信長の血縁で家康の最初のライバル・桜井松平氏とは
- 2022/12/16
織田信長と徳川家康は長く同盟関係を結び、お互いの本拠地を背にして信長の死までの約20年間、良好な関係を築いていました。一説には家康が松平を名乗り、織田の人質になっていた時期に2人は知り合ったとも言われていますが、そうした説が信じられるくらい両者の関係は安定した同盟だったと思われています。
しかし、信長の父である織田信秀の代の頃は、むしろ織田と松平は敵対関係になっていました。それは、織田氏にとって家康よりも血縁関係の深い、もう1つの松平氏が存在していたからです。
その家とは桜井松平氏(さくらいまつだいらし)です。一時は岡崎も支配し、家康の祖父・父を暗殺したという説もある一族です。彼らは後に家康に降伏し、信濃の上田藩を預かる大名となり、江戸時代には老中も輩出する名門になったため、史料上では配慮された形跡が見られています。
今回はそんな家康の最初のライバルで織田信長と血縁関係にあった桜井松平氏について考察していきます。
しかし、信長の父である織田信秀の代の頃は、むしろ織田と松平は敵対関係になっていました。それは、織田氏にとって家康よりも血縁関係の深い、もう1つの松平氏が存在していたからです。
その家とは桜井松平氏(さくらいまつだいらし)です。一時は岡崎も支配し、家康の祖父・父を暗殺したという説もある一族です。彼らは後に家康に降伏し、信濃の上田藩を預かる大名となり、江戸時代には老中も輩出する名門になったため、史料上では配慮された形跡が見られています。
今回はそんな家康の最初のライバルで織田信長と血縁関係にあった桜井松平氏について考察していきます。
【目次】
桜井松平氏とは
そもそも桜井松平氏はどんな一族なのでしょうか。家康と同じ松平氏ですが、家康の曾祖父にあたる松平信忠の弟である松平信定の時代に分かれました。 信定は叔父の松平親房が治めていた領地である三河国碧海郡桜井を受け継ぎ、桜井城の城主となりました。この本拠地から桜井松平氏と呼ばれています。
この時、兄である松平信忠が三河武士の反感を買っており、信忠を廃して信定を松平氏の当主にしようとする動きがあったと言います。信忠への反発は『松平由緒書』に一味神水をおこなったという記述が残っていることから、とても大きな動きだったのがわかります。しかし、信定は叔父の領地を継ぐことになり、信忠は隠居して家康の祖父・松平清康が満12歳(一説に13歳)で後を継ぎました。
のちに桜井松平氏が宗家にあたる清康・広忠・家康に対立した理由に、この出来事が影響したのではと考えられます。若い清康が当主となり、宗家を継げそうだった信定が一部の領地だけを受け継ぐことが決まる…。信忠が隠居した年齢が満33歳であることを考えると、当時の信定はまだ20代と推測されます。
信定が宗家を継ぐ野望が捨てきれずに燻る思いがあった可能性は高いと思われます。
織田氏と松平氏を繋ぐ立場だった松平信定
信定は大永6年(1526)に守山の領主となります。守山は尾張国にあり、現在の愛知県名古屋市守山区のことです。織田信長が生まれた那古野城とも近く、松平氏の一族にしては不思議な場所になります。信定が領主となった際、その祝賀会には多くの人が招待されています。その面々は同時代史料である『宗長手記』に記されており、千句連歌会が開催されていることがわかります。
「廿七日、尾張国守山松平与一館、千句。清須より、織田筑前守 ・伊賀守・同名衆、小守護代坂井摂津守」
ここに記されているメンバーについては以下のとおりです。
- 織田筑前守:織田藤左衛門良頼
- 織田伊賀守:松葉城主で織田信秀・信長親子の弾正忠織田氏に仕えた織田一族
- 坂井摂津守:坂井大膳で織田大和守家家臣
織田氏はこの当時、大和守織田・伊勢守織田・藤左衛門織田・弾正忠織田・犬山織田など、松平氏同様複数の織田氏に分かれていました。その中で、大和守織田氏の重臣である坂井大膳と弾正忠織田氏の家臣である伊賀守、そして藤左衛門織田氏当主が一堂に会しています。
この理由は松平信定の正室(一説には息子清定の正室)にあります。信定の正室は織田信秀の妹、つまり織田信長の叔母にあたる人物だったのです。そのため、尾張でも織田氏の勢力圏ど真ん中な場所に領地を有することができ、松平氏というより織田氏に近い立場だったと考えられます。
初期の松平清康が精力的に三河統一のために軍を動かせた理由もここにあります。松平清康は同じ大永6年(1526)に本拠地を安城から岡崎に移しています。そしてそのために2年前から盛んに各地へ出兵しています。
この時期の今川氏といえば、大永5年(1525)に当主の今川氏親が亡くなり、動きが鈍い状態でした。その状態で桜井松平氏が織田との関係を仲介することで、松平清康は誰にも邪魔されずに三河統一に向けた戦いを続けることが出来たのでしょう。
