織田信長は本当に革命児だったのか? 最新研究で明らかになりつつある素顔の信長像

 かつて、織田信長といえば、日本史上類を見ない「革新的な異端児」と性格付けられ、天下取りに邁進したとされてきた。また、幕府や朝廷という権威に挑戦し、神仏をも恐れず、西洋の文物もいち早く取り入れるなど、合理的な精神が天下取りの原動力とされた。

 信長を支えたのが、鉄砲という当時の最新的な武器であり、奇襲戦などの卓越した戦術であった。楽市・楽座などの経済政策にも積極的に取り組むなどし、短期間で畿内を中心にして各地に勢力を広げたのである。

 しかし、近年の信長の研究により、これまでのイメージは一新され、一気にトーン・ダウンした感がある。しかし、これは別に信長の評価を矮小化するものではない。たしかな史料により個々の事例を検証し、「素顔の信長像」を提示したまでである。

 こうした最新の研究により、信長の正しい位置が明らかになりつつあるので、そのポイントを取り上げることにしよう。

信長が目指した天下とは

 これまで「天下統一」という言葉に象徴されるように、信長が目指した「天下」は「全国統一」であり、自明であると考えられてきた。

 ところが、近年の研究によって、「天下」とは将軍が支配する「畿内」を示し、それが当時の共通認識であることが明らかになった。むしろ、「天下」が「日本全国」を意味する例は少ないのである。

畿内とは、山城・大和・河内・摂津・和泉の五か国を指す
畿内とは、山城・大和・河内・摂津・和泉の五か国を指す

 同時に「天下」には、「広く注目を集め ”輿論” を形成する公的な場」というやや抽象的な意味もあった。したがって、「天下」概念を考える際には、ここで述べた言葉の意味の使い分けを把握する必要がある。

 以上の点を踏まえて考えると、信長は「畿内」を平定することを一義に置いており、それを阻む勢力とは徹底抗戦で退けようとしたのは疑いない。天正元年(1573)に信長は将軍・足利義昭と袂を分かつが、義昭は各地の大名に支援を求め、「信長包囲網」を形成した。このとき義昭が目論んだのは、上洛と室町幕府の再興であった。

 しかし、義昭が上洛し畿内を制圧したならば、「天下(=畿内)」は再び乱れてしまう。天正8年(1580)から信長は「天下一統」という言葉を用いるが、それは義昭に与する諸大名を討伐し「信長包囲網」を崩壊させ、同時に義昭の上洛を阻止することにより、「天下(=畿内)」の静謐を図るということを意味するのではないだろうか。

 信長とその周囲の「天下」概念が変化しても、それが他者との共通認識にならないと意味がないのは自明のことである。

信長と足利義昭、室町幕府との関係性

 信長は室町幕府を再興し義昭を将軍の座に就けたが、実はそれは傀儡に過ぎず、やがては自身が天下を取るための布石に過ぎなかったという見解があった。しかし、現在では、そうした説は否定する方向へと変わりつつある。

 戦国期になると、室町幕府は衰退の兆しを見せる。一方で、将軍は各地における戦国大名間の紛争の調停を行い、また官職の授与の斡旋を行うなど、一定の存在感を見せていた。将軍の存在を無力とするのは早計に過ぎず、存在価値はあったのだろう。

 信長が義昭を支援して上洛したのは、「天下(=畿内)」の静謐である。そして、それは後述する朝廷への奉仕にもつながった。信長は旧来の管領のような形で義昭を支え、畿内の平和と秩序の維持を考えたのである。

 しかし、義昭は朝廷への奉仕を十分に行わず、また信長に叛旗を翻すありさまだった。当時の政治思想において、上に立つ者には「器量(=能力、手腕)」が重視されていたが、義昭にはそれがなかった。それゆえ義昭は放逐され、代わりに信長が「天下(=畿内)」の静謐を代行したということになろう。

信長と朝廷との関係性

 戦前、信長は勤皇家と評価され、戦後は対立関係にあったと考えられた。実際の信長は、伝統的権威である朝廷を重んじていた。

 たとえば、正親町天皇が信長から譲位を要請された際、これが両者の対立になるか否かが争点となった。しかし、天皇が退位して上皇となり、院政を敷くことが本来の姿であったことが解明されると、もはやそれは対立とは捉えられなくなった。むしろ、正親町天皇が信長に感謝した記録が残っている。ほかの問題も細かい考証は避けるが、朝廷のためであると考えられるようになった。

 こうした朝廷への対策も、「天下(=畿内)」の静謐の一環と考えることができよう。信長は天下静謐に朝廷への奉仕が含まれると考えていたのだ。

信長は「全国統一」に近づけたのか

 信長は「天下(=畿内)」の静謐を大義名分として、各大名に従うように迫り、従わなければ戦争になった。戦争で獲得した国には有力な家臣を配置し、一定の権限を与えて支配をさせていた。

 一方、信長の戦いでは、本願寺との長期間の抗争や、武田氏を長篠の戦いで破りながらも、実際に滅亡させたのは7年後になるなど、ツメが甘い点が認められる。また、丹波波多野氏、摂津荒木氏、播磨別所氏が次々と叛旗を翻すなど、必ずしも磐石な体制だったとは言い難い側面も認められる。

 こうした困難を乗り越え、天正10年(1582)6月には毛利氏と将軍の義昭を窮地に追い詰めたが、仮に両者を屈服させたあと、どういう方向性で展開させようと考えたかは不明である。途中から関係がこじれたとされる長宗我部氏の四国征伐の問題と相俟って、信長が「全国統一」を成し遂げようとしたのか、改めて検討する必要がある。

まだ残る検討すべき課題

 信長が何を考えていたのかを示す史料は非常に乏しい。したがって、個々の事象を詳細に検討しながら、信長の意図を読み取る必要があるといえよう。

 近年、信長の評価はトーン・ダウンしたと述べたが、一方で未だに壮大な枠組み、理念のもとに信長の志向や行動を考える傾向も根強い。率直にいえば、一個人に超人的な性格を付与するのには、いささか違和感がある。ただ、信長が有能な人物であったことは否定しない。

 その際、重要なのは一次史料に即して考えることであり、安易に二次史料に流されないことであろう。二次史料に書かれていることがおもしろければおもしろいほど、慎重な態度をとるべきだと考える。

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  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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