「長沼宗政」歯に衣着せぬ将軍批判、鎌倉の暴言王の実像は?

宗光寺本堂(栃木県真岡市長沼)の右側道にある長沼宗政の墓(wikipediaより)
宗光寺本堂(栃木県真岡市長沼)の右側道にある長沼宗政の墓(wikipediaより)
長沼宗政(ながぬま・むねまさ、1162~1241年)は鎌倉幕府の御家人の中で大きな勢力を誇った小山3兄弟(小山朝政、長沼宗政、結城朝光)の一人で、源平合戦、奥州合戦でも活躍します。また、将軍の命令に従わなかったばかりか、それを叱責されると将軍を痛烈批判したこともあります。しかも粛清も追放もされていません。鎌倉御家人として目立ってはいませんが、強烈なキャラクターでもあります。

小山3兄弟の一員として奮闘

長沼宗政は下野の武家・小山氏出身で、下野・長沼荘(栃木県真岡市)を得て、長沼氏の初代となります。通称は五郎です。

父は小山氏初代・小山政光。母は源頼朝の乳母(めのと)を務めた寒河尼。『吾妻鏡』では結城朝光の母という点が強調されているため、継母とみる人も多いようですが、兄・小山朝政同様、寒河尼の実子だった可能性もあります。

野木宮合戦で奮戦

治承5年(1181)年閏2月、下野・野木宮(野木神社、栃木県野木町)での野木宮合戦では、宗政は頼朝に見送られて鎌倉から出陣、兄・小山朝政と志田義広が戦う戦場に駆け付けます。

閏2月20日に鎌倉を出発していますが、到着した23日には既に戦端は開かれていました。しかも、兄・朝政の馬は無人。宗政は兄も死に、敗北したのかと思い、志田義広の陣に突進します。

朝政は敵の矢を受けて落馬しましたが、戦死したわけではありません。宗政は遅刻したうえに、戦況をよく確かめもせず、慌てたのです。敗北だと勘違いしても撤退せず、敵陣に向かったのは一矢報いたいという猛将らしさでしょうか。

結局は宗政の猛攻で小山勢が圧勝。関東から頼朝に敵対する勢力を一掃する結果となりました。戦いの後、宗政は負傷した兄・小山朝政に代わって参加武将や敵の捕虜を引き連れて鎌倉に凱旋し、頼朝に対面します。長沼荘はこのときの恩賞とみられます。

なお、この野木宮合戦は寿永2(1183)年説も有力です。

小山3兄弟、奥州南端に所領

文治5(1189)年、奥州藤原氏を滅ぼした奥州合戦でも活躍。その奮戦ぶりはすさまじく、『源威集』によりますと、頼朝は小山3兄弟の活躍を「一人として鋒(ほこさき)に血の付いていない者はない」として「勲功抜群」と褒めました。

恩賞として、小山3兄弟は奥州の南端に所領を得ます。宗政は長江荘(福島県南会津町など)を得て、兄・小山朝政には菊田荘(福島県いわき市)、弟・結城朝光には白河荘(福島県白河市)がそれぞれ与えられます。奥州と関東の境界を小山3兄弟が守る形になっており、頼朝の信頼の厚さが感じられます。

「荒言悪口の者」宗政の言い過ぎ伝説

長沼宗政の特徴は「荒言悪口(こうげんあっこう)の者」といわれたほどの荒々しい言動です。3兄弟の中で父・小山政光の気質を最も色濃く引き継いでいます。

小山政光は文治5(1189)年7月、頼朝を接待したとき、頼朝が「無双の勇士」と紹介した若武者・熊谷直家(熊谷直実の息子)を「仕える家来もいないので自ら勲功を挙げ、無双の称号を得たのでしょう。政光は家臣を派遣して忠義を尽くしています」と見下し、熊谷氏クラスの武士なら家来として使っていると自慢しました。

この謙虚さのかけらもない小山政光の態度を、宗政はよく受け継いでいるのです。ただ、小山政光はこれ以外の言動が史料に残っていないので、実のところの人物像は不明なのですが……。

景時弾劾署名で不可解な行動

正治2(1200)年1月の梶原景時の変のきっかけは梶原景時を弾劾する署名です。正治元(1199)年10月、結城朝光が梶原景時の讒言で処罰の危機に陥ったとき、逆に御家人が梶原景時への逆襲に動きます。

梶原景時弾劾状はもともと結城朝光を救うためのもので、御家人66人が署名しますが、長沼宗政は名を記しながらも花押を入れず、署名した御家人たちの顰蹙を買います。

「結城朝光を助けるために同僚が己の身の安全を忘れて賛同しているのに、実の兄がどうしたことだ」

また、梶原景時が討伐された後、大勢の御家人が集まった幕府侍所で、兄・小山朝政が手厳しく宗政を叱責非難しました。

「五郎(長沼宗政)は普段、小山家の武勲は一人宗政にあると自慢しているが、今回は梶原景時の威光を恐れて署名に花押を押さず、武勇の名を落とした。今後、いばったことを言ってはいけない」

