幕末期、維新の俊英たちが集った「長崎海軍伝習所」

鍋冠山公園からみた長崎港と長崎市街
鍋冠山公園からみた長崎港と長崎市街
 嘉永6年(1853)6月、浦賀沖に現れた黒船ペリーの来航は江戸幕府に大きな外交政策の転換を迫ります。「もはや鎖国は維持できない」 鎖国どころか自国を守る艦隊さえ持たなかった幕府は大型船製造禁止の方針を大転換、海軍創設の必要を認め、11月にオランダから軍艦の購入を決めます。

スンビン号

 安政2年(1855)、オランダ海軍のヘルハルドゥス・ファビウス中佐は、2隻の軍艦スンビン号とヘデー号を率いて長崎港に来港、スンビン号を将軍徳川家定へ献呈します。同時に日本人に操船技術を教え、日本の海軍創設の手助けをしたいと申し出ました。このオランダの態度は、日本の鎖国中にも唯一交易を続けた国としての通商特権を維持したいがためと、欧米列強の対日通商要求の動きを探るためです。

 ファビウスは海軍創設に当たり、オランダ人を教師とした海軍学やオランダ語を日本人に学ばせ、造船所も建設し、スンビン号を伝習船に用いるよう提言します。幕府はこれを受け入れてオランダ人教官を雇い入れ、長崎奉行所西役所を教場とし、スンビン号を「観光丸」と改め、海軍伝習を開始します。これが「長崎海軍伝習所」です。

 スンビン号にはオランダ海兵指揮役第一等尉官ペルス・レイケン以下教授陣として、士官・機関士・水夫・火夫など第一次海軍伝習派遣隊22名が乗り込んでいました。

スンビン号(観光丸、出典:wikipedia)
スンビン号(観光丸、出典:wikipedia)
ヘルハルト・ペルス・レイケン(出典:wikipedia)
ヘルハルト・ペルス・レイケン(出典:wikipedia)

幕府伝習一期生の顔触れ

 伝習所のさしあたりの目的は日本人乗組員を養成し、日本人だけで艦船を操作できるまでにする事です。安政2年(1855)12月1日、ほとんどの伝習生が長崎に揃ったので、レイケンはこの日から伝習を始めると決めました。伝習の開始に当たり、伝習所長の永井玄番頭尚志(なおむね)は礼服に身を固め、伝習生を引率して出島のオランダ商館を訪問しそこで入門式が行われます。

 この伝習生の顔触れが凄かったんですね。募集は三期生まで行なわれましたが、幕臣としては勝麟太郎(勝海舟)・矢田堀景蔵・小野友五郎・榎本武揚・松本良順・五代友厚たち、その他佐賀藩の佐野常民や中牟田倉之助、薩摩藩の川村純義ら維新の俊英が諸藩から集まりました。船大工や砲術士も加わっています。

 永持亭次郎(こうじろう)・矢田堀景蔵(やたぼりけいぞう)・勝麟太郎のお目見え以上の3人が艦長候補に選ばれます。オランダ語の航海術書を解読していた小野友五郎は、特別に航海測量の専修を命じられました。

どんな勉強をしたのか

 当時教授された学科は航海術・運用術・造船学・砲術・船具学・測量学・算術・機関学・砲術調練で、授業時間は午前8時から12時まで、午後は1時から4時まででした。座学は壇上の教官がオランダ語で講義を行い、通訳官が日本語で伝習生に伝えてそれを筆記する方法が取られましたが、これがなかなかに厄介でした。

 オランダ語と数学は必修とされましたが、まず通訳が軍事や海事関係の専門用語を理解できず、彼ら自身が事前にオランダ教師から指導を受けねばなりませんでした。

 伝習生たちは和算の心得はありましたが洋算は初めてで、これを理解しなければ幾何学や航海術の講義に進めません。教科書はすべて洋算が用いられていましたから。このように最初の2、3ヶ月は双方にかなりのストレスがかかりました。

 実習は沖に錨泊している観光丸上で行われることが多く、伝習生たちは自作の短艇を操って港と観光丸の間を往復します。短艇作りには日本人船大工が活躍しました。練習艦上では実地操船や帆の扱い方を学び、仮の造船所を造って1年がかりで500石積み、長さ15間(約27m)の汽船一隻を製造したりします。伝習生たちは懸命に学びました。

オランダ教師陣の待遇

 教師団長のレイケンは出島にあるオランダ弁務官の家、通称カピタン部屋に住み、他の士官たちもオランダ人の家、通称紅毛人部屋に住みました。

 このころには日本人の出島への出入りも自由になっており、後には教師たちの宿舎に教えを求めて伝習生が通って来て塾のようになってしまいます。下士官や兵士たちは2階建ての荒物倉庫を改装して宿舎にしましたが、下士官と兵士では内装に差が付けられました。

 伝習所のオランダ人は、オランダ領東インド派遣のオランダ艦隊に属していると共に、他方では幕府のお雇い教師でもありました。この二重性は彼らの給与形態にも見られます。士官・機関士などは艦隊勤務中であるとしてオランダ政府から俸給を受け取りますが、幕府からもそれ以上の手当を支給されます。第一次隊長レイケンは一等尉官の月450ギルダー、年5400ギルダーの俸給を受け取りますが、これは当時で小判70枚に相当する大金です。プラス幕府からのお手当ですからね。

 レイケン以下、22名の派遣隊員の給料は1年間で3万1560ギルダー、金にして3034両にのぼります。住宅は無償で与えられましたが、飲食物や油・薪炭類は自弁でした。

伝習所の閉鎖

 安政4年(1857)3月、第一期伝習生105名は無事卒業を果たし、所長・永井尚志に率いられ、観光丸に乗って江戸へ向かいます。幕府が江戸での伝習を予定していたので教官に就任するためでしたが、オランダ人派遣隊長は日本人のみで船を上手く操れるかと心配しました。しかし伝習生たちは23日かけて無事江戸に着き、立派に伝習の成果を証明したのです。

 立派な成果を上げた伝習所ですが、安政6年(1859)2月に前後5ヵ年間の運営で閉鎖されます。出費も多く、海軍伝習機関を長崎からお膝元の江戸へ移したいと考えたようですが、オランダ側からの申し出もありました。

 安政5年(1858)6月、オランダ商館長ドンケル・クルチウスが条約交渉のため、江戸へやって来て告げます。「欧米列強が日本と外交交渉を始めた今、オランダのみが日本人に軍事訓練を施しているのはいらぬ誤解を招く」と言うのです。日本を巡る国際関係も変化していました。安政6年(1859)、長い歴史をもつ出島のオランダ商館も閉鎖されます。

おわりに

 伝習所に集った維新の俊英たち、彼らはこの国の未来を思って何を語り合ったのでしょう。その会話を聞いてみたかったと切に思うのです。


【主な参考文献】
  • 梅溪昇『お雇い外国人』(講談社、2007年)
  • 藤井 哲博『長崎海軍伝習所』(中央公論社、1991年)

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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