「源義家」源氏神話はここから始まった!坂東武士を従えた名将・八幡太郎

『前賢故実』(菊池容斎 画)に描かれた源義家(出典:wikipedia)
『前賢故実』(菊池容斎 画)に描かれた源義家(出典:wikipedia)
源義家(みなもとのよしいえ、1039~1106年)は平安時代後期の武士で、「八幡太郎」と呼ばれた河内源氏の棟梁(とうりょう、統率者)です。

前九年合戦(1051~62年)、後三年合戦(1083~87年)で活躍、関東の武士団、いわゆる坂東武士との絆が強調されて語られることもあります。「天下第一の武勇の士」と讃えられ、子孫から征夷大将軍・源頼朝、足利尊氏をはじめ源義経、木曽義仲、新田義貞ら名立たる武将を輩出。一方で貴族との暗闘、一族の内紛に苦悩した実像もあります。波乱の生涯を追っていきましょう。

源平の血統受け継ぐ 東国進出の出発点

祖父は河内源氏の祖・源頼信。清和源氏の中で河内を拠点としたから河内源氏です。父は源頼義。義家は長男ですが、頼義51歳のときに誕生しました。出生地は京、あるいは河内源氏の本拠地・河内国石川郡壺井荘(大阪府羽曳野市)でしょうか。また、頼義が相模守在任中なので相模国内、特に鎌倉の可能性もあります。

※参考:清和源氏の略系図
※参考:清和源氏の略系図

母は平直方の娘。義家は源平両統の血を引いているのです。頼義が平忠常の乱(1028~31年)の平定で武勇を示し、桓武平氏嫡流の平直方(平貞盛の子孫)が感激し、婿としたうえに鎌倉・大蔵の邸宅、所領、家臣を譲りました。源頼義と平直方の結びつきが源氏の東国進出のきっかけになったようです。

武の神を祀る石清水八幡宮で元服

義家は7歳のとき、石清水八幡宮(京都府八幡市)で元服し、通称は「八幡太郎」。弟に義綱(賀茂次郎)、義光(新羅三郎)がいます。「弓矢八幡」といわれ、武神を祀る八幡宮と源氏の結びつきは強いのですが、義綱は賀茂神社、義光は園城寺新羅明神で元服しており、八幡宮が源氏の氏神となるのはもう少し先のようです。

源氏は摂関家と主従関係を築き、父・頼義も関白・藤原頼通(道長の長男)に仕えました。義家も同様ですが、一方で白河天皇の警護役としても信頼されます。摂関政治から院政への移行期でもあり、摂関家一辺倒ではない義家のしたたかさを感じさせます。

東国の国司、鎮守府将軍を歴任

義家は生涯、戦いに明け暮れました。前九年合戦は13~24歳、後三年合戦は45~49歳で参戦しています。その間、出羽守や下野守、陸奥守に任官。系図『尊卑分脈』によれば鎮守府将軍も兼任しています。

後三年合戦から帰京後はしばらく不遇で、久々に昇進し、生前の極位(最高位)・正四位下となったのは承徳2年(1098)、60歳のときでした。

前九年合戦 屈辱の大敗と武勇伝説

源頼義は永承6年(1051)、陸奥守に任官。義家も父に従って前九年合戦に関わります。国府軍を率いた頼義は長期間、陸奥の豪族・安倍頼時、貞任(さだとう)父子や藤原経清(つねきよ)の頑強な抵抗に苦戦を強いられました。

父子7騎で包囲網脱出 黄海の戦い

天喜5年(1057)11月、18歳のとき、義家は黄海(きのみ)の戦いで大敗を経験します。頼義の軍1800騎は慣れない雪中行軍と兵糧不足に苦しみ、安倍軍4000騎の迎撃に数百人が戦死。頼義、義家父子は敵兵200騎に囲まれてしまいます。

父子の馬にも矢が当たり、郎党(家来)の馬で何とか包囲網を脱出。父子に従う郎党はたった5騎の惨めな敗走ですが、義家は優れた弓の腕前をみせ、敵将を何人か射殺し、包囲網脱出に一役買いました。

