【京都府】伏見城の歴史 創造と破壊を繰り返したその数奇な運命とは?

伏見城 模擬天守(右)と小天守(左)
伏見城 模擬天守(右)と小天守(左)
 京都市伏見区の古城山と呼ばれる場所に「伏見城跡」があります。現在は明治天皇と昭憲皇太后両陛下が眠る伏見桃山陵があるため、許可なく本丸跡への立ち入りはできませんが、付近には伏見桃山城キャッスルランド跡や運動公園などがあり、市民の憩いの場となっています。

 さて伏見城はこれまで4度も建てられ、そのたびに破壊されてきた城でした。なぜ豊臣秀吉は伏見という場所にこだわったのか?なぜ創造と破壊が繰り返されたのか?その歴史とともにご紹介していきましょう。

秀吉の隠居地と伏見屋敷

 『兼見卿記』によれば、天正20年(1592)、大坂から上洛した秀吉は、伏見の地に自らの隠居屋敷の造営を命じました。

 前年の末に甥・秀次が関白に就任していることから、伏見で悠々自適に過ごそうとしたのでしょう。伏見を隠居地とした理由には諸説あるものの、「伏見」が「不死身」に繋がるのではないか? と京都大学教授・足利健亮氏が唱えておられます。

 秀吉は長男の鶴松、弟の秀長、さらには母の大政所、と立て続けに身内を亡くし、側近だった千利休も自らの命令で切腹に追い込んでいます。そうした身内や親しい人間の相次ぐ死から、「不死身」つまり伏見の地を選んだ可能性は無視できないところでしょう。

 実際に平安時代には藤原頼通の子・橘俊綱が別邸を建てていますし、後白河法皇も伏見御所を設けるなど、不老不死を願った地だったことが想像できるのです。

 また、推定地の付近には「観月橋」という橋が掛かっており、古くから月を見る名所として有名でした。その月の満ち欠けから永遠を象徴するものとして、秀吉がこの地を選んだものと考えられます。

 着工の翌年には伏見屋敷が完成し、秀吉はさっそく移りました。『慶長年中卜斎記』によると、屋敷は「伏見指月」と呼ばれ、宇治川沿いに建てられた素朴なものだったようです。特に興味深いのは、秀吉が前田玄以に宛てた手紙の中で「屋敷を利休好みに造ってほしい」と述べている点でしょうか。互いの齟齬があったとはいえ、利休を失った悲しみが現れていますね。

木幡山伏見城の位置。ちなみに指月伏見城はその南西、JR奈良線「桃山駅」の南側一帯(宇治川あたりまで)

地震で倒壊した「指月伏見城」

 素朴な造りだった伏見屋敷ですが、秀吉の鶴の一声によって巨大城郭へ変貌していきます。すでに改修は文禄2年(1593)の末には計画されていたといい、延べ25万人の人夫が動員されました。改修の理由は、朝鮮使節の来日に伴って権勢を誇示する目的があったからだとも。

 『駒井日記』によれば、淀城の天守と櫓が移築されたらしく、秀吉は文禄3年(1594)8月1日に完成したばかりの指月伏見城へ入りました。この日は八朔と呼ばれ、収穫を始める吉日です。当時の武家社会でも記念行事として選ばれる日でした。

 こうして改修された指月伏見城の縄張りは大がかりなもので、本丸や天守・北二ノ丸や馬場などを備えた壮麗なものだったそうです。また宇治川から水を引き込んで巨大な舟入を設け、水上アクセスも可能としていました。

 実は遺構がほとんど発見されなかったことから、指月伏見城は「幻の城」とされてきました。ところが数年前のマンション建設の際、秀吉時代と思しき石垣群が出土したのです。現在は整備のうえ野外展示されていますので、自由に見学することができます。

平成27年(2015年)、指月伏見城の存在の裏付けとなる初の出土となった石垣(出典:wikipedia)
平成27年(2015年)、指月伏見城の存在の裏付けとなる初の出土となった石垣(出典:wikipedia)

 さて、築城から2年経った文禄5年(1596)7月、京都を大地震が襲います。かつて秀吉は伏見屋敷を築造する際、「なまつ(地震)に注意せよ」と手紙に書いていました。その予言は不幸にも的中してしまったのです。

 この地震によって伏見城天守は倒壊し、櫓や城門なども大破しました。また城内にいた多数の男女が犠牲になったといいます。幸い秀吉は無事だったものの、予定していた朝鮮使節との対面も果たせず、たいそう立腹したと記録されていますね。

伏見城移転へ…さらに大規模となった木幡山伏見城

 指月伏見城が倒壊したあと、さっそく秀吉は新たな伏見城築城を命じました。その築城地となったのが北東に位置する木幡山です。

 『義演准后日記』によれば、同月から造営が始まり、まさしく「夜ヲ日ニ転シ、松明灯シ連レ」といった突貫工事をおこなっています。その年の10月には本丸が完成したといいますから、驚くべきスピードですね。そして翌年5月には天守や殿舎が完成し、秀吉・秀頼父子が入城しました。

 それにしても、なぜ一年足らずという短期間で築城できたのでしょう?理由は二つあります。一つは以前の指月伏見城の建材を再利用したこと。そしてもう一つは秀次事件が大きく関係していました。

 文禄4年(1595)に謀反の疑惑を受けた豊臣秀次が切腹したあと、聚楽第が破却処分となっています。実は聚楽第の解体と伏見城築城は並行して行われ、その遺物の多くが伏見城へ振り向けられました。つまり聚楽第は破壊されたわけではなく、伏見城によって再構築されたわけですね。

