「後白河法皇」 源平の混乱期から鎌倉幕府の創立までを駆け抜けた生涯! 平清盛や源頼朝と渡り合った法皇

武士が力を持とうとしていた平安時代。敢然と平家や源氏に立ち向かい、政治的駆け引きを仕掛けた人物がいます。治天の君である後白河法皇(ごしらかわ ほうおう)です。


平家が台頭する時代、後白河法皇は院政の復権に尽力。一度は幽閉されますが、清盛の死後に反平家に転じて活動します。源義仲の入京後は、法住寺合戦などで対抗。義経に助け出されると、検非違使への任命などで協調関係を築いていきました。やがて後白河法皇は源頼朝に全国の守護権を付与。鎌倉幕府成立の基礎を築くことに協力しています。


後白河法皇は何を目指し、何と戦い、どう生きたのでしょうか。後白河法皇の生涯を見ていきましょう。


雅仁親王時代


今様を愛する皇子


大治2(1127)年、のちの後白河法皇は山城国の京都で鳥羽上皇の第四皇子として生を受けました。生母は中宮・藤原璋子(待賢門院)です。同年に親王宣下を受けて「雅仁(まさひと)」と命名されています。


保延5(1139)年には元服。正仁親王は二品に叙せられました。当時は父君・鳥羽上皇が院政を開始。兄君・崇徳天皇が譲位させられ、異母弟・近衛天皇を即位させるなどの事態が起きていました。


しかし雅仁親王は皇位継承には関わらず、遊興にふける生活を送っていました。特に今様(流行歌)を愛し、毎夜歌い遊ぶこともあったと伝わります。



父君・鳥羽上皇は即位の器量ではないと見なしていました。しかし雅仁親王は、身分に関わらず人と接する度量の持ち主だったようです。今様では公卿・源資賢らと関わる一方、端者(はしたもの)や雑仕、遊女などと関わりを持っています。


後白河天皇として即位


やがて雅仁親王が歴史の表舞台に登場する時が訪れます。

久寿2(1155)年、近衛天皇が崩御。このため、まだ幼い雅仁親王の第一皇子・守仁親王が即位するまで、雅仁親王が中継ぎとして後白河天皇として即位しました。


しかし程なくして、政治的な緊張状態が生まれます。保元元(1156)年には、父君・鳥羽法皇が崩御。後白河天皇は、兄君・崇徳上皇との間で皇位継承を巡る争いを展開します。世にいう保元の乱です。(以下、対立構図)



◆ 上皇方

  • 崇徳上皇
  • 藤原頼長
  • 平忠正
  • 源為義
  • 源為朝

VS


◆ 天皇方

  • 後白河天皇
  • 藤原忠通
  • 平清盛
  • 源義朝


双方共に源氏や平氏などの武士を動員しますが、最終的には後白河天皇方が勝利を収め、崇徳上皇は配流となりました。


保元3(1158)年になると、後白河天皇は守仁親王に譲位。太上天皇(上皇)となって院政を開始します。しかし朝廷内部は、対立関係が生じていました。後白河上皇の院政派と二条天皇の親政派、さらに院政派では、藤原通憲(信西)と藤原信頼が争っていました。


やがて対立は武力衝突を生むこととなります。平治元(1159)年の平治の乱です。(以下、対立構図)



◆ 信西方

  • 信西
  • 後白河上皇
  • 平清盛
  • 平重盛
  • 平経盛
  • など…

VS


◆ 藤原信頼方

  • 藤原信頼
  • 源義朝
  • 源義平
  • 源頼朝
  • など…


藤原信頼は源氏の棟梁・源義朝と提携し、源氏の軍勢が院御所を襲撃。後見である信西が殺害され、後白河上皇も内裏の一本御書所に幽閉されてしまいます。しかし、のちに平清盛が帰京して反信頼派と結んで二条天皇を脱出させる計画を知ると、後白河上皇は自力で脱出して仁和寺に避難。最終的に信頼と源義朝はそれぞれ討ち取られ、この乱は鎮圧となりました。


