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佐久間信盛は追放されるような失態を犯したのか?検証してみました

織田信長が天下統一を目前にした天正8年(1580)、重臣の一人である佐久間信盛が、息子の信栄とともに織田家から去りました。30年来仕えてきた重臣をあっさり放り出した信長の非情さを示すエピソードとして語り継がれています。

信盛は、本当に追放されるような失態を犯してしまったのか、信長の折檻状をもとに「信盛を擁護する立場」から検証してみました。

信盛への19カ条の折檻状

佐久間信盛は、信長が家督を相続したころから仕え、天下統一のためにまい進した数々の戦いで活躍したばかりか、有能な官吏としても織田家を支えてきた重臣中の重臣といえる存在でした。石山戦争と呼ばれる本願寺との戦いで最高司令官を担ってきましたが、天正8年に本願寺が降伏した直後、信長から19カ条にもわたる折檻状を突きつけられたのです。

折檻状には、石山合戦での不首尾を中心に、過去にさかのぼった信盛や信栄の卑怯な振る舞いを延々と書き連ね、信盛に対し「信長に30年間仕えているが、比類ない手柄と称されたことは一度もあるまい」と言い放っています。本当に信盛は「比類ない手柄」を立てたことがなかったのでしょうか。

石山合戦での信盛の戦い方

折檻状の中で、石山合戦については「5年間天王寺に在城したが、その間格別の功績もなかった」「機を見て一挙に合戦に持ち込もうとせず、ひたすら持久戦にのみ固執していたのは未練がましい」と批判しています。

しかし、強大な城攻めにも匹敵する本願寺包囲戦は、力づくで攻め立てれば勝てたでしょうが、その分味方にも甚大な被害が出たことは想像できます。しかも当時は、第2次木津川口海戦で毛利海軍を撃破するまで本願寺側に制海権を握られていたり、摂津(大阪府)で荒木村重が謀反を起こし、本願寺包囲戦の戦略変更を余儀なくされたりと、不利な戦況が続いていたことも事実です。

柴田勝家の北陸攻略、明智光秀の丹波攻略、羽柴秀吉の中国攻略と、各地に軍勢を分散していた中で、本願寺を徹底包囲し続けて身動きを封じ、徐々に戦力を消耗させていった信盛の軍略に間違いはなかったと思います。

三方ヶ原合戦での信盛の行動

折檻状では、信長が徳川家康に援軍を出した元亀3年(1572)の三方ヶ原合戦についても触れています。家康が、武田信玄によって三方ヶ原におびき出され、武田軍に完膚なきまで叩きのめされた戦いで、信長も「負けたといえば、確かにその通りだ」と認めています。

信盛に対しては「自分の軍勢からは一人も討ち死にを出さず、同僚を見殺しにして平気な顔をしている」と辛辣で、「常にこうした心構えだった」と糾弾しているのです。

この戦いを前に家康は、信玄の進攻に備えて信長に援軍を要請したのですが、当時の信長は将軍の足利義昭と対立し、浅井・朝倉軍などの動向もあって苦境に立たされていました。そのなかで重臣格だった信盛を援軍に差し向けたのです。

信盛とすれば、家康を助けることが最大の任務とはいえ、同時に戦国最強と言われた武田軍の戦い方を見定めたいという思いもあったのでしょう。とすれば、圧倒的な不利となった三方ヶ原合戦で、討ち死にするわけにはいかないと考えても不思議はありません。

朝倉攻めの際の信盛の口ごたえ

折檻状のきっかけになったと言われるできごとが、元亀4年(1573)の越前朝倉氏攻めの最中に起きています。敗走する越前勢の追撃に家臣たちが遅れを取ったとして、信長が叱責した時です。

柴田勝家や丹羽長秀らが信長に陳謝したなかで、信盛だけは涙を流しながら「そうはおっしゃられても、我々ほどの家臣はお持ちにはなれますまい」と口ごたえをしました。当然ですが信長は立腹し、たいそう機嫌が悪かったといいます。

折檻状では「恐縮もせず、挙句に自慢を言って、その場の雰囲気をぶち壊した」と断罪し、石山合戦での長対陣を引き合いに出して「あれほどの口を叩きながら、卑怯な行為は前代未聞だ」と、遺恨丸出しで糾弾しています。

推測ですが、朝倉攻めの際の信長と信盛のやり取りは、おそらく「売り言葉に買い言葉」だったのでしょう。ただ、主君の命は絶対的だと考える信長には、許しがたい行為に思えたのかもしれません。

おわりに

折檻状をよく読むと、佐久間信盛・信栄親子に対して「汚名返上して敵を制圧するか、髪を剃って高野山に引退するか」の二者択一を迫っていることが分かります。もしかすると信長は、信盛・信栄に非常に厳しい「げき」を飛ばしたかったのかもしれません。

しかし、信盛・信栄は後者を選んで織田家から追放されることになり、不遇な晩年を過ごしたとされています。佐久間信盛は決して「比類ない手柄」が無かったわけではありません。主君が織田信長だということが、最大の悲劇だったのではないでしょうか。

※参考文献
 地図と読む現代語訳「信長公記」(太田牛一著、中川太古訳)

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  この記事を書いた人
マイケルオズ さん
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

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