苦戦した前九年合戦ですが、出羽の豪族・清原氏の参戦で最終的に勝利を収めました。

『陸奥話記』には鎧3領を一矢で射抜く話など義家の武勇を誇る逸話は尽きません。また、「武士の情け」を示した逸話が『古今著聞集』の「衣のたて」。衣川柵の戦いで逃げる安倍貞任に向かい、義家は弓を構えつつ、

「衣のたてはほころびにけり(衣の縦糸がほころぶように、衣川の館の守りにほころびがあったな)」

と言います。貞任は振り返って

「年をへし糸のみだれのくるしさに(衣だけに年数を経て糸が乱れてしまいました)」

と上の句を返します。義家は即興の歌心に免じて矢を外し、貞任を逃がしました。

前九年合戦で勝利し、帰京後の康平6年(1063)、義家は出羽守に任じられますが、翌年には越中守への転任を希望します。老父・頼義は伊予守。「任地が遠く、親孝行できない」ととってつけたような理由ですが、越中も大して近くありません。出羽は清原氏の影響力が強く、思うように統治できないというのが本音。清原氏が苦手だったようです。

後三年合戦 苦い勝利と坂東武士との絆

義家は永保3年(1083)、陸奥守に任官。清原一族の内紛、後三年合戦に介入します。

まず、清原氏当主・真衡(さねひら)と義兄弟の清衡、家衡らが対立。義家が加勢した真衡は謎の急死を遂げ、清衡、家衡兄弟は義家に降伏。奥州の奥六郡は清衡、家衡の分割統治となりますが、これを不服とする家衡が清衡を攻撃し、第2ラウンド。義家は清衡と組んで家衡と戦います。家衡は堅牢な金沢柵(秋田県横手市)に籠城し、義家は苦戦を強いられます。

『後三年合戦絵詞』の源義家(出典:wikipedia)
『後三年合戦絵詞』の源義家(出典:wikipedia)

官職辞して…弟・新羅三郎義光の来援

京には義家の弟・義綱と義光がいます。義家苦戦の情報に朝廷は義綱派遣を検討しますが、実現しないうちに風向きが変わり、寛治元年(1087)7月に義家への停戦命令が出されます。

しかし、9月、義光が官職を投げうって勝手に来援しました。義光は「許しを得られませんでしたが、兵衛尉を辞して参上しました」といい、義家は喜びの涙で迎えました。この名場面は治承4年(1180)10月、源頼朝と義経の黄瀬川の対面で引用されます。

美談には違いありませんが、一方でそれぞれの思惑もあります。

義綱は義家が不在の間に摂関家に重用され、また、停戦命令に従わない義家が評判を落としていることも敏感に感じ取り、源氏の棟梁の地位を奪取するチャンスと捉えたかもしれません。義光は次兄・義綱との対抗上、勢力拡大を図るため、長兄・義家に味方して奥州の富に関わる立場を確保したい思惑があったようです。

陸奥、出羽の産物は馬、鉄、アザラシの皮、ワシの羽など武具の材料、武士の必需品ばかり。実際に義光は陸奥をにらむ北関東に進出し、子を常陸に土着させます。義光の子孫・佐竹氏は常陸北部を拠点とし、甲斐・武田氏も発祥の地は常陸です。

剛臆の座、雁行の乱れ…統率者としての義家

後三年合戦での義家の伝承は統率者としての厳しさや冷静さを感じさせ、若かった前九年合戦での武勇を誇る姿との差異が興味深いものです。

「剛臆の座」は、日々の戦闘で武功を挙げた者を「剛の座」に、武功のない者を臆病者として「臆の座」に座らせたという逸話。武士にとって相当なプレッシャーで現代ならパワハラ認定されそうですが、義家流の甘くない激励です。義家の郎党でさえ「臆の座」につくこともある中、義光の郎党・藤原季方だけはついに「臆の座」に座ることはありませんでした。