二頭政治、そして院政の開始へ


二頭政治と信仰の世界

政治的な力を失いかけていた後白河上皇は、親政派と協調関係を構築。院政と親政による二頭政治が行われることとなります。

永暦元(1160)年、後白河上皇は戦乱で焼失した代わりに、法住寺殿の造営を開始します。さらに法住寺殿の鎮守として日吉社・熊野社を勧請。競馬や流鏑馬が行われ、人々の参籠で賑わいました。


永暦2(1161)年に法住寺殿が完成。後白河上皇は新たな院御所に移り住んでます。同年9月、女御・平滋子との間に憲仁親王が誕生。平時忠らが立太子に動きますが、二条天皇により解官されてしまいました。


後白河上皇は国政への影響力を失い、親政派と藤原忠通による合議による政治運営が行われていきます。院政停止後、後白河上皇は信仰の世界に心を傾けました。


応保2(1162)年には千手観音を思って今様を歌っています。さらには長寛2(1164)年には蓮華王院(現・三十三間堂)の造営を開始。二条天皇にも落慶供養のための行幸を望んでいます。



院政の再建


政治的均衡は、不意に崩れることとなります。永万元(1165)年、二条天皇は病状悪化により順仁親王(六条天皇)に譲位。程なく崩御しました。


永万(1166)年には、後白河上皇は親政派を切り崩し、平家や摂関家を引き込むことに成功。院近臣を次々と公卿(三位以上)に取り立て、勢力を拡大させていきます。


同年10月、後白河上皇は憲仁親王の立太子を実現。平清盛の協力を得て、盛大な儀式が執り行われました。


後白河上皇は人事についても大きく改革を行います。平清盛を内大臣及び春宮大夫に、九条兼実を東宮傳(とうぐうのふ)に任官。朝廷内において、院政派及び平家の力を増大させました。

法住寺殿は政治の中心として機能。仁安2(1167)年には叙位及び除目が行われています。



平家による幽閉

平家一門との齟齬


特に後白河上皇が関係を重視したのが平家です。

清盛の嫡男・重盛には山賊・海賊追討宣旨が降下。国家の軍事及び警察権が委任され、後白河上皇の側近として近しく活動していました。

仁安3(1168)年2月に清盛が発病すると、後白河上皇は熊野詣の帰りから見舞いに急行。平家を重んじていたことがわかります。


同年に六条天皇が憲仁親王(高倉天皇)に譲位。翌嘉応元(1169)年には、後白河上皇は法住寺殿において出家し、法皇となりました。


平家との関わりを強めてきた後白河法皇ですが、やがて不協和音が生じます。嘉応元(1169)年、延暦寺が強訴で藤原成親の配流を求めて強訴。後白河法皇は成親を庇いましたが、平家は非協力的でした。


加えて嘉応2(1170)年には、摂政・藤原基房の車が平重盛配下によって襲撃される事件が勃発。高倉天皇の元服の儀式が延期となってしまいました。


承安元(1171)年には、清盛の娘・徳子が入内。後白河法皇の猶子として高倉天皇に嫁ぎます。平家の発言力が増すと同時に、後白河法皇は自身の発言力の担保にも留意していました。



日宋貿易の実現に協力する


後白河法皇と清盛は、貨幣経済の進展に大きく貢献しています。日宋貿易の実現のため、後白河法皇は宋人とも接見。清盛に大きく助力する形での行動でした。さらに奥州藤原氏の当主・藤原秀衡を鎮守府将軍に任官。重要な輸出品となる金を献上させる意図があったようです。


日宋貿易は平清盛の功績で語られますが、後白河方法の力がなくしては成り立っていませんでした。日宋貿易は公的貿易として進展。輸入された宋銭は日本国内で大量に流入して、貨幣経済の発展へとつながるのです。