 『当代記』にも「聚楽城並諸侍之家門伏見へ引移サル」とありますから、多くの建物が移築されたはずです。

 では木幡山伏見城の様相はどのようなものだったのでしょう? 文献資料を基に考察した結果、それは指月伏見城の数倍もの規模を持ち、全山を要塞化した大城郭でした。本丸は現在の伏見桃山陵から北に位置し、松の丸や名護屋丸が中枢部を形成していたようです。さらに増田丸や治部少丸などが配置されていました。

※参考:『山城国伏見城諸国古城之図』(浅野文庫所蔵、出典:wikipedia)
※参考:『山城国伏見城諸国古城之図』(浅野文庫所蔵、出典:wikipedia)

 ところが秀吉の死とともに、壮麗を誇った木幡山伏見城も最期の時を迎えます。慶長5年(1600)、関ヶ原の前哨戦となる伏見城の戦いが起こりました。この時の戦災で多くの建造物が焼かれ、城は見る影もない有様となります。

 ちなみに京都周辺には、三井寺大門や西本願寺唐門、御香宮神社神門など、伏見城からの移築と思しき建造物が残りますが、それが豊臣時代のものか?それとも徳川時代のものなのか?今一つ判然としないそうです。

幕府の拠点となった徳川期伏見城

 関ヶ原の戦いが終わると、家康は伏見城の再建を命じます。慶長6年(1601)、諸大名は伏見へ参集し、吉川広家は石垣普請、毛利輝元には治部少丸の地引を担当。さらに西国大名を中心として本丸・西の丸などの作事が行われました。この際、天守の位置が本丸の隅から中央へ変更されています。

 翌年になると家康は伏見城において将軍宣下を受け、さらに慶長10年(1605)には徳川秀忠もまた伏見城で将軍宣下を受けることになります。徳川期伏見城の存在は大坂城に対する牽制というよりも、幕府機構の拠り所といった印象を受けるところです。また徳川家臣を中心に伏見在城衆が置かれ、幕府による畿内支配の拠点となりました。

 ところが伏見城にとって大きな転機が訪れます。慶長12年(1607)になると、家康は新たな隠居所とした駿府城へ移り、以後は上方に在住しなくなりました。また、慶長16年(1611)の豊臣秀頼との会見の際も二条城へ入ったことで、伏見城にはたった3日ほどしか滞在していないのです。秀忠もまた大坂の陣まで伏見城へ入城しなかったといいます。

 伏見城は徐々に存在価値を失っていき、徳川氏によって大坂城が再建されると、建造物や番衆たちの移動が行われました。そして元和9年(1623)に徳川家光が将軍宣下を受けたのを最後に、伏見城はついに機能そのものを失います。

 その後、尾張・紀伊徳川家や島津家などの屋敷が残ったものの、寛文年間(1661~1673)には開発と植林が進み、桃の名所として知られることになりました。

おわりに

 秀吉の隠居所から豊臣家の権威を示す城へと変貌を遂げ、天災や戦災で幾度も被害に遭った伏見城ですが、太平の世が到来すると、ついにその役割を終えました。しかし、その後の伏見は商業や水運の町として、また酒造りのメッカとして発展していくのです。

 かつて城のあった場所には、ほとんど遺構が残っていない状態ですが、伏見の町には門や石材など、城の痕跡をいくつも見ることができるでしょう。かつて伏見に城があったことを私たちに教えてくれます。

補足:新府城の略年表

出来事
天文3年(1534)足利義晴が初めて伏見山に築城する。
文禄元年(1592)豊臣秀吉、指月の丘に隠居地として伏見屋敷を造営。
文禄3年(1594)指月伏見城の築城。宇治川の治水工事と舟入が完成し、伏見が開港する。
文禄5年(1596)慶長伏見地震起こる。城内の建物がことごとく倒壊。木幡山に再建開始。
慶長2年(1597)天守が完成。
慶長3年(1598)秀吉、伏見城で没する。
慶長5年(1600)西軍が伏見城を攻め落とす。この際に伏見城が焼亡。
慶長6年(1601)徳川家康の命で伏見城の再建が始まる。
慶長8年(1603)徳川家康、伏見城で将軍宣下を受ける。
慶長10年(1605)徳川秀忠、伏見城で将軍宣下を受ける。
元和9年(1623)徳川家光、伏見城で将軍宣下を受ける。
寛永元年(1624)伏見城の撤去がほぼ完了する。
大正元年(1912)明治天皇崩御に伴い、伏見桃山陵が完工。
昭和39年(1964)伏見桃山城キャッスルランドが建設される。
平成19年(2007)京都市の整備計画によって、伏見桃山城運動公園がオープン。


【主な参考文献】
  • 宮元健次「建築家秀吉 遺構から推理する戦術と建築・都市プラン」(人文書院 2000年)
  • 中井均「織田・豊臣城郭の構造と展開<上>」(戎光祥出版 2021年)
  • 尾下成敏ほか「京都の中世史6 戦国乱世の京都」(吉川弘文館 2021年)

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  この記事を書いた人
明石則実 さん
幼い頃からお城の絵ばかり描いていたという戦国好き・お城好きな歴史ライター。web記事の他にyoutube歴史動画のシナリオを書いたりなど、幅広く活動中。 愛犬と城郭や史跡を巡ったり、気の合う仲間たちとお城めぐりをしながら、「あーだこーだ」と議論することが好き。 座右の銘は「明日は明日の風が吹く」 ...

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