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【やさしい歴史用語解説】「国司」
- 2023/04/27
奈良~平安時代にかけて「国司(こくし)」という言葉が頻繁に出てきます。「国を司る」という意味になりますから、現代で例えれば都道府県知事ということになるでしょうか。
その始まりは飛鳥~奈良時代にあります。中国大陸の政治制度を取り入れた律令制が敷かれる「国司」が設置されましたが、国ごとの行財政、司法・裁判、軍事など地方行政を担いました。任期は当初6年となっていましたが、のちに4年に改変されています。
国司が政務を執る場所を「国府」といいますが、必ずしも国の中心地に置かれたわけではありません。その国を統治するのに便利な交通の要地が選ばれたようです。要は駅伝(街道)が発達した地域や、より都に近い場所が適地だとされました。
国司は中央から派遣された貴族が任じられましたが、国司の下部には「郡司」「里長」といった役職が置かれています。
ちなみに郡司は地元の有力豪族が任命されるケースが多く、その下の里長も同じく有力者が地域行政を担っていました。いずれにしても戸籍を作成した上で、班田から効率よく税を徴収するためのシステムだったのです。
やがて律令制が崩壊して有名無実となった10世紀には、国司の権限が強化されていきます。中央の朝廷は地方行政をすべて国司にまかせ、その代わり国司に一定額の税の納入を請負わせました。
国司は都合の良い税率を定めることができるようになり、さらに耕作地の経営を富豪(有力農民)に請け負わせます。
このように私腹を肥やしながら利益を享受する国司が現れました。こうした腐敗は時代が下るにつれて顕著になっていきます。
11世紀に入ると、皇室や摂関家に貢物や献金をすることで、任期満了後も重ねて国司に就任する「重任」が横行しました。
また「遙任」といって、任命されても任国へ赴任しない国司も現れます。この場合は代理人である目代を派遣して政務をとらせ、行政の実務は地方豪族を採用したといいます。
いわば国司に任命されることは「おいしい仕事」にありつけることを意味し、貴族たちにとって垂涎の的になったといいます。
ところが役人天国となった国司制度も崩壊の時を迎えます。鎌倉時代になると、武士の権限が増すようになり、源頼朝や北条義時らが全国規模で守護・地頭を設置したからです。各地の荘園における徴税請負人を守護・地頭が担うようになり、国司の権限が極度に抑えられました。
中世以降に有名無実化した国司ですが、あくまで名誉職として幕末まで残り続けています。また戦国時代においても大内氏や今川氏などが自らの正当性を示すために国司職を求めました。
中でも珍しいのは伊勢の北畠氏で、建武2年(1335)に北畠顕能が国司となって以来、伊勢国司家と呼ばれています。とはいえ、室町時代の教具から3代にわたって守護職を兼ねていますから、本来は公家でありながら武家としての一面があった家でした
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