しかしそんな後白河法皇と平家の間にすきま風が吹き始めます。安元2(1176)年、後白河法皇の女御・平滋子が薨去。平家との大きな繋がりが切れた形となりました。


安元3(1177)年、西光や藤原成親らが平家打倒の密儀に参加。世にいう鹿ヶ谷の陰謀が行われていました。

密儀が発覚すると、西光は斬首、成親が配流の末に餓死に追い込まれます。後白河法皇の側近である院近臣らも、貢ぎに参加したことで捕縛されていきました。


治承三年の政変


院政派が大きな被害を被ったものの、後白河法皇は親政派と二頭政治を展開します。やがて摂関家領の帰属を巡り、後白河法皇は平清盛と対立します。治承3(1179)年11月、清盛は後白河法皇を鳥羽殿に幽閉。院政は停止されることとなりました。


平氏滅亡と源氏台頭


以仁王の挙兵


治承4(1180)年、後白河法皇の第三皇子・以仁王が挙兵。全国の源氏に対して決起する令旨を出しています。以仁王の挙兵は短期間で鎮圧されますが、平家の政権は大きく揺らぎました。平家軍が富士川の戦いで源頼朝に大敗すると、福原への遷都を強行。後白河法皇らの身柄は福原へと移らされます。


当時は高倉上皇の病状が思わしくありませんでした。安徳天皇はまだ幼かったため、政務を行うことは難しい状況です。自然、院政の必要性が生じていました。


平清盛は後白河法皇の支持基盤である園城寺や興福寺の焼き討ちを決行。さらに院近臣の多くを解官した上で院政再開への道筋をつけています。


治承5(1181)年1月、高倉上皇が崩御。後白河法皇による院政が再び動き出すこととなりました。閏2月には平清盛が病没。強大な指導者を失った平家一門は、少しずつ揺らいでいきます。


平家一門の当主となった宗盛らは、関東の源頼朝を追討するべく行動。後白河方法に対して東国追討の院庁下文(院庁の出す下文。院宣よりも公的性が高い)を出すように要求します。しかし後白河法皇は源頼朝と平家の和平を考えていました。実際に宗盛に対して融和策を打診しますが、拒絶されて調停は失敗しています。


後白河法皇は平家の圧力に抗すべく活動します。養和2(1182)年、かつて解官された藤原定能らが復帰。院政派が再び勢いを取り戻します。


源義仲の上洛


平家の勢力は、急激に翳りを見せ始めていきます。寿永2(1183)年5月、平維盛率いる平家の軍勢は北陸道に出陣。倶利伽羅峠で源(木曽)義仲軍に大敗を喫しました。


源義仲の軍勢は、そのまま京都を目指して進軍。延暦寺に着陣しています。後白河法皇は法住寺殿を脱出。平家追討の宣旨を義仲に下し、平家一門の多くを解官しています。


しかし源義仲が京都を守護するようになると、新たな問題が浮上します。義仲は自身が奉じる北陸宮(以仁王の第一王子)の即位を主張。治天の君である後白河法皇の権限を犯す行為でした。


後白河法皇は四宮(尊成親王。後の後鳥羽天皇)を践祚させ、義仲の侵犯行為を封じています。義仲入京後、京都の治安は大きく乱れていました。


略奪行為が市中で横行するようになり、後白河法皇は義仲に治安回復の遅れを糾弾しています。義仲に対する期待は、もはや失望へと変わっていました。


平家追討のために義仲が出陣すると、関東に発っていた使者・中原康定が帰還。頼朝は平家横領の返還を約束しています。後白河法皇は大変喜び、10月には頼朝に宣旨を降下。東海道及び東山道の支配権を与えています。


しかし義仲の勢力圏は認定。あくまで頼朝と義仲の和平を命じていました。後白河法皇はより安定的な政治を志向してことがわかります。


法住寺合戦


後白河法皇が頼朝と交渉を始めると、義仲の態度が一変します。義仲は逆に頼朝の追討の宣旨の発給を求めるようになりました。


しかし後白河法皇は義仲の申し出を拒否。源義経の兵が美濃国まで達すると、抵抗の意志を固めます。院御所である法住寺殿を源行家らに警護させ、延暦寺の僧兵も動員。堀や柵を巡らせていきます。


