源頼朝が鎌倉の地に幕府を開いた理由とは

鎌倉を想起させるイメージイラスト
鎌倉を想起させるイメージイラスト
治承・寿永の内乱(源平合戦)に勝利し、奥州藤原氏の脅威を排除して、武家の棟梁の地位を固めた源頼朝は、内乱のときから拠点としていた鎌倉の地に幕府を開きました。日本最初の武家政権とされる鎌倉幕府ですが、頼朝はなぜ鎌倉を幕府開創の地に選んだのでしょうか。

源氏と鎌倉のゆかり

千葉常胤の提案した鎌倉入り

治承4(1180)年8月に挙兵した頼朝は、石橋山の戦いで大庭景親の軍勢に敗れた後、関東の各地を転々としていました。

各地の武士団を味方につけ、その勢力を増した頼朝に、下総国の武士・千葉常胤はある提案をします。

「今頼朝様がいる場所は、たいした要害でもないし、ご先祖様にゆかりがあるわけでもありません。急いで相模国鎌倉に行かれるのがよいと思います」

常胤が言うように、鎌倉は源氏、特に頼朝の一族である河内源氏に縁深い土地でした。

河内源氏と鎌倉

河内源氏と鎌倉の関係は、頼朝の先祖・頼義(よりよし)の時代まで遡ります。11世紀初頭、相模守に任じられた頼義が現地に下向した際、舅(妻方の父)であった平直方(なおかた)から、鎌倉の屋敷を譲り受けました。直方は坂東平氏と呼ばれる桓武平氏の一族です。つまり、鎌倉は元々平氏の拠点だったのです。

一方、河内源氏の名が表す通り、頼義の一族も元々は河内国(現在の大阪府)を拠点とする武士でした。そのため、源氏と鎌倉との直接の関わりは、頼義が直方から鎌倉の屋敷を譲り受けたこの時点に求められます。河内源氏は、坂東平氏の権益を受け継ぐ形で東国への進出を果たしたといってよいでしょう。

また、鎌倉幕府とゆかり深い鶴岡八幡宮も、元々は頼義が建立したものでした。直方から鎌倉の屋敷を得た後、頼義は自身が篤く信仰する京都の石清水八幡宮を勧進し、鎌倉の由比郷に社殿を建てたとされています。この社殿は頼義の子・義家も崇敬していたようで、永保元(1081)年には、彼によって堂舎の修理が行われています。

東国武士と鎌倉

千葉常胤が河内源氏と鎌倉との縁を知っていたのには理由があります。頼朝の父・義朝は、若いころに京都から東国へと下向し、関東の各地で戦いに明け暮れていました。鎌倉はそんな義朝の活動拠点にもなっていたのです。

常胤は当時義朝の家人として度々行動を共にしていました。鎌倉を拠点として東国武士を率いた義朝の姿を目の当たりにしており、代々続く源氏と鎌倉の関係もよく知っていたのでしょう。

常胤に限らず、義朝と関わりのあった東国武士たちにとっては、鎌倉が源氏と縁深いことは常識だったのかもしれません。

先祖の武功を大切にする武士社会において、「~ゆかりの」「先祖相伝の~」といった由緒は極めて重要で、自らの正当性を主張する根拠にもなりました。頼朝も鎌倉の持つ意味を十分に理解していたと思われます。

鎌倉は「要害」だったのか

鎌倉は天然の要害ではなかった?

千葉常胤が頼朝に鎌倉入りを勧めた際、現在の在所が「たいした要害ではない」ことについて触れています。常胤の言葉をそのまま受け取れば、常胤は鎌倉がそれなりの要害であると言っていることにもなります。

鎌倉は、南を海に、その他三方を山に囲まれています。そのため、鎌倉は防衛に適した「天然の要害」であり、「武士の都」らしい城塞的な都市であったというイメージも根深いものがあります。しかし、近年の研究ではこうしたイメージとは反対の説も出されています。

つまり、鎌倉は天然の要害ではなく、幕府も都市の城塞化を進めてはいなかった可能性があるのです。

海と山はむしろ邪魔?

鎌倉へ陸路で向かう場合、東・北・西からは山を越え、鎌倉七口と呼ばれる切通し(きりどおし、人工的に開削された狭い山道)を通らなければなりませんでした。

この切通しは、敵の侵入を防ぐ防衛施設のようにも思えますが、『吾妻鏡』によれば、本来の目的は人々の往来を容易にするために整備したものだそうです。そのため、山に囲まれた鎌倉なりの交通・物流対策だったと考えられています。

また、南方に広がる海は港として整備され、交易のために多くの船が往来していました。近年の武士研究では、武士と水運の深い関わりが明らかにされています。交易と軍事の両面で鎌倉の海は活用されたようです。

もちろん山と海の存在は、防衛面でも効果を発揮したはずですが、都市としての発展を考えた際、それらは交通・物流の妨げにもなっていたと考えられています。

武士の都 = 城塞都市ではない

頼朝の入部以降、鎌倉には武士たちの屋敷や寺院が建ち並び、商工業者をはじめとした様々な人々が移住しました。都市として発展する中で、街の整備もその都度進められていきました。

鎌倉では、発掘調査により様々な遺構が見つかっていますが、城塞都市と呼べるほどの防御遺構があったわけではないようです。また、これまで防御遺構とされてきたものが、単なるインフラ設備であった可能性も指摘されています。

頼朝が入部を決めた鎌倉は、「天然の要害」と言えるほどではなかったのかもしれません。しかし、河内源氏にとっての鎌倉は、東国へ進出し、現地の武士たちと交流を持つきっかけとなった地でした。頼朝にとって、東国の拠点としてこれ以上の地はなかったのでしょう。かくして鎌倉に入った頼朝らは、この地を本拠として対平氏戦を展開し、戦乱の中で幕府の基盤を固めていきました。


【主な参考文献】
  • 川合康『源頼朝 すでに朝の大将軍たるなり』(ミネルヴァ書房、2021年)
  • 田中大喜編著『図説 鎌倉幕府』(戎光祥出版、2021年)
  • 野口実『坂東武士団と鎌倉』(戎光祥出版、2013年)
  • 『NHK大河ドラマ歴史ハンドブック 鎌倉殿の13人 北条義時とその時代』(NHK出版、2021年)

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  この記事を書いた人
篠田生米 さん
歴オタが高じて大学・大学院では日本中世史を学ぶ。 元学芸員。現在はフリーランスでライター、校正者として活動中。 酒好きなのに酒に弱い。

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