松平信定は享禄2年(1529)の小島城攻めでは先鋒を任されています。松平一族の中でも有力な一門だったことがこのことからもわかります。
足利将軍家の跡継ぎ問題から松平清康と対立
しかし、前述の通り松平信定はこの状態に必ずしも満足していなかったと考えられます。そして、松平氏と弾正忠織田氏はある出来事をきっかけに対立関係になっていくのです。その出来事とは享禄3年(1530)の織田大和守達勝の上洛でした。彼は尾張守護である斯波義統の代理として上洛しましたが、援軍目的ではなく守護としての地位確認のための上洛だったと平野明夫氏は指摘しています。
そして、その時京都を支配していたのは足利義維と細川晴元の勢力でした。実は斯波氏が代々支援していた細川高国と細川晴元は対立関係でした。しかし、尾張守護として認められたかった若き斯波義統は、堺にいる足利義維と京で勢力を強める細川晴元の味方になって守護職を認められたと思われます。
しかし、この結果として織田家中は分裂しました。織田弾正忠信秀はこの裏切りに反発し、守護代である大和守織田と藤左衛門織田を相手に戦いを始めます。この時、松平清康は三河の東条吉良氏に協力してきた関係で弾正忠織田と協力していると見られます。しかし、すぐに大和守織田と弾正忠織田は和睦し、逆に藤左衛門織田氏と戦い始めました。この時、弾正忠織田と清康は対立関係になってしまったと考えられます。
こうした目まぐるしい動きの中で、桜井松平氏は織田信秀に味方することに決めたと思われます。この年に清康が攻めた守利城での戦いで、松平信定は合戦に参加しながら後方で戦わず、弟の松平右京を戦死させてしまいます。これを清康は叱責したという記録が『三河物語』に残っており、これも信定の松平清康からの離反を決める一因になったと思われます。
翌年の享禄4年(1531)、清康は岡崎城を新しく造り直します。このあたりから信定が清康と関係悪化していることが伺えます。しかし、桜井松平氏はこの後江戸幕府で老中を輩出するなど徳川将軍家を支えていく一族になります。そのため、江戸時代に編纂された『朝野旧聞裒藁』や『三河物語』などには明確に敵対したことが書かれていません。
特に『朝野旧聞裒藁』が編纂された文政2年(1819)から天保12年(1841)までは大塩平八郎の乱を鎮圧した尼崎藩主・松平忠栄や、後に老中となり日米和親条約に調印する上田藩主・松平忠固の時代です。この時期に桜井松平氏に都合が悪いことは書けなかったのではないでしょうか。
清康は天文2年(1533)に三河国信濃(品野)で合戦をしています。この合戦相手が『朝野旧聞裒藁』では書かれていません。しかし、この前後の状況を考えると、相手は間違いなく桜井松平氏でしょう。
この時点で清康は三河の大半を統一しており、敵となる勢力はほぼいません。品野城についても、享禄2年(1529)以降松平信定の長男清定が城主であったことが江戸時代の『尾張古城志』や『尾張徇行記』などに記録されています。そこでの合戦となれば、松平清康と松平信定のものと断定していいでしょう。
家康親子を何度も窮地に追い込んだ松平信定
天文4年(1535)、松平清康は守山(森山)攻めを行いました。この時、清康は誰を攻めたか明確な記録がありません。しかし、これまでの経緯を考えれば相手は桜井松平氏なのは間違いないでしょう。清康は守山まで進軍しつつ各地の親清康勢力と連絡を取っています。今川氏への牽制のために武田信玄の父である武田信虎と連携し、織田信秀を牽制するために西美濃三人衆と呼ばれ後に信長に降伏する国人領主とも連絡を取り合っています。また、この時に織田藤左衛門家を支援する目的があったと柴裕之氏は推測しています。
しかし、清康は阿部弥七郎に殺されてしまい、20代にして死んでしまいました。この阿部弥七郎の行動には、松平信定が松平家中に不信感を抱かせるような噂を流したことが影響したのではないかと考えられています。平野明夫氏も『三河松平一族』で信定の謀略であると考察しています。この理由として、その後の信定の行動が迅速すぎることがあげられています。
清康の死後、清康の子で家康の父である松平広忠(当時は幼名の竹千代)は一時伊勢に逃げこんでいます。そして、岡崎城には松平信定が入城しているのです。これは松平信定が清康殺害に関与し、その情報をすぐ知ることが出来なければ難しい行動です。広忠は伊勢を経由して友好関係だった東条吉良氏の元に避難し、その後の天文6年(1537)に今川義元の協力で岡崎城に戻りました。この動きを防ごうと信定は今川軍と戦っています。
清康の死から一連の動きは、明確に宗家と対立していたことを示しているでしょう。ただし、前述の通り後世の記録ではかなり曖昧に描かれています。清康に対しては協力していた今川氏と弾正忠織田氏ですが、この時期に対立していることがわかっています。天文7年(1538)に那古野城の城主だった今川氏豊が信長の父信秀の奇襲によって城を奪われています。
