深さがあったと記されています。
さらに宗長は2年後に再び掛川を訪れていますが、城はまだ普請中だったようで、その築城期間の長さといい、土木量といい、かなりの規模だったことがうかがえるのです。
こうして完成した掛川城には宗長だけでなく、多くの公家が訪れました。とりわけ山科言継などは、弘治2年(1556)から翌年にかけて、二度も朝比奈泰能・泰朝父子を訪ねており、盛大な饗応を受けたことが『言継卿記』に記されています。
おそらく朝比奈氏は「もてなしの場」を設けていたのでしょう。連歌師や公家たちが駿府の今川館を訪ねる途中に、掛川城へ立ち寄ったことがうかがえるのです。
また、過去の発掘調査では、青磁や白磁といった中国製磁器とともに、中央図書館付近で「かわらけ」が大量に出土しています。「かわらけ」とは、宴席などで用いる使い捨ての器のことで、そこで盛大な催しや饗応が行われていたことを示唆するものです。つまり、長旅を続けてきた客人を接待するための迎賓館を掛川城内に作ったという可能性が高いでしょう。
掛川城の開城と、戦国大名・今川氏の終焉
永禄8年(1565)、甲斐の武田信玄と嫡男・義信との間で不和が生じ、これに危機感を抱いたのが今川氏真です。義信の妻は氏真の妹ですから、不安を覚えないはずがありません。さらに永禄10年(1567)になると、義信が殺されたことで氏真の焦燥はつのっていき、上杉謙信との接触を強めていきます。氏真が謙信とともに挟撃しようとしていると考えた信玄は、永禄11年(1568)12月、ついに大軍を率いて駿河へ侵攻。これに対して氏真は薩埵山に軍勢を配して迎撃しますが、すでに武田方へ内通する者が多くいることを知り、駿府を捨てることを決意しました。そして間道を伝って、朝比奈泰朝がいる掛川城へ逃げ込むのです。
一方、遠江でも徳川家康による侵攻が始まっていました。氏真・泰朝が籠もる掛川城も包囲され、年明けの永禄12年(1569)から城攻めが開始されます。
また、家康は掛川城を囲むように、青田山・仁藤山・金丸山・龍尾山などへ陣城を築き、さらに周辺の今川方諸将に調略を仕掛けていました。しかし孤立無援になったとはいえ、掛川城は非常に堅固な城です。城に籠もるだけでなく、城から打って出るなど頑強に抵抗したといいます。
城攻めが半年の長きに及んだ時、ついに根負けした家康は使者を遣わして和睦を求めました。いまだ遠江が不安定な情勢の中、長期戦は家康にとって望む展開ではありません。また旧主である氏真を殺したくなかったことも考えられます。
また『松平記』や『北条記』によれば、家康は武田軍が引き上げたあとの駿河に氏真を戻そうと、北条氏と交渉していました。その結果、5月に交渉がまとまり、降伏開城を受け入れた氏真は、掛塚湊から船で駿府へ向かったといいます。
ところが、すでに今川館は焼き払われており、駿府の町も荒廃していました。仕方なく蒲原城から沼津へ行き、そこで北条氏政と対面しています。そして氏政の嫡男・国王丸を養子とし、今川の名跡を譲りました。
こうして戦国大名としての今川氏は終焉を迎え、掛川城は徳川の城として、歴史にその名を刻んでいきます。
山内一豊の入封と、掛川城の大改修
徳川氏の属城となった掛川城には、家康の家臣・石川家成が入りました。やがて徳川と武田の熾烈な争いが始まると、遠江防衛の要衝として機能していきます。そして長篠の戦い(1575)ののち、家康は奪われていた高天神城の奪回を企図。新たに横須賀城を築き、北に位置する掛川城とともに高天神城攻囲の拠点としました。
天正9年(1581)に高天神城が落ちると、翌年には宿敵・武田氏が滅亡。掛川城はその後も石川氏が城主を務めたようです。
天正18年(1590)、豊臣秀吉は小田原攻めを命じ、それに伴って家康は東海道筋の諸城を明け渡しました。もちろん通過する豊臣方諸将の便宜を図るためであり、掛川城もまた秀吉の御泊城として定まっています。
ちなみに掛川在番として、秀吉の家臣・木下重堅が城を預かっていますが、これは小田原攻めの終了後、徳川氏を関東へ移封するための前準備だったものと考えられます。
そして徳川氏が関東へ移されたのち、掛川城主として入封してきたのが山内一豊です。
一豊がまずしたことは、家臣団の再編成でした。もちろん2万石から5万石への栄転ですから、絶対的に家臣の数が足りません。そこで今川の遺臣を多く召し抱えることで、家臣団の充足と領内の安定を図りました。
さらに一豊は、旧態依然とした掛川城の大改修に取り掛かります。城は織豊系城郭の特徴である「石垣・瓦葺・天守」の三点が整えられ、掛川城として初となる天守が建てられました。
一豊は長浜城・安土城・伏見城などの築城・城下町造成に携わってきており、いわば普請・作事のエキスパートです。当時としてはもっとも進歩した築城技術を学んでいたのでしょう。本丸をはじめ、城の中心部は、改修というより新設に近く、従来からあった掛川古城とともに大規模な土木工事が進められました。
