【山梨県】新府城の歴史 武田勝頼が築いた悲運の城
- 2023/06/22
八ヶ岳の南麓から甲府盆地へ伸びる七里岩台地の上に、新府城跡という中世城郭があります。かつて戦国大名・武田勝頼が築き、新しい甲斐の中心地として繁栄を願った城でした。しかし武田氏滅亡とともに、その願いは潰えてしまい、無惨に焼け落ちてしまったのです。また、1582年の天正壬午の乱では、その要害ぶりから徳川家康が本陣を置いた場所でもありました。
なぜ勝頼は府中(甲府)を捨ててまで新しい城を築いたのか?その理由を解き明かしつつ、新府城の歴史についてご紹介していきます。
なぜ勝頼は府中(甲府)を捨ててまで新しい城を築いたのか?その理由を解き明かしつつ、新府城の歴史についてご紹介していきます。
勝頼の代になっても続けられた古府中の整備
現在の山梨県甲府市ですが、戦国時代以来、「府中」と呼ばれていました。永正16年(1519)、武田信虎(信玄の父)が躑躅ヶ崎館を築き、石和から移転したことで城下町が整備され、そこから甲斐の中心地となっています。やがて江戸時代に甲府城が築かれると、新しい城や城下町に対して、かつての府中は古府中と呼ばれました。さて、武田氏の本拠となった躑躅ヶ崎館は、信虎・信玄の二代にわたって増築・拡張が続けられていきます。『高白斎記』によると、天文20年(1551)には新しい台所が建ち、信玄の嫡男・義信の御座所が建設されました。これは今川義元の娘と結婚する際に備えられたもので、現在の西曲輪がこの時に造られたことがわかります。さらに天文22年(1553)には中の間も落成しています。館には増築や修繕の造作が次々に加えられたのでしょう。
信玄が亡くなった後は、武田勝頼が跡を継ぎますが、まだまだ府中の整備は続けられました。『会津風土記』によれば、天正2年(1574)には城下にあった柳町の整備を命じており、『三枝文書』の記録では御印番衆にあてて、詰めの城である要害山城の普請を申し付けています。要害山城は土造りの城ですから、常に堀を浚い上げたり、土塁を修復する必要がありました。そのため勝頼は、この種の命令をたびたび出しています。
天正3年(1575)、勝頼は長篠の戦いで大敗北を喫しました。多くの家臣が戦死し、国中が動揺する事態になったことで、勝頼は早急に立て直しを迫られます。もちろん人心の動揺を抑えたり、治安維持を図ることも重要でした。天正7年(1579)、勝頼は府中留守衆に対して、こんな指示を下しています。
「為始館中府之内外、火之用心不可有油断之事。覚悟之旨候間、積翠寺之用心、別而入干念可申付之事。小座敷衆奉公不可有油断之由、催促之事。自信州越国叨粮米運送由候、自今以後堅可相留之事。」
現代語に訳すと、以下のようになります。
「館のみならず、府中の内外で火の用心を油断してはならない。皆はしっかり記憶していると思うが、積翠寺(要害山城)の用心については特に念を入れて申し付ける。小座敷衆の奉公に油断があってはならないと催促すること。信濃から越後へみだりに兵糧米を輸送しているとのことだが、これから後は固く留め置くこと」
これは勝頼が、居館並びに府中の取り締まりに留意したもので、決して府中を捨て去るつもりがないことを示しています。また最後の砦として、要害山城がとても重要だと認識していたのでしょう。
新府城の築城は、長篠の敗戦がきっかけになったとする向きもありますが、この時点での勝頼は府中を離れる気などなかったようです。
新しい府中の建設を迫られた勝頼
ところが勝頼は、突如として本拠地の移転を明言しました。そして甲府盆地の外れにあたる韮崎に新しい城を築かせます。こだわってきた府中を捨ててまで、なぜ新府城を築く必要があったのでしょうか? それは当時、武田氏が置かれた状況にあったのです。長篠の敗戦以降、家臣団の再編に努めていた勝頼は、自らに権力を集中させる必要がありました。もし新府城を築城して家臣たちを城下に集住させれば、さらに権力を強めることが可能です。また、当時の家臣たちは府中ではなく、それぞれの領地に本拠を置いていました。もし一カ所に集めることができれば、一気に兵農分離が促進され、いつでも動かせる常備軍団を作ることも実現できます。
さらに新府城が築かれた立地も重要でした。武田氏の領国である甲斐・信濃・西上野・駿河を俯瞰的に見ると、古府中よりはるかに領域の中心に位置しています。
