「下河辺行平」鎌倉殿をぎゃふんと言わせた問答と信頼 ──畠山重忠の親友でもある有力御家人

『前賢故実』で描かれた下河辺行平の像(菊池容斎 画、出典:wikipedia)
『前賢故実』で描かれた下河辺行平の像(菊池容斎 画、出典:wikipedia)
源頼朝の信頼が抜群に厚かった鎌倉幕府の御家人に下河辺行平(しもこうべ・ゆきひら)がいます。源平合戦、奥州合戦で活躍し、武芸、胆力に優れた坂東武士です。また、頼朝との問答がなかなかクレーバーで、ときに頼朝をぎゃふんと言わせることもありました。「鎌倉殿」ブームのなかでもあまり目立ってはいませんでしたが、下河辺行平という武将を知ってほしいと思います。

頼朝暗殺防ぎ、褒美に望んだものは…

下河辺行平は小山3兄弟(小山朝政、長沼宗政、結城朝光)の従兄弟。先祖は名将・藤原秀郷です。生没年不詳ですが、畠山重忠の「弓馬の友」といい、近い年齢とすれば1160年代生まれと想像できます。本拠地は下河辺荘。現在の茨城県古河市から埼玉県東部などにかけた利根川中流部沿岸の細長い荘園です。

父・下河辺行義は小山3兄弟の父・小山政光の弟。以前から源頼政に従っていて、頼政挙兵後の消息が不明なので、このとき戦死したと考えられます。

行平は治承4年(1180)5月、源頼政の挙兵準備を源頼朝に連絡。早い時期から頼朝に従っていました。また、治承5年(1181)年4月には、頼朝の寝所警護の11人に選ばれます。北条義時や結城朝光、梶原景季(梶原景時の長男)らが同僚。信頼度の高さがうかがえます。

鶴岡八幡宮で刺客を逮捕

改元して養和元年(1181)7月20日、鶴岡八幡宮での儀式の後、身長約210センチの大男が頼朝の背後に忍び寄りましたが、下河辺行平が取り押さえます。男は前年討たれた長狭常伴の家来で、その恨みを晴らそうと頼朝を狙っていた左中太常澄という武士。行平は頼朝暗殺を未然に防ぎ、ボディーガードとしても有能でした。

頼朝は行平に尋ねます。

頼朝:「今日の処置は見事である。望みのことがあれば、すぐにかなえよう」

行平:「大した所望ではございませんが、毎年の馬の献上で領民が困っていることでしょうか」

頼朝:「勲功のとき、誰もが望むのは官職か所領だ。異例だが、その通りしよう」

行平の所領での馬の献上が免除されました。大手柄にも欲張らず、領民思いの面をみせるなど随分と格好をつけ、できすぎた話ですが、機知に富んだ頼朝との問答はまだまだあります。

源平合戦の土産、奥州合戦の笠標

下河辺行平は源平合戦では源範頼の遠征部隊に従って西国を進軍。元暦2年(1185)1月、九州上陸では甲冑を売って船を買い、一番乗りを目指します。この遠征部隊は食糧難に陥るなど苦難続きでしたが、行平は厳しい状況でも自身の身を守る甲冑よりも先陣の名誉を求める勇猛さを示したのです。

頼朝に献上した弓「九州第一」

文治元年(1185)8月24日、西国から鎌倉に帰還した行平は「九州第一」と名付けられた弓を頼朝に献上します。ところが、頼朝は素直に喜ばず、苦言を呈しました。

頼朝:「ただちにこの弓を受け取るわけにはいかないな。九州に遠征した者はことごとく兵糧がなくなった。馬に乗って参上したことも不思議と言わねばならない。そのうえ土産まで献上している。九州で不正に金品を受け取らなければ、どうしてこのような蓄えがあろうか」

行平:「九州で兵糧を使い果たしたので郎党の甲冑を売却させ、九州に渡るときは忠義を尽くすために先駆けを心掛けて自分の鎧と小舟を交換しました。今、お召しにより御所に参上するのに進物がないのは私の考えに反します。弓は持ち主が売ろうとしたとき、小袖1領を脱いで交換しました」