また、小田原攻めでの戦訓から、掛川城を軍備と民政を併せ持った城として造り替えていきます。それが城と城下町を一体化させた「惣構(そうがまえ)」です。長期戦に耐えることができ、統治の面でも効率化が図れることから、各地の城で惣構の構築が進められていました。一豊もその有効性を見出していたのでしょう。
さて、城のシンボルとなる天守ですが、着工したのは天正19年(1591)で、竣工までに5年の歳月を費やしています。その構造は絵図などがないため明らかではありませんが、『御城築記』によれば、のちに一豊が土佐へ移って高知城を築城した際、掛川城を懐かしんで「掛川の天守と同じものを作れ」と命じたそうです。
江戸時代から現代に至るまでの掛川城
慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、山内一豊は掛川城を去りますが、代わって入封したのが家康の異父弟にあたる松平定勝でした。慶長9年(1604)には、一豊が築いた天守が地震で崩壊。元和7年(1621)にようやく再建されています。また、城の主要部や町割りについては、一豊の時代に基礎が出来上っていたため、定期的な修築が行われる程度でした。
江戸時代を通じて多くの大名が入れ替わっていますが、延享3年(1746)から太田氏が掛川藩主になると、そのまま交代することなく幕末まで続いています。しかし元和期に建てられた天守は、嘉永7年(1854)に起こった大地震により倒壊。再建されることなく明治を迎えました。
明治4年(1871)に廃城となってからは民間に払い下げられ、ほとんどの建物や構造物は取り壊されてしまいます。また石垣の破壊なども多く見受けられ、遺構としては天守台の石垣が残るだけとなりました。ただし、近世以降の積み直しによる改変が著しいといいます。
ちなみに現存する二の丸御殿は、掛川藩の藩庁として使われ、明治以降も役場や学校として活用されました。昭和55年(1980)には国の重要文化財に指定されています。
明治になって公園化した掛川城跡ですが、長らく市民の憩いの場として親しまれました。そして平成6年(1994)年には、企業や市民の寄付によって待望の木造復元天守が再建され、新たな掛川のシンボルとなったのです。
おわりに
掛川城は立地的に「家康の城」と思われがちですが、実際に近世城郭として大改修し、現在ある掛川の基礎を作ったのは、山内一豊によるものです。再建された現在の天守は高知城を模したものですし、縄張りをはじめ曲輪の構造や配置などは、すべて一豊がプランニングしたものでした。また江戸時代を通じて、城の大規模な改変が行われなかったあたり、優れた築城技術がうかがわれるところです。
そして令和5年(2023)4月より、修築が完了した掛川城天守が御目見えします。大河ドラマの盛り上がりとともに期待したいところですね。
補足:掛川城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
文明年間 (室町時代中期) | 今川氏の命を受けた朝比奈泰煕によって掛川古城が築かれる。 |
永正~大永年間 | 朝比奈泰能が新たに掛川城を築く。(宗長日記) |
弘治2年 (1556) | 山科言継が掛川城を訪れる。(言継卿記) |
永禄3年 (1560) | 桶狭間の戦いにおいて、今川義元が敗死。 |
永禄12年 (1569) | 徳川家康の遠江侵攻によって掛川城が開城。徳川氏の拠点となる。 |
天正18年 (1590) | 徳川氏の移封に伴い、山内一豊が新たに城主となる。 |
文禄5年 (1596) | 掛川城天守が完成。 |
慶長6年 (1601) | 山内氏の土佐移封に伴い、松平定勝が城主となる。 |
慶長9年 (1604) | 大地震によって天守が倒壊。 |
元和7年 (1621) | 掛川藩主・松平定綱によって天守が再建される。 |
延享3年 (1746) | 太田資俊が上州館林から掛川へ移封。幕末まで太田氏が掛川藩主となる。 |
嘉永7年 (1854) | 嘉永安政大地震によって天守が倒壊。以後再建されず。 |
文久元年 (1861) | 二の丸御殿が再建され、藩庁となる。 |
明治4年 (1871) | 廃城となる。 |
昭和55年 (1980) | 二の丸御殿が国の重要文化財に指定される。 |
平成6年 (1994) | 高知城を模した復元天守が完成する。 |
平成7年 (1995) | 大手門が復元される。 |
平成18年 (2006) | 日本100名城に選出される。 |
令和5年 (2023) | 復元天守の修築工事が完了。 |
【主な参考文献】
- 中井均・加藤理文『東海の名城を歩く 静岡編』(吉川弘文館、2020年)
- 大塚勲『今川一族の家系』(羽衣出版、2017年)
- 加藤理文『家康と家臣団の城』(KADOKAWA、2021年)
- 掛川城主資料特別展『大名の暮らしと武士の備え』(掛川市二の丸美術館、1999年)
- 小和田哲男『山内一豊のすべて』(新人物往来社、2005年)
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