「大内輝弘の乱(1569年)」大友宗麟に捨て駒にされた大内家の残党がお家再興を図る
- 2019/08/23
毛利元就は、中国地方の二大勢力である大内氏と尼子氏を滅ぼして覇者となりました。ただ、滅ぼしたからといって敗者はすんなりと受け入れられないものです。とくに尼子氏の遺児である尼子勝久と家臣の山中鹿介(幸盛)による再興運動は長引き、毛利も手こずっています。
一方であまり知られていないのが、大内氏の残党による騒乱です。尼子再興の動きとほぼ時を同じくして立ち上がったのが、大内義隆の従兄弟にあたる大内輝弘でした。
一方であまり知られていないのが、大内氏の残党による騒乱です。尼子再興の動きとほぼ時を同じくして立ち上がったのが、大内義隆の従兄弟にあたる大内輝弘でした。
大内輝弘の乱の背景
毛利に滅ぼされた名門の残党たちは
大内氏と尼子氏は毛利元就によって滅ぼされてしまいