【静岡県】諏訪原城の歴史 武田から徳川へ。熾烈な戦いの最前線となった城
- 2023/02/03
戦国時代、武田氏と徳川氏は遠江をめぐって熾烈な戦いを繰り広げていました。「高天神を制する者は遠江を制す」と謳われた高天神城が争いの焦点となりましたが、そこから北東部に存在した諏訪原城も、重要な拠点として機能していたようです。
前線・兵站基地としての諏訪原城から、対武田の最前線となった牧野城へ変遷を遂げるわけですが、今回は諏訪原城(牧野城)の数奇な歴史についてご紹介していきましょう。
前線・兵站基地としての諏訪原城から、対武田の最前線となった牧野城へ変遷を遂げるわけですが、今回は諏訪原城(牧野城)の数奇な歴史についてご紹介していきましょう。
【目次】
築城の名手・馬場信春によって築かれる
現在は広大な茶園が広がる牧之原台地には、かつて官営の牧場である「官牧」があったことから、「牧之原」と呼ばれるようになったそうです。そして台地の北端に近い平坦地に築かれたのが、諏訪原城でした。東は駿遠両国の境をなし、駿河随一の大河である大井川が流れています。また城の南には小夜の中山から菊川宿を経て東海道が通っており、北へ抜ける街道も通じていました。つまり諏訪原城は、大井川の渡河点に通じる二つの街道を抑える位置に築城されたのです。
武田信玄が亡くなったあと、息子の勝頼が跡を継ぎました。そして徳川氏の支配下にあった遠江の攻略を目論むのです。まず大井川の対岸に城を築くことを考え、重臣・馬場信春に命じて城を築かせました。信春はのちに築城の名手として評された人物で、すでに深志城や牧野島城などで実績を上げていたようです。
城は天正元年(1573)頃に完成したらしく、城内に諏訪大明神を祀ったことから諏訪原城と命名されたといわれています。かつて川中島合戦の折り、信玄が諏訪大明神に戦勝を祈願したといいますから、武田氏にとって縁起の良い祭神だったのでしょう。ちょうどこの頃、武田氏は小山城(静岡県吉田町)を保持していましたが、規模が小さくて街道から外れていたこともあり、諏訪原城が遠江侵攻のための前線基地となっています。
ちなみに当時の諏訪原城ですが、本曲輪を要として、二の曲輪や惣曲輪・大手曲輪などの曲輪群が扇状に配置され、それらを防御する堀が備わっていました。その姿から別名「扇城」とも呼ばれていたそうです。また、台地の端に築かれたことから、西から見れば平城、東から見れば明らかな山城となっていて、主に西側に防備を集中させているのが一目瞭然です。
武田勢が逃亡し、徳川の持城となる
翌天正2年(1574)、武田勝頼は信玄ですら落とせなかった高天神城を攻略。遠江に大きな楔を打ち込みました。また諏訪原城は前線基地としての役目を終え、高天神城へ兵糧や物資を送るための補給基地となります。ところが天正3年(1575)5月、長篠・設楽原の戦いで武田軍が惨敗を喫したことにより、遠江における情勢は徳川氏が有利となっていきました。徳川家康はすぐさま逆襲に転じ、二俣城や光明城といった拠点を奪い返しています。
さらに高天神城を奪還するべく、新たに馬伏塚城を築き、武田方の重要な兵站基地だった諏訪原城の攻略に乗り出しました。つまり高天神城を干上がらせるため、補給ルートを絶とうとしたのです。
同年7月20日、徳川勢は諏訪原城を取り囲んで力攻めにしました。さすがに馬場信春が築いただけあって、城の防備は厚く、守将・今福虎孝をはじめ、室賀満正・小泉昌宗ら城兵が頑強な抵抗を見せています。しかし籠城すること一ヶ月。これ以上の抗戦は難しいと判断した虎孝らは、城に火を放って脱し、東の吉田城へ逃れました。
『当代記』によると、家康自ら軍勢を率いて指揮を執り、深い堀を埋めてようやく落としたといいます。
こうして家康によって奪われた諏訪原城は徳川の持城となり、城の名を牧野城と改めています。おそらく武田の軍神を祀った諏訪の名を嫌ったためでしょう。
勢いに乗る家康は、次いで小山城へ攻め掛かります。しかし勝頼の救援が間に合ったこともあり、落とすことはできませんでした。しかし徳川勢の逆襲の結果、遠江における武田方の城は、高天神・小山・滝堺の三つを残すのみとなっています。
現在の遺構は徳川時代のもの?