この城は永正12年(1515)に斯波氏が遠江遠征で大敗し当主が捕虜になった時に失ったと推測されます。そんな城が奇襲により奪われていることから、松平広忠の岡崎城復帰前後で今川氏と織田氏は松平清康という共通の敵を失い、再び敵対関係に戻ったと考えられます。この後、今川の影響力もあって松平信定は広忠の配下に戻りました。その後、天文7年(1538)中に信定は病死しました。
しかし、天文9年(1540)に安城が織田信秀の攻撃で落とされると、信定の子である松平清定は再び織田信秀の味方になります。この戦いでは広忠の弟も戦死しています。清定の娘は織田信秀の弟である織田信光に嫁いだと言われており、弾正忠織田氏と桜井松平氏は非常に密接な関係だったことがわかります。安城周辺の領主が敵対したことで、岡崎城のすぐ側に敵対勢力が根拠地をえた広忠は立場が非常に危うくなりました。
そのため後ろ盾である今川氏の支援がなければ松平広忠は地域を守ることができなくなっていったと考えられます。天文15年(1546)には重臣の酒井忠尚や水野氏が織田方に離反し、広忠は正室の於大の方を離縁しています。家康の幼少期にも、桜井松平氏との対立は大きな影響を与えているのです。
さらに、家康の時代になると、清定の子松平家次が家康の家臣となります。しかし家次は永禄6年(1563)、一向一揆に協力して家康に敵対しています。これを最後に桜井松平氏は徳川氏と敵対しなくなりますが、家康を悩ませた一向一揆で一族揃って敵対した数少ない一族になりました。
『三河物語』には吉良(荒河)義広と協力して挙兵した様子が描かれており、一向一揆について武力的な中心人物の1人だったことが推測できます。
このように、松平広忠と家康の親子は長年桜井松平氏に追いつめられ、苦しんでいたといえます。あまり注目されませんが、家康にとって最初の難敵は間違いなく桜井松平氏だったでしょう。広忠は一時三河国内を脱出するほどの命の危機は、松平氏の勢力衰退に最も影響を与えたと言っても過言ではありません。
その後の桜井松平氏
永禄年間以降の桜井松平氏は、一揆の件を家康に許されたことで家康に忠実となり、活躍しました。家次の孫である松平忠頼は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後に美濃国金山に1万5千石を与えられ、譜代大名となりました。その後、浜松5万石を任されています。その子である松平忠重は奏者番という徳川将軍と大名の取次役に任じられ、掛川4万石を任されています。松平忠喬の代には宝永8年(1711)2月に尼崎へ転封となり、4万石前後の藩主として幕末まで続きました。明治維新の時の藩主である松平忠興は、慶應4年(1868)2月、戊辰戦争で新政府に味方し、姓を桜井に変更しました。その後日本赤十字社設立メンバーの1人となり、明治新政府から子爵に任じられています。
松平忠頼の兄・松平忠吉の長男である松平信吉は藤井松平氏に養子入りしています。彼は元和3年(1617)に高崎5万石に任じられています。その子孫の松平忠国は播磨国明石藩で7万石を任されました。その子の信之は大和郡山藩に転封となった後、老中に任じられています。最終的に信州上田藩の藩主となり、もう1つの家系と同じく戊辰戦争で新政府に味方し、藩主の松平忠礼は明治維新後に子爵に任じられました。
おわりに
桜井松平氏について、家康の祖父から続く因縁を中心に考察していきました。桜井松平氏は家康の祖父である清康と当主の座を一時争ったことから対立することが多かったことがわかります。織田信長の父である信秀の妹との婚姻関係から織田氏と常に行動を共にしており、そのことが対立をより深いものにしたと言えるでしょう。家康の祖父・清康の死や父・広忠が三河から追いだされた一連の流れに深く関わり、家康自身も一向一揆の際は家康とも対立した桜井松平氏。それでも桜井松平氏が許されたのは、『松平家忠日記』によると「累世の御家門たればとてその罪を宥めらる」とされています。
この御家門とはどこの家を示したものでしょうか。確かに家康の曾祖父の弟の一族ではありますが、どちらかというと「信長の御一門」だったことを意味していたのではないかと個人的には思ってしまいます。
【主な参考文献】
- 『新編 岡崎市史 2(中世)』(新編岡崎市史編さん委員会、1989年)
- 『図説尼崎の歴史』(尼崎市、2007年)
- 青木歳幸『上田藩 シリーズ藩物語』(現代書館、2011年)
- 大久保忠教『三河物語』(日本戦史会、1890年)
- 柴裕之『織田氏一門 論集 戦国大名と国衆20』(岩田書院、2016年)
- 平野明夫『三河松平一族』(新人物往来社、2002年)
- 『朝野旧聞裒藁』(東洋書籍出版協会、1923年)
- 『群書類従』
- 『松平家忠日記』(1897年)
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