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有岡城に殉じた荒木村重の妻とは、どんな女性だったのか?
- 2023/05/23
天下統一を目指していた織田信長は、敵対する戦国大名や一向宗徒を徹底的に打ちのめしてきました。謀反を起こした摂津(大阪府・兵庫県)の武将・荒木村重も例外ではなく、落城の際には荒木の妻である「だし」をはじめ、一族や家人が大勢処刑されました。
一族と運命を共にした荒木だしとは、どんな女性だったのでしょうか?
一族と運命を共にした荒木だしとは、どんな女性だったのでしょうか?
荒木村重の謀反とは
だしを語る前に、夫の荒木村重について触れておきます。村重が織田信長に臣従したのは元亀2年(1571)ごろで、当時は信長と将軍の足利義昭との関係が悪化し、武田信玄や朝倉氏、浅井氏といった敵が四方八方にいて、信長としては一人でも多くの味方が欲しかった時期だったと言えます。
村重は摂津の支配を任され、石山本願寺との戦いをはじめ、畿内の多くの合戦に参戦していました。そのころの居城は有岡城(伊丹市)で、だしを妻に迎えていたものと思われます。ただし、だしが正室か側室かは分かっていません。
天正6年(1578)に、村重は突如として信長に反旗をひるがえします。摂津という重要拠点を任されていただけに、信長は明智光秀らを再三使いに出し、翻意をうながしますが、村重の決意は変わらず、ついに信長は有岡城攻めを命ずることになるのです。
荒木だしは美人だった
戦国時代のほとんどの女性と同じように、荒木だしについても出自などが詳しく書かれた史料は残っていません。信長の右筆だった太田牛一の『信長公記』と、朝廷の禁裏御蔵職だった立入宗継の『立入左京亮入道隆佐記』が、有岡城攻めや落城の様子を書き記したなかで、だしについて触れており、興味深い表記があります。
それは、だしの容姿について「美人だった」としている点です。
『信長公記』は「たしと申はきこへ有る美人」と記し、『立入左京亮入道隆佐記』も「一段美人にて」「いまやうきひ(今楊貴妃)と名つけ申し候」と絶賛しています。わざわざ表記するくらいですから、相当の美女だったことは想像に難くありません。
落城の際の年齢については、『信長公記』が21歳としているのに対し、『立入左京亮入道隆佐記』は24歳としています。少なくとも20歳代前半だったことは確かで、村重とは20歳以上も離れた夫婦だったことが分かります。
最期まで取り乱すことなく
村重は1年以上にわたって籠城戦を展開し、信長に抵抗し続けます。村重は密かに有岡城を脱出し、尼崎城に移りますが、だしを始めとした一族は取り残されてしまったのです。信長軍のさらなる攻撃により、有岡城は開城し、一族は捕虜として連行されます。敵対する者は絶対許さない信長の性格上、厳罰は免れません。だしは、処刑されることを覚悟していたようです。
『信長公記』と『立入左京亮入道隆佐記』には、だしの詠んだ多くの辞世の句が紹介されています。その中の一つに「残しおくそのみどり子の心こそ 思ひやられてかなしかりけり」という句があります。
村重との間に子供がいたことが分かる句で、残された幼子の心を思うと哀しい、という母親の無念の気持ちが伝わってくるようです。
最期の様子について『信長公記』は、だしは「帯を締め直し、髪を高々と結い直し、小袖の襟を後ろに引いて、見事に首を斬られた」とつづっています。取り乱すことなく、最後まで武将の妻の誇りを持ち続けた気高き女性の姿が見てとれます。
おわりに
荒木村重は、信長の追及から逃げのび、豊臣秀吉の時代になって茶人として復活しますが、往年の輝きを取り戻すことはありません。最愛の妻だしをはじめ、一族をことごとく死なせてしまった罪は、一生消えることが無かったのです。だしが哀しいと詠んだ幼子の消息は不明ですが、一説には江戸時代初期に「岩佐又兵衛」という名の絵師として、数多くの浮世絵を世に残した人物だと言われています。もしそうであるならば、又兵衛は、父と母の運命をどう思っていたのでしょうか。
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