さて、諏訪原城は牧野城と改名されて徳川氏が支配しますが、大井川の向こうは依然として武田領です。いつ敵が攻め寄せてくるかわからず、城をもっと頑強にする必要がありました。つまり牧野城は一転して最前線の拠点となり、ここから大改修が加えられます。これまで諏訪原城跡では、茶園改植や道路拡張工事などにより、大手曲輪や二の曲輪、堀などの発掘調査が行われてきました。そこから城の全貌が明らかになっています。
まず本曲輪ではトレンチ調査の結果、焼土層より上の部分で枡形土塁が構築されていることがわかりました。また下の層では、瀬戸美濃産の丸椀の欠片や、炭化米、焼けた土壁などが出土しています。本曲輪の伝天主台地と呼ばれる箇所では、焼土層の上に土塁の基礎があり、建造物の基礎も発見されています。
次に二の曲輪ですが、枡形の空間と堀の形状に沿って土塁の痕跡が認められ、北馬出の出入り口では門の礎石が見つかりました。そして諏訪原城の代名詞といえる三日月堀は、10メートルもの深さがあったとされ、城の堅固ぶりがうかがえるところですね。
従来まで諏訪原城は、馬場信春によって築かれ、丸馬出を多用していることから、武田流築城術の典型だとされてきました。ところが発掘調査の結果、焼土層を境に二面の遺構が確認されたことで、下の遺構面が武田氏時代、そして上の遺構が徳川氏時代だと推測されています。
つまり、現在見られる曲輪や堀などの大部分は、家康の大改修による遺構だと考えた方が良さそうです。諏訪原城跡と名が付くものの、本当は牧野城跡と呼んだ方が正解なのかも知れません。
今川氏真が城番だった時代~廃城まで
こうして最前線の城として生まれ変わった牧野城ですが、城番として任命されたのが今川氏真でした。かつて駿河・遠江の国主だった氏真は、永禄11(1568)に武田・徳川の同時侵攻を受け、北条氏の保護を受けて小田原へ亡命しますが、その後、北条氏の外交政策の転換によって、家康の庇護を受けています。
家康が氏真を城番に抜擢した理由については、いずれ駿河を手に入れる旗印として、また大義名分として利用するつもりだったのでしょう。
家康は書状の中で「氏真を駿河へ入国させるつもりだから、まずは牧野の城番を任せる」と述べています。
とはいえ家康も心配だったに違いありません。家臣の松平家忠と松平康親の両名を付属させ、「氏真によく助言し、決して疎略に扱うな」と指示しています。
しかし氏真が城番を務めた期間はわずかでした。氏真を浜松へ召喚する理由があったのか?それとも働きが見合わないと判断されたためか?理由は不明ですが、一年ほどで牧野城番を解任されてしまいます。ただし解任されたのは、ずっと後のことだったと唱える研究者もいらっしゃるとか。
ちなみに解任された直後の書状を読むと、氏真の口惜しさが伝わってくるようです。
「牧野入城之刻より無々沙汰雖令奉公、任御内儀濱松へ罷帰之儀、不及是非、於本意之時者走参可奉公也、知行配当等之義君、一々其次第申付、不可有相違者也、仍如件」
現代誤訳すれば、こういった感じでしょうか。
「牧野へ入城してから、よく奉公してくれたが、このたび家康殿の指示により浜松へ戻ることになった。もし本意の時が来たなら、再び私に奉公してほしい。思いのままの知行を与えることに偽りはないだろう。」
これは解雇され、離散する家臣に与えた書状で、氏真の人柄がよく表れた史料かも知れません。
さて氏真が浜松へ去ったあと、松平家忠・松平康親・西郷家員・戸田康長・牧野康成らが城番として城を守りました。彼らは「定番衆」と呼ばれ、一ヶ月ごとに交代していたようです。とりわけ松平家忠が残した『家忠日記』には、武田との攻防戦や城普請の様子などが克明に描かれ、それは天正9年(1581)の高天神落城後まで記されています。
そして翌年に武田氏が滅亡したことにより、牧野城は軍事的役割を終えました。その後も城の形態は維持していたものの、天正18年(1590)に徳川氏が関東へ移封した際、廃城になったと考えられています。
おわりに
わずか20年足らずで役割を終えた諏訪原城ですが、城の機能どころか名称まで変わってしまった珍しい城です。築城された歴史的背景といい、遺構の素晴らしさといい、歴史研究者がこぞって注目するのもわかるような気がしますね。また現在の城跡はきれいに整備され、訪れやすい環境にあります。三日月堀や馬出など、城の堅固さを感じることもできますから、お城初心者でも気軽に戦国城郭を楽しめるのではないでしょうか。本曲輪跡に佇めば、晴れた日に富士山が見えますので、ぜひオススメしたい城なのです。
補足:諏訪原城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
天正元年 (1573) | 馬場信春によって諏訪原城が築かれる。 |
天正2年 (1574) | 武田軍によって諏訪原城が陥落。諏訪原城に兵站基地の役割が与えられる。 |
天正3年 (1575) | 長篠・設楽原の戦いが起こる。徳川軍の攻撃で諏訪原城が落城。 |
同年 | 諏訪原城が大改修を受け、牧野城と改称。 |
天正4年 (1576) | 今川氏真が牧野城の城番となる。 |
天正5年 (1577) | 今川氏真が城番を解任。その後は定番衆による輪番制となる |
天正9年 (1581) | 徳川軍によって高天神城が陥落。牧野城が軍事的役割を終える。 |
天正18年 (1590) | 徳川氏の関東移封に伴って廃城となる。 |
昭和29年 (1954) | 静岡県指定史跡となる。 |
昭和50年 (1975) | 国指定史跡となる。 |
平成14年 (2002) | 大手曲輪の一部を追加指定。 |
平成29年 (2017) | 続日本100名城に選定。 |
【主な参考文献】
- 城郭資産による街づくり評議会「戦国時代の静岡の山城」(サンライズ出版 2011年)
- 小和田哲男「戦国静岡の城と武将と合戦と」(静岡新聞社 2015年)
- 中井均・加藤理文「東海の名城を歩く 静岡編」(吉川弘文館 2020年)
- 久保田昌希・大石泰史ほか「戦国遺文 今川氏編」(東京堂出版 2014年)
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