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大阪・天満橋にある巨大石は何の史跡?小楠公とその功績をたどる
- 2023/06/02
大阪・天満橋駅近くにちょっと目立つ石の史跡があります。
天満橋といえば桜の時期はお花見でにぎわう観光スポットのひとつでもありますが、史跡は川沿いにたっているので気付かない人も多いかもしれません。実は有名な楠木正成とその子正行にまつわる逸話が残る史跡だったんです。
今回詳しく調べてみました。
天満橋といえば桜の時期はお花見でにぎわう観光スポットのひとつでもありますが、史跡は川沿いにたっているので気付かない人も多いかもしれません。実は有名な楠木正成とその子正行にまつわる逸話が残る史跡だったんです。
今回詳しく調べてみました。
楠木正成と楠正行
楠木正成(くすのき まさしげ)の名を知っている人は多いかもしれませんが、その子・正行(まさつら)となると、どのような人物だったのかはあまり知られていません。楠木正成は大楠公、そしてその長男正行は小楠公とよばれています。
楠木正成
楠木正成は鎌倉時代から室町時代に活躍した武将。後醍醐天皇に忠義を誓い、最後まで寄り添い戦った楠木正成の生き様は現代まで人々に語り継がれています。鎌倉幕府を滅ぼしたのは新田義貞(にったよしさだ)ですが、楠木正成の活躍が討幕の動きを加速させ、大いに貢献したことは間違いありません。
後醍醐天皇は皇位につきましたが足利尊氏の裏切りにあい、劣勢に。楠木正成は負け戦覚悟で「湊川の戦い」を戦い敗戦、来世でも天皇への忠義を誓って自害したと言われています。
楠正行
楠正行は、父正成の長男として産まれました。楠木正成は足利尊氏との湊川の戦いに先立ち、正行に今生の別れを告げたといいます。これは「桜井の別れ」と言われる有名な逸話。湊川の戦いで楠木正成が亡くなった後、正行は一族と河内を守ることに専念。
延元元年(1336)、後醍醐天皇が京都を脱出すると、正行は天皇を出迎え父と同じく忠誠を誓います。しかしすぐに後醍醐天皇が崩御。
正平2年(1347)、22歳になった正行は、紀伊隅田城(すだじょう)に攻め入り、その後も軍をすすめ大阪の住吉、天王寺付近へと進軍。足利尊氏は、楠正行挙兵を知り、細川顕氏(ほそかわあきうじ)を総大将に任命し応戦。楠木軍はこれを急襲し、細川軍は同年11月には京都へ敗走しました。
そこで足利尊氏は軍を編成し直し、山名・細川両軍を再派遣。数の上では劣勢な楠木軍でしたが、楠正行は見事これを撃破し、この天満橋や渡辺橋周辺で両軍は大混乱となりました。
楠正行の善行
このとき正行は、橋から落とされた足利軍を救い上げ、命を助けただけでなくこのままでは死んでしまうと衣服・医薬、さらには馬まで与え京都へ送り返したといいます。その数は500人以上とも言われ、この楠正行の慈悲深い行為は両軍に大きな影響を与えました。翌年の正平3年(1348)、ふたたび両軍が衝突した「四條畷の戦」では、助けてもらった恩に報いようと楠木軍に加わって討死した者までもがいたといいます。
そして昭和15年、この功績をたたえる「小楠公義戦の跡」碑がたてられました。
楠正行の最後
楠正行は四条畷の戦で、敵軍4万に対しわずか1千で戦いを挑み、敗戦。楠木正成の時代と合わせて30年以上にもわたる戦いが集結しました。最後は父親の正成がその弟と刺し違えて自害したのと同じく、弟と刺し違えて亡くなったといいます。享年わずか23歳でした。
語り継がれる楠親子
楠木正成と楠正行の忠義にまっすぐで慈悲深い行いは現在にも深く語り継がれています。天満橋にある碑もその行いを称えるひとつ。この時代は楠木正成があまりに有名なため、その息子正行の影はどうしても薄くなってしまいがちなのですが、最後まで忠義を尽くし、人を思いやる武士であった親子は忘れてはならない存在です。
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