新府城から北へ進めば諏訪がありますし、そこから伊那地方を経由して遠江や三河まで視野に入りました。また諏訪から東へ行けば、佐久地方へ簡単に出られる上に上野へ進むことができます。いっぽう富士川沿いに南へ向かうと江尻へ出ることができ、そこから駿府まで繋がるのです。
また、新府城のそばを流れる釜無川を利用した舟運も期待できました。実際に武田氏は、千曲川沿いの海津城、天竜川沿いの大島城など、川沿いに築城することで舟運を用いた例が多いのです。つまり新府城は川を抑える意味を持った城だったのでしょう。
そのような勝頼の意図のもと、いよいよ新府城の築城が進められました。まず史料上の初見は天正9年(1581)正月にあたり、これは真田昌幸が普請にかかわる人足の徴発を依頼したものです。
「勝頼公の新居を移すため、分国の人夫をもって普請することになりました。家10軒から人夫1人ずつ召し寄せるようにしてください。また軍役衆には食料を申し付けるように。御普請の日数は30日ですが、詳しくは跡部十郎佐衛門から説明があります。」
また同年3月になると、勝頼自ら原隼人佑に宛てて書状を書き送っています。
「昼夜を分かたず働いていると聞いて感謝している。分国を堅固にするための備えは、ひとえにこの普請に掛かっている。御苦労とは思うが、いよいよ念入りに働いてくれるよう頼み入る。」
これを見る限りでは、勝頼の築城に掛ける意気込みが伝わってきますし、ずいぶん家臣に気を使っている様子がうかがえるのです。
そして突貫工事の末、新府城はようやく形となりました。同年9月になると、勝頼は友好諸国に向けて新府城落成を披露しています。とはいえ完全に出来上がったとは言えず、まだ未完成の状態だったようです。
また同年11月に上杉景勝へ宛てた書状では、「近日中に居を移すつもりでしたが、北条方の笠原新六郎が寝返ってきたこともあり、伊豆の仕置に追われておりました。そのため引っ越しが遅れています。」とあるように、府中からの引っ越しもかなり遅れていたようです。
とはいえ、巨大な城をたった1年で築いたのですから、やはり勝頼の権力が大きなものだったことがうかがえます。そして年が押し迫る頃、勝頼・信勝父子はようやく新府城入りを果たしました。
武田流築城術の粋を集めた新府城
これまで新府城の発掘調査はたびたび行われてきましたが、当時はどのような城だったのでしょうか?まず大手は東南端にあって東西14メートル、南北20メートルの規模を持つ枡形虎口がありました。また三日月堀と丸馬出を伴っており、大きな土塁が食い違うかのように配置されていたようです。
一方、搦手にあたる乾門でも、土塁を生かした枡形によって防御されていました。ここには門が二つあり、特に二之門では6個の礎石が発掘されるなど、大きく格式を持った門が存在したことをうかがわせます。
また北側の堀には「出構(でがまえ)」という特殊な構造の施設が二つあります。一見すると土を盛った馬出のように見えますが、防御施設としては非常に狭く、高さも3~5メートル程しかありません。これは新府城にしか見られない遺構で、どんな目的があったのか?現在でもよくわからないそうです。一説には敵に十字砲火を浴びせるための拠点だったとも。
本丸は東西90メートル、南北150メートルとなっていて、中央から北東側にかけて現在は藤武神社が鎮座しています。また本丸の周囲は土塁で囲まれており、いくつかの虎口が散見されます。ちなみに本丸の南側には直径10メートル程の穴がありますが、これは江戸~明治時代に芝居小屋があった名残です。ちょうど穴の位置に舞台があり、奈落という床下空間があったとか。他に二ノ丸や三ノ丸もおおむね堀や土塁で防御され、その堅固さを物語っています。
しかし新府城の優れた防御性を物語るのは、何といっても「七里岩」でしょう。これは釜無川によって浸食された断崖で、西からの攻撃を一切受け付けません。また北と東には巨大な堀があって敵の侵入を防いでいました。そして大手にあたる南側には丸馬出と三日月堀があり、ここに防御を集中させることで堅固さを発揮できたのです。
※参考:韮崎市HP:上空からみた新府城跡。西側の断崖絶壁がよくわかる。
新府城はまさに武田氏が長年培ってきた築城技術を集約した城でした。とはいえ、城の強さを発揮できるのも完成すればこそ。しかし勝頼・信勝父子が入城した時点では、まだ築城途中でした。そのタイミングで織田・徳川による甲州征伐を迎えてしまうのです。
武田氏滅亡とその後