義仲は後白河法皇の身柄を確保するべく、法住寺殿を襲撃。後白河法皇は捕らえられ、幽閉されてしまいました。


寿永3(1184)年1月、木曾義仲が源範頼・義経兄弟に敗れて討死。後白河法皇は義経により身柄を保護されました。解放された後白河法皇は平家追討の宣旨を降下。2月には源氏軍が一ノ谷の戦いで平家軍を打ち破っています。


一説によればこの時、後白河法皇は神器の返還を平家に要求。加えて和平交渉の院宣を下していたともされます。平家の総大将・平宗盛は「源氏の不意打ち」としており、後白河法皇が謀略を駆使した可能性があります。


同月、朝廷は武士の狼藉停止などの宣旨を降下。後白河法皇はあくまで政治の安定を図っていました。


義経と関係を築く


義経を院御厩司に任命する


後白河法皇は、頼朝の上洛を強く希望していました。もし叶わない場合「東国に臨幸する」とまで発言しています。頼朝の官位を従五位下から正四位下に引き上げ、平家の旧知行国・三河、駿河、武蔵を頼朝の知行国に加えています。

7月には伊勢において三日平氏の乱が勃発。後白河法皇は義経を検非違使兼左衛門少尉とし、京都の治安維持及び反乱の平定に協力しています。


このとき、後白河法皇は、特に源義経に信頼を寄せつつありました。元暦2(1185)年1月、義経が四国に出陣が決定。後白河法皇は京都の警備が手薄になると出陣を阻止しようとしています。かつて木曾義仲に西国下向を命じたのは対照的でした。


義経は平家の強大化への危機感を申し述べて出陣。3月には壇ノ浦で平家を滅ぼすことに成功しています。後白河法皇は、義経を院御厩司(院の親衛隊長)に任命。京都の治安維持担当官として、軍事的根拠を与えています。



大仏の開眼供養を行う


元暦2(1185)年7月、京都を大地震が襲来。宇治橋が落下し、多くの民家が倒壊するなど甚大な被害を出しました。

年号が改元された文治元(1185)年翌8月、後白河法皇は大仏開眼供養のため、東大寺に御幸しました。多くの群衆が集まる中、開眼供養は盛大に開催。後白河法皇は正倉院から天平開眼の筆を取り出して、自らの手で開眼を執り行いました。


通常であれば、開眼は仏師が行うものです。足場の階段は高所にあり、地震の影響があれば命にも関わるものでした。しかし後白河法皇は人心を鎮めることを第一と考えていたようです。法皇が開眼することで、群衆は大仏の開眼供養に特別な意味を持ちます。

地震で荒む民を思えばこそ、治天の君として起こした行動だったのかも知れません。


頼朝との政治的駆け引き

頼朝に「大天狗」と称される


後白河法皇を悩ませたのが、頼朝と義経の兄弟対立です。文治元(1185)年10月、在京していた義経は、頼朝との関係が悪化。やがて頼朝追討の宣旨降下を求めるようになります。


現実的な後白河法皇は義経を制止します。優れた政治的洞察力から、形勢が不利と悟っていました。やむなく頼朝追討の宣旨を出したものの、義経には兵が集まりません。


後白河法皇は、義経とその叔父・行家に九州と四国の地頭職を補任。巧妙に退京させる道を模索していた様子がうかがえます。


11月には義経は京都から退去。同月には北条時政が一千騎の兵を率いて上洛してきます。頼朝の鎌倉方からは、義経方の廷臣たちの解官要求が上奏。頼朝による調停への政治的介入が始まります。後白河法皇は義経らの謀反を「天魔の所業」としますが、頼朝は後白河法皇に対して「日本国第一の大天狗」と批判しました。


頼朝との駆け引き


後白河法皇は、頼朝に対して政治的駆け引きに出ることを選択します。文治2(1186)年2月には、頼朝の舅・北条時政に熊野詣での費用捻出を命じた院宣を降下。加えて頼朝追討の宣旨に関わった葉室光雅を朝廷に復帰させるなどしています。