これには宗政も返す言葉がありませんでした。

なぜ、署名に花押を入れなかったのでしょうか。このころは小山3兄弟も一枚岩ではなかったのかもしれません。頼朝に特別かわいがられ、出世でもリードしていた結城朝光に良い感情を持っていなかったのでしょうか。あるいは、梶原景時一人を悪者にする世論に同調したくなかったのでしょうか。

将軍・実朝を痛烈批判

長沼宗政の口の悪さが炸裂したのは建暦3(1213)年です。

9月19日、「故畠山重忠の末子である重慶 (ちょうけい)という僧が謀反を企てている」という情報があり、将軍・源実朝は宗政に重慶逮捕を命じます。宗政はただちに出陣。重慶の潜伏先、下野・日光に向かいました。

9月26日、宗政は重慶の首を持って、鎌倉に帰還します。将軍・実朝は、「生け捕りにするよう命じたのに殺してしまったのは命令違反だ」と怒り、実朝の使者・源仲兼が宗政をとがめます。

「重慶の父・畠山重忠は冤罪で討たれた。その末子・重慶が陰謀をめぐらせたとしても同情すべきではないだろうか。まずは命令に従い、重慶の身柄を押さえて連れてくるべきで、事情を聴いたうえで処分すべきだったのだ。殺したのは軽はずみだ」

宗政は将軍の使者に陳謝も言い訳もせず、逆ギレ気味に反論。

「重慶の謀反の企ては疑いようがありませんでした。生け捕りにするのは簡単でしたが、連れてくれば尼や幕府の女官たちの申し出で許されてしまうだろうと、だいたい予想できたので斬首にしました。こんなことで今後、誰が将軍に忠節を尽くすでしょうか。このことは将軍の過失です」

将軍・実朝を直接批判。その後、頼朝と自身の関係の説明やら武勇自慢やらもして、さらに続けます。

「当代(実朝)は和歌、蹴鞠に優れていますが、武芸は廃れているようです。また、女性が重んじられ、勇士が無視されています。謀反人から没収した所領は武勲を挙げた者に与えられず、女官たちに与えられています。例えば、榛谷(はんがや)重朝の遺領は五条局に、中山重政の遺領は下総局に与えられています」

実朝の使者・源仲兼は何も言わず、退出。しかも、ほかにも暴言は数え切れなかったといいます。政治にうとく武芸だけで生きている不器用な武士たちの心情を代弁し、謀反人が女官たちの同情心で許されては、敵と命がけで戦う武士の立場がないという理屈です。言い方としては感情に任せた暴言ですが、理想論に走りがちな実朝の痛いところを突いている諫言なのです。

これだけ言えば、将軍の怒りを買って粛清されて当然なのですが、そうはなりませんでした。
閏9月16日、兄・小山朝政のとりなしで許されて幕府への出勤停止が解除されました。暴言から1カ月足らずでの復帰。13年前の梶原景時の変では、小山朝政は「今後、いばったことを言ってはいけない」と叱責しましたが、このときは弟・宗政の暴言癖に手を焼きながらも、御家人にとっての正論と認め、援助の手を差し伸べたようです。

馬を見る専門家、名伯楽

承久3(1221)年の承久の乱では、鎌倉幕府は東海道10万騎、東山道5万騎、北陸道4万騎と大軍で京を攻めます。60歳の長沼宗政も東海道軍に加わり、参戦しました。

承久の乱で戦功があったとみられ、摂津守護に任じられます。すぐに淡路守護に転任。淡路では国内の状況を把握するため土地台帳「大田文(おおたぶみ)」を作成しました。これは貴重な史料として現存しています。長沼氏は鎌倉時代を通じて淡路守護を世襲します。

宗政は幕府の御厩(おうまや)奉行にも任じられました。また、子孫に下野の御厩別当職を継承していて、武士とって重要な馬の専門家だったことも分かっています。

御厩奉行は伯楽の奉行ともいわれました。馬の良し悪しを見分け、馬の病気を治すのが「伯楽」です。「名伯楽」は、今ではスポーツ分野などでの名指導者をたとえる言葉にもなっています。

おわりに

弟・結城朝光も思ったことを素直に口にしていますが、周囲からは素直な心情からの正直な発言と捉えられています。

同じ放言癖でも長沼宗政の場合は、その言い方が荒々しく自慢も目立ち、「荒言悪口の者」と言われてしまいました。欠点は目立ちますが、武士らしさをダイレクトに表現した愛すべきキャラクターでもあります。


【主な参考文献】
  • 五味文彦、本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』(吉川弘文館)
  • 松本一夫『中世武士選書27小山氏の盛衰 下野名門武士団の一族史』(戎光祥出版)
  • 栃木孝惟、日下力、益田宗、久保田淳校注『新日本古典文学大系43保元物語・平治物語・承久記』(岩波書店)
  • 『栃木県立博物館調査研究報告書「皆川文書」承久の乱八〇〇周年記念 長沼氏から皆川氏へ~皆川文書でたどるその足跡~』

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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