新府城が攻撃される可能性として勝頼が考えていたのは、南からと想定していた可能性があります。諏訪氏の名跡を継ぎ、長く高遠城主を務めた彼にとって、新府城の北に位置する諏訪は地元も同然でした。つまり北から攻められたとしても、諏訪で頑張れば何とかなる。そんな考えがあったのかも知れません。天正10年(1582)初め、勝頼は外戚である木曽義昌が、織田方へ寝返ったことを伝え聞きます。2月2日、木曽討伐のため新府城を出陣した勝頼は、さっそく諏訪の上原城に陣を置きました。ところが織田の支援を受けた木曽勢と戦って敗れると、勝頼は陣を引き払って新府城へ戻ってしまいます。
やがて伊那方面からも織田信忠率いる大軍が押し寄せ、3月には高遠城が落城。その知らせを受けた新府城では対応と善後策をめぐって軍議が開かれました。
結果的に小山田信茂の勧めによって岩殿城へ向かうことを決した勝頼は、たった68日間しか過ごさなかった新府城に火を掛けて敗走します。のちに勝頼は小山田の裏切りに遭って進退窮まり、天目山に近い田野で自刃。ここに武田氏は滅亡を遂げました。
さて、本能寺の変で織田信長が横死したあと、甲斐を治めていた河尻秀隆・穴山梅雪が相次いで亡くなったことから、甲斐一帯は徳川氏と北条氏の草刈り場と化します。これが「天正壬午の乱」と呼ばれる戦乱です。
いち早く甲府を抑えた徳川家康ですが、北条氏直率いる大軍は上野から信濃を経由して甲斐へ南進してきました。また郡内地方も北条氏によって制圧され、北条氏忠が御坂峠に陣取っています。
一方、一時的に撤退した家康は新府城に本陣を置き、二方向からの敵に対処しました。おそらく新府城に建物は残っていなかったと考えられますが、陣地としての機能は申し分ありません。のちに家康は、信長の居城があった小牧山も本陣として使っていますから、やはり地の利を理解していた人物だったのでしょう。
やがて黒駒において両軍が激突し、数で劣勢な徳川軍が圧勝を収めました。これ以降に大きな武力衝突はなくなり、二ヶ月以上の対陣の末、両者は和睦を取り交わしています。そして徳川氏が甲斐の領有を確定させたのです。
おわりに
武田勝頼の肝煎りで、莫大な費用と多くの労働力を集めて築城された新府城ですが、もし武田氏が滅亡しなかったら、もしかすると山梨県の県庁所在地は韮崎だったかも知れません。しかし戦乱の中、武田氏の終焉とともに城は灰燼に帰しました。とはいえ新府城が完成していて、勝頼が籠城しつつ戦っていたなら?滅亡は免れないとしても、哀れな最期は避けられたのではないでしょうか。そういった意味では、まさに滅びゆく武田氏を象徴する城だと言えますね。
補足:新府城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
永正16年(1519) | 武田信虎、躑躅ヶ崎館へ本拠を移す。(府中のはじまり) |
元亀4年(1573) | 武田信玄が病死。勝頼が跡を継ぐ。 |
天正8年(1580)頃 | 勝頼、新府城の築城を決意。「新御館に御居を移され候の条」(長国寺殿御事蹟稿) |
天正9年(1581)1月 | 新府城の築城が始まる。真田昌幸が普請奉行となる。 |
同年3月 | 高天神城の失陥によって築城人夫の動員に影響が出る。(韮崎市誌) |
同年9月 | 一通りの普請が完成する。「去月普請悉く出来し候」(武州古文書) |
同年12月 | 勝頼・信勝父子、新府城へ移居。 |
天正10年(1582)2月 | 木曽義昌の離反に伴い、勝頼が新府城から出陣。 |
同年3月 | 勝頼の岩殿城行きに際し、城に火が掛けられる。 |
同年7月 | 天正壬午の乱はじまる。徳川家康が新府城に本陣を置く。 |
同年8月 | 黒駒合戦で徳川軍が勝利。のちに北条氏と和睦を交わす。 |
江戸時代初め | 家康の命により、平岩親吉が城跡に藤武神社を再建する。 |
昭和48年(1973) | 「新府城跡」として国の史跡指定を受ける。 |
平成10年(1998) | 大規模な発掘調査が開始される。 |
平成17年(2005) | 伐採・修復・植栽を伴う史跡整備が始まる。 |
平成29年(2017) | 続日本100名城に選定される。 |
【主な参考文献】
- 山下孝司・平山優「甲信越の名城を歩く 山梨編」(吉川弘文館 2016年)
- 網野善彦「新府城と武田勝頼」(新人物往来社 2001年)
- 丸島和洋「戦国大名武田氏の家臣団」(教育評論社 2016年)
- 韮崎市教育委員会「史跡新府城跡 保存管理計画策定資料集」(1988年)
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