行平はさらに細かく弁明。貧窮のなかでも頼朝への忠義を考え、戦功と献上品を優先させたことなどを説明します。これに頼朝は態度を一変。感涙を浮かべて「日本無双の弓取が選んだものだから宝物にしよう」と喜び、行平に播磨守護職まで約束しました。

藤原秀郷の吉例、先陣の笠標

奥州合戦のとき、準備として行平は頼朝の鎧兜の新調を命じられ、文治5年(1189)7月8日に持参しました。兜には笠標(かさじるし)が付けてあります。笠標は敵味方を区別する目印となる小旗のようなもので、鎧の袖に付けても腰につけても笠標。「袖の笠標」とか「腰指の笠標」と呼びます。

兜の笠標を見て頼朝が行平に問いただしました。

頼朝:「これは袖に付けるのが通例ではないか」

行平:「これは先祖秀郷朝臣以来の吉例です。武士が常に心掛けるのは先駆けですが、先頭を行くとき、敵は名乗りによって誰が先駆けかを知り、味方は後方からこの笠標を見て誰が先駆けかを知ります。(頼朝が)袖にお付けになるかどうかは御意次第ですが、このようなものを進上するときは家のしきたりで行うのが故実です」

行平は先祖の名将・藤原秀郷の誇りを示し、頼朝を大いに感心させました。行平は頼朝との問答でまたしても一本取った形です。

「弓馬の友」畠山重忠のピンチを救う

文治3年(1187)、代官の失態から「武士の鑑」とも言われる畠山重忠が謹慎します。所領の武蔵・菅谷(埼玉県嵐山町)に引きこもると、梶原景時が源頼朝にご注進。これが畠山重忠への讒言とも捉えられます。

「畠山重忠は菅谷に引きこもり、反逆を起こそうという情報があります。一族がことごとく在国しており、これはつじつまが合っています」

展開次第では、重忠はピンチに陥ります。文治3年(1187)11月15日、下河辺行平のほか、小山朝政、結城朝光、三浦義澄、和田義盛ら頼朝が信頼する武将が集められ、対応を協議。使者を送り事情を問うべきか、直ちに討手を出すべきか。この両案を協議せよというのが頼朝の指示。結城朝光がまず、「畠山重忠殿は謀反を起こすような人ではない」とかばい、ほかの者も同意見だったので、事情を問う使者を送ることになりました。使者には「弓馬の友」である行平が選ばれ、翌日の夜明け前に鎌倉を発ちました。

憤慨する畠山重忠を説得

11月17日、行平は畠山重忠の館に到着。事情を説明すると、疑われていることを知って重忠は憤慨。腰の刀を取って自害しようとします。行平は手を取って押しとどめました。

「(自分が重忠を)討ちに来たのなら恐れることもないから偽計を用いることはない。貴殿も行平も将軍の子孫である。(討ちに来たと)真実を明かしたうえで戦うことも面白いだろう。だが、貴殿の友である行平を使者にしたのは話を聞くために連れてくるようにとの(頼朝の)御はからいであろう」

重忠は納得。酒をくみ交して鎌倉への帰参に同意しました。行平のいう「将軍の子孫」とは、畠山重忠の先祖・平良文(平将門の叔父)も、行平の先祖・藤原秀郷もともに鎮守府将軍の地位にあったことを指しています。建久3年(1192)の頼朝就任前、征夷大将軍はあくまで臨時の官職で、鎮守府将軍こそが武士の最高名誉職であり、行平は互いにその名誉ある家系であることを強調したのです。

行平が畠山重忠を伴って鎌倉に帰参したのは11月21日。2人は頼朝に会い、雑談しましたが、重忠への疑いについては触れられないままでした。頼朝は不問に付したのです。そして、行平は剣を贈られました。この件の決着について、うまく収めたことを頼朝が暗に感謝したのです。

おわりに

下河辺行平は源頼朝の信頼も絶大で、頼朝との関係では、もっともっと注目されていい有力御家人です。武勇だけでなく、危機対応能力や自己弁護能力があり、弁舌さわやかな面もあります。多角的な坂東武士の面白さを持った武将なのです。


【主な参考文献】
  • 五味文彦、本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』(吉川弘文館)
  • 野口実『中世武士選書15坂東武士団と鎌倉』(戎光祥出版)
  • 茨城県史編集委員会『茨城県史』(茨城県)

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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