信長、そして秀吉へと受け継がれた「兵農分離」の政策とは?

日本史の一般用語としてよく知られている「兵農分離」。用語事典の解説では、戦国時代から江戸初期にかけて行われた武士と農民の身分的分離政策、というように書かれている。本記事ではこの政策が登場した背景・過程、そして政策実施による影響などを見ていく。

武士はもともと農民だった

武士の始まりは、その領地を守るために農民が武装をしたことが始まりとされている。初めは自分の領地を守るのが目的だったのが、だんだんと収入を得るために武士として戦うようになっていった。


そもそも昔は現在のように一年中作物が作れるような環境にはなく、作物を収穫した後の晩秋から春先にかけては農民はいうなれば仕事ができない状態であった。しかし武士として働けば収入を得ることができない閑散期であっても収入を得ることが出来たのである。その土地を支配していた大名と呼ばれる人物は主にそのことを利用して多くの兵士を雇い、合戦によって敵国を倒して領地をどんどん広げていったのである。


合戦には奇襲によって少数の兵士が大勢の兵士を倒すという事もまれにあったものの、合戦は適切な場所にどれだけ多くの兵士を送ることができるかで勝敗が決まるというのが定石であった。


農民=兵士という欠点を克服

ところが、農民がそのまま兵士として合戦に参加するという事については致命的な欠点が2つあった。


1つ目は、農民を兵士として動員できるのは基本的に作物を収穫できない閑散期のみということ。作物を作り、収穫できる時期には農民は基本的に農業に従事することになる。そうなると絶対的な兵士数は減少することになる。


そしてもう一つ。農民を兵士として合戦に赴かせて戦死してしまった場合、兵士の数が単純に減少するだけではなく、作物を作る人間の数も減少するため、国力自体の低下にも繋がるということである。


戦国期において、こうした問題点をいち早く解消させたのが、かの有名な織田信長である。信長が他の武将に先んじて天下統一に進めたのは、兵農分離に誰よりも早く成功できたからに他ならない。信長が兵農分離を実施できた背景には、彼が推し進めていった革命的な商業政策があった。


「楽市楽座」が兵農分離を成功させた

信長が行なった商業政策に「楽市・楽座」という制度がある。戦国時代の場合、領地に店を出す場合はいろいろと手続きが必要だったり制約が多かったりと、自由に商売できる状況ではなかった。ところが信長は一定の納税しさえすれば、基本的にどんな人間でも領地内で商売ができるような政策を打ち出した。それが楽市・楽座である。


たとえ敵側の領地からの人間であっても、自国で商売をしたいという人は差別なく受け入れた。この政策は大成功し、信長は多くの資金を手に入れることができた。そしてその膨大な資金を利用し、農民を雇うのではなく、純粋に戦うためだけの兵士を雇うことが出来たのである。

基本的に雇うのは家の次男や三男となっていた。当時、家は長男が継ぐのが当たり前であり、次男や三男は正直なところ、行き場がない状態だったのだ。信長がおこなった徴兵は当時の状況を上手く利用したと言えるだろう。


兵農分離によって一年中合戦が出来た

兵農分離をすることによってもたらされた恩恵の一つは、一年中季節を気にせずに合戦が出来るようになったことである。
戦わせるためだけに雇っているので、攻め込める領地が見つかれば農業の繁忙期だろうが閑散期だろうが一切関係なく攻め込むことができる。一方、兵農分離が出来ていない大名が作物の収穫時に攻められるとたまったものではない。応戦しなければ自国が攻め落とされるし、応戦している間は作物の収穫量が目に見えて減少するため、国力が低下するという二重の苦しみを味わうことになるのだ。


信長が兵農分離によって驚異的なスピードで領地を広げていくのを見て、ほかの戦国大名も慌てて自国の改革を進めていこうとするのだが、実際に兵農分離に成功したのは数えるほどしかいないのが現状である。しかし、多くの人が知っているように、信長は志半ばでその命を落とす事となる。


秀吉は兵農分離を徹底した

信長の意志を継ぎ、天下取りに乗り出すこととなったのが豊臣秀吉である。彼もまた、莫大な資金を元に兵農分離によって多くの国を従えていったが、天下統一を目前にして、もう一歩先に進んだ政策を三つ実行する。


一つは太閤検地と呼ばれるもので、日本全国の領地を統一した基準によって計測をした。これによって土地ごとに納めるべき年貢などの量を平等に定めることに成功する。


そして次に行なった政策が刀狩りである。戦国時代は農民も武器を所有しており、自分が住んでいる土地の政策に不満があると、武器を手に取って団結し、一揆と呼ばれる抗議運動をおこなった。刀狩りは主に一揆に対する政策として実行された。農民の武器を全て取り上げることにより、半ば強制的に一揆が出来ないようにしたのである。


最後に惣無事令という政策である。この政策は戦国大名同士の私的な合戦を一切禁止するものであり、秀吉が日本を治める天下人であることを宣言したようなものであった。これにより、無駄な合戦によって国領を疲弊させないようにしたのである。


まとめ

信長が打ち出し、秀吉が進めていった兵農分離に関するさまざまな政策は、戦国時代を終結に向かわせるための大きなきっかけになったことは間違いない。兵農分離に成功した国は、動員できる兵士の数を飛躍的に伸ばすことができたため、対応が遅れた国を攻め落とし、自分の領地にすることが出来たのである。兵農分離はそれまであまり差がなかった国同士の実力に大きな差をつけることになった出来事ともいえるだろう。

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  この記事を書いた人
戦ヒス編集部 さん
戦国ヒストリーの編集部アカウントです。編集部でも記事の企画・執筆を行なっています。

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