ザンギリ頭を叩いてみれば、明治の断髪令
- 2023/03/24
「ザンギリ頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」明治文明開化の象徴のように言われた男の断髪スタイル。しかしチョンマゲを切り落とすのに、最初はかなり抵抗もあったようです。
みんな髪を切りなさい
「チョンマゲ頭を叩いてみれば、因習姑息の音がする。総髪頭を叩いてみれば王政復古の音がする」「ザンギリ頭を・・・」は本来はこの後ろに続けて謳われるものでした。七・七・七・五の音節で出来ている都々逸を俗謡に仕立てたのですが、良く出来た唄です。
開国を果たし、西欧に追いつけ追い越せ、と躍起になっていた日本。古い日本の象徴としてやり玉に挙げられたのが、武士の帯刀と男たちのチョンマゲ姿です。幕末から明治初期にかけて髷を結わず髪を切る男性も出て来ましたが、まだまだ髷に愛着のある者の方が多かったのです。
これでは文明開化が遅れる、日本人はいつまでも野蛮な民族とみられてしまう、と新政府の役人は焦ったのでしょうか。 とうとう明治4年(1871)8月9日、「散髪・脱刀勝手令」を発布します。
もっともこの時は禁止令ではなく、チョンマゲを結わなくとも良い、華族・士族は刀を差さなくても良いと言う自由令でした。同年12月27日平民の帯刀については禁止され、官吏の礼装時にのみ帯刀するようにと改められます。
この命令が発布される前には、全国の藩県の役人から「役人がチョンマゲを切って仕事をしても良いのか」との問い合わせが明治政府に寄せられていました。そんなこんなもあって、政府もわざわざ命令を出しました。
チョンマゲそもそも
頭頂部を剃り上げ左右の鬢の毛で髷を結わえて頭髪を整える、チョンマゲは世界的に見ても特異な髪型ですが、昔兜をかぶる武士が頭が蒸れないように月代を剃ったのが始まりと言われます。江戸時代になって一般庶民にも広まりました。総髪は月代を剃らずに全ての髪を後ろで束ねる髪型で幕末にはやりましたが、この髪型を用いたのは坂本龍馬や木戸孝充、大久保利通・伊藤博文・近藤勇と幕末明治の有名どころがずらりと名を連ねています。総髪の者はチョンマゲほど断髪に抵抗が無かったようで、木戸や大久保・伊藤らは早々に髪を切っています。
岩倉具視は結構頑張ったようで、明治4年(1871)11月に欧米へ向けて出発した岩倉使節団では、サンフランシスコで撮影された時にはただ1人チョンマゲ姿で写真に納まっています。その後、旅の途中シカゴで髪を切り、1年10ヶ月後に帰国した時にはすっきりとザンギリ頭でした。
断髪を巡って一揆まで発生
しかし一般庶民の断髪に対する抵抗感は強かったようで、何と明治6年(1873)3月には、敦賀で断髪脱刀に反対する一揆が発生、騒乱罪で6人もが処刑されています。同年8月には滋賀県がチョンマゲを切らない者には税金をかけるとの布告を出しました。会津若松では、髪結いの店からは地方税を取り立てますが、断髪店の方は無税にする、とかなり露骨な対応をしています。愛知県に至っては、巡査が署内を回ってチョンマゲ姿を見つけると住所・氏名・生国を問い質し、所轄管内の者ならば法令の内容を諄々と説いて聞かせました。
東京では内務卿の大久保利通が断髪して出庁すると、次の日には省内全員がザンギリ頭になって居たとか。
明治6年(1873)3月、「天皇髷を断ちたまわんの叡慮ありしが、遂にこれを断行あらせられ散髪となしたまう」として明治天皇が髷を落とされます。このころから一般にも断髪は広まって行きました。
断髪を引き受けた散髪屋
さて、庶民はどこで髷を切って貰ったのでしょうか? 髪結い床からの転職組が多かったようで、明治2年(1869)には早くも「西洋散髪司」とか「西洋髪刈所」等を名乗る店が横浜で商売を始めています。目ざとい髪結い屋が、居留地の外国人から散髪のノウハウを学んで看板を掲げたものです。ただ、こうした機会や知識が持てなかった地方では、床屋が対応しきれずに様々な奇妙な髪型が誕生しました。明治6年(1873)6月25日付の『東京日日新聞』によると、
「愛知県下では散髪の種類が甚だ多く、坊主有り、四隅を剃った円座頭有り、中央に窓を作った河童頭有り、前頭に溝筋のある曲突頭有り」
と言った有様でした。
また明治10年(1877)の『大阪絵入雑誌』第三号には
「ある髪結い床では、切り落とした男の髷を数百本吊るしてあるそうだ。開化風の断髪に改めた衆生の黒髪か、あるいは戦地へ出陣した抜刀隊が、決死の覚悟を以ってこの床屋で一斉に断髪したものか」
との記事が載っています。記者はこの光景を「異様ではあるが亭主の洒落心だろう」と評していますが、断髪にするなら当店でどうぞとの宣伝だったのでしょう。しかしちょっとゾッとするような光景ではあります。
明治9年(1876)、天皇が東北巡幸なさった時、福島県郡山で開拓功労者20余人が拝謁を賜りました。天皇の御前で脱帽したのは良いのですが、チョンマゲ姿の者も数人居たとか。
おわりに
断髪の副産物として流行したのが男性の帽子です。明治大正のころの男性は良くパナマ帽・鳥打帽・ソフト帽・山高帽などを被って居ましたが、ザンギリ頭を見られるのが何となく恥ずかしく照れ隠しに被ったのが始まりのようです。【主な参考文献】
- 本田豊『絵が語る知らなかった幕末明治のくらし事典』遊子館/2012年
- 奥武則『文明開化と民衆―近代日本精神史断章』新評論/1993年
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