対して北条時政は七カ国の地頭職を辞任するなどして対抗。不穏な空気が流れていきました。


摂政や氏長者の任命においても、後白河法皇と頼朝ら鎌倉方との対立は勃発していました。後白河法皇は近衛基通を、頼朝は自らに近い九条兼実を推薦。最終的に摂政・氏長者は九条兼実に、摂関家領の大部分を近衛基通が継承するということになります。後白河法皇の交渉により、近衛家と九条家が成立。摂関家も新たな時代を迎えていました。



鎌倉方との協調


幕府との関係は、朝廷が摂関家領問題の解決と地頭職設置を認めることで改善傾向に動いていきます。

文治3(1187)年、鎌倉方の大江広元が上洛。先の大地震で壊れた内裏の修繕作業を行なっています。さらに鎌倉方は、京都の治安維持にも積極的にあたります。


当時の京都では群盗の出没が問題化。後白河法皇は京都守護・一条能保に精兵での警備を命じています。頼朝は千葉常胤らを上洛させ、群盗の鎮圧にあたらせるなど、京都の治安維持にも協力してくれました。


文治4(1188)年4月、院御所・六条殿が火災によって消失。後白河法皇は院政の拠点を失ってしまいます。しかしここでも頼朝は再建工事に協力。より広々とした新造の御所を造成してくれました。後白河法皇は少しずつ頼朝を認めていきます。


朝廷の方針は鎌倉方との融和に傾いていました。やがて義経が奥州藤原氏の庇護にあるとわかります。朝廷は頼朝の求めてに応じて藤原泰衡に義経追討の宣旨を降下。文治5(1189)年に義経は自害に追い込まれることとなりました。


後白河法皇は、頼朝に「義経が滅亡したことで、戦は必要ない」と伝えます。しかし頼朝はさらに奥州藤原氏の滅亡を企図していました。


同年7月には、よりともは宣旨を受けずに大軍を組織。奥州に攻め込んで9月までに奥州藤原氏を滅ぼしました。いわば私戦ですが、後白河法皇は現実的な見方をしていました。


泰衡追討の宣旨を下して追認。加えて「短期間での征伐は、古今に類がない」との院宣を頼朝に下しています。既に後白河法皇は、鎌倉方との協調関係で朝廷の権威を守ろうと考えていたようです。


頼朝に諸国の守護権を与える

後白河法皇は、新しい時代の扉を開くこととなります。建久元(1190)年、源頼朝が一千騎の軍勢を率いて上洛。六波羅の屋敷に入りました。


後白河法皇は院御所で頼朝と面会。二人きりの会談において頼朝は、後白河法皇に対して「自分の身に代えても大切に思っております」と言上。加えて頼朝は、朝廷を軽んじる発言をした上総広常を処断していました。


後白河法皇は、頼朝を権大納言に任命。後日にはさらに右近衛大将の官職を与えています。


建久2(1191)年には、後白河法皇によって頼朝の諸国守護権が公式に認定されました。後白河法皇の決断によって朝廷と幕府の関係は新たな時代へと突入したのです。


院御所で崩御する

建久2(1191)年になると、鎌倉幕府の支援によって法住寺殿が再建。後白河法皇は再び御所の法住寺殿に戻ることが出来ました。後白河法皇は大変に喜び、造営担当の大江広元らに剣を下賜しています。

しかし後白河法皇は、少しずつ弱り始めていました。食欲を失い、足が腫れるなど体調を崩していきます。一時は持ち直したものの、容体は重くなっていきました。

建久3(1192)年2月、後白河法皇は後鳥羽天皇の見舞いを受けます。このとき、後鳥羽天皇の笛に合わせて得意の今様を歌う姿が見られました。やがて後白河法皇は丹後局に院領分与に関する遺詔を伝達。自らの最期を覚悟していたようです。

翌3月、後白河法皇は六条殿において崩御しました。宝算六十六。陵所は法住寺陵にあります。




【参考文献】
  • 棚橋光男 『後白河法皇』 講談社 2006年
  • 安田元久 『後白河上皇』 吉川弘文館 1986年

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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