「雁行の乱れ」は行軍中の逸話。沼の近くで通常は整然と列をなして飛ぶガンの群れが乱れているのを目にして敵の伏兵に気付き、打ち破ります。これは学者・大江匡房(まさふさ)に「孫子の兵法」を学んだ成果。前九年合戦の後、関白・藤原頼通邸で義家が戦いの状況を語るのを立ち聞きした匡房は「立派な武士だが、兵法を知らないのは残念だ」と漏らします。

これを伝え聞いた義家はこの無礼を怒るどころか匡房に弟子入りして兵法を学びました。義家の謙虚さを示す美談です。

まさかの「私戦」判定、恩賞得られず

後三年合戦は残酷な結末を迎えます。義家に味方した清原一族の吉彦秀武(きみこのひでたけ)が金沢柵の兵糧攻めを提案。さらに逃げ出してきた女性、子供、老人ら非戦闘員を斬ります。義家がその理由を問うと、「これを見たら誰も柵から逃げ出さなくなり、敵の兵糧は早く尽きる」と答えました。寛治元年(1087)11月14日、金沢柵は陥落。家衡を処刑し、後三年合戦は終結。清原氏は滅亡しました。

勝利を手にした義家ですが、朝廷は私的な戦闘と判断しました。しかも、寛治2年(1088)1月、陸奥守解任。清原氏の内紛への露骨な介入と捉え、途中で停戦命令も出したというのです。義家は納得できませんが、合戦中は国司として朝廷に納めるべき官物(税)も滞り、これが滞納物、いわゆる借金としてのしかかります。まさに踏んだり蹴ったり。

それでも参陣した武士には私財を投じて報います。恩賞がなければ、武士は命懸けで戦う理由がありませんし、義家としても武家の棟梁の資格が問われてしまいます。とんだ散財となりましたが、かえって武士の信頼を勝ち取ります。その数はまだまだ少なかったようですが、坂東武士との絆を深め、「源氏嫡流が武家の棟梁」と認識されるようになるのです。

10年かけ借金完済…一族内紛の苦悩も

順調だった前半生に比べ、後三年合戦後の源義家は苦労を重ねます。

前九年合戦と後三年合戦の間は武功を重ねていました。康平7年(1064)に美濃で源国房と合戦。延久2年(1070)、下野守として陸奥で藤原基通を逮捕。承暦3年(1079)には美濃で乱闘を起こした源重宗を追討。永保元年(1081)には園城寺の悪僧を逮捕し、白河天皇の行幸を警備しています。朝廷に信頼され、名声も得ていました。しかし、後三年合戦を終えて京に戻ったときは歓迎ムードではなかったのです。

弟・義綱と一触即発、関白師通の死で決着

寛治5年(1091)、義家は弟・源義綱と対立。郎党どうしの所領争いから京で義家、義綱が衝突寸前となります。京の市中で武力衝突となれば未曽有の事態。大騒ぎになりました。戦乱は回避されましたが、義家は諸国に住む郎党の上京が禁止されるなど厳しく処罰されます。一方、義綱はおとがめなし。このころ、じきに関白に就く藤原師通(もろみち)に従っており、義家をしのぐ力を持っていたのです。ところが、師通が承徳3年(1099)6月、38歳の若さで急死。義綱は後ろ盾を失い、一気に立場を悪くします。

一方、義家は後三年合戦で背負った借金を10年かけて完済。承徳2年(1098)、正四位下に昇進し、院の昇殿を許されます。兄弟の立場は再び逆転しました。

「武威は天下に満ち、真の大将軍」68歳永眠

嘉祥元年(1106)7月15日、68歳で死去。藤原宗忠という貴族は日記『中右記』で「武威は天下に満ち、まことに大将軍に足る者」と称賛。義家の死が「武の道の衰退を招く」とまで書いています。

ところが、義家の晩年は、死去直前に三男・源義国が常陸で合戦し、康和3年(1101)には次男・源義親が九州で反乱を起こすなど身内の騒がしさに悩まされました。義親は嘉祥3年(1108)、ついに平正盛(清盛の祖父)に討伐されます。

その首が京に届いたとき、『中右記』は

「義家が長年、武士の長者として多くの罪なき人を殺して積み重ねられた因縁がついにその子に及んだか」

と記しています。貴族たちは武士のトップ・義家に対し、畏敬の念と同時に相当な恐怖心を抱いていたようです。

『古事談』に恐ろしい話があります。向かいに住む女性が夢を見ました。義家邸に鬼が多数乱入し、義家を捕らえます。先導者の持つ大きな札に「無間地獄に落ちる罪人、源義家」と書いてありました。女性が夢のことを義家邸に知らせると、義家はこの日早朝亡くなったとのことでした。

源義家の墓(大阪府羽曳野市、出典:wikipedia)
源義家の墓(大阪府羽曳野市、出典:wikipedia)

物の怪退散の弓、源太が産衣…数々の伝説

源義家の不思議な伝承はいくつもあります。作られたイメージに乗っかって創作された話もあるようですが……。

『古事談』には、白河法皇がしばしば物の怪に悩まされ、「適当な武具を枕元に置くべきだ」ということになり、義家提出の黒塗りの弓で解決したという話があります。源平の武士を積極的に採用し、警護させた法皇の姿が反映されているのかもしれません。

『平治物語』に義家伝来の武具として「源太が産衣」という鎧や名刀「髭切」が登場します。「源太が産衣」については義家2歳のとき、院(上皇)に「連れてまいれ」と言われ、急いで作った鎧の袖に義家を座らせて参上したと説明されます。ただ、義家2歳のとき、一条院や花山院は既に崩御、該当する「院」はいません。『義経記』では義家元服のとき天皇から拝領した鎧が「源太が産衣」だという話になっています。

残忍さ強調する民話「長者屋敷焼き討ち」

義家の人間性が疑われる民話があります。栃木県那須烏山市に伝わる裕福な長者・塩谷民部の話です。

頼義、義家父子が奥州へ向かう途中に立ち寄り、手厚いもてなしを受けます。出発の朝、義家は「すまぬが、家来1000人分の食料と雨具を用意してくれ」と言います。頼んでおいて「驚き、迷惑がるかもしれんな」と思っていると、長者は早速整え、驚いたのは義家の方でした。頼義、義家父子は奥州からの帰路も長者屋敷で一泊し、前にもまして盛大なもてなしを受けました。ところが父子を見送った日の晩、長者屋敷はところどころから出火し、全焼してしまいます。長者のあまりの財力を恐れ、義家が火を放ったといいます。

民話の舞台の長者ケ平官衙(かんが)遺跡では真っ黒い炭化米が見つかります。焼かれた倉庫の備蓄米です。この遺跡は郡の役所とみられ、遺跡の焼け跡も義家の時代より100年くらい前のようで、やはり、民話と遺跡は直結しません。よく似た民話も各地にあるようです。

恩を仇で返す話と単純化することもできますが、潜在的な敵を見抜く冷徹な観察眼、情に左右されない判断、即断即決の実行力を含めて義家の恐ろしさこそ武士の本質という民衆の視点が反映されていると考えたくなります。

おわりに

源義家の子のうち、義親は追討されますが、その子・為義は河内源氏棟梁となり、さらに義朝、頼朝とその地位が継承されます。義国は新田、足利氏の祖で、子孫の新田義貞や足利尊氏につながります。義家の血筋こそ清和源氏の主流とみなされ、だからこそ数々の伝説も生まれてくるのです。

後三年合戦後、私財で武士の参戦に報いたという話も部下思いの優しさというより、武家の棟梁の地位を守るための苦肉の策、先々を見据えた計算高さでもあります。その判断が間違っていなかったことは後々まで続く源氏の名声で見事に証明されています。


【主な参考文献】
  • 元木泰雄『河内源氏 頼朝を生んだ武士本流』(中央公論新社)中公新書
  • 野口実『源氏と坂東武士』(吉川弘文館)
  • 関幸彦『武士の誕生 坂東の兵どもの夢』(日本放送出版協会)NHKブックス
  • 源顕兼編、伊東玉美校訂・訳『古事談』(筑摩書房)ちくま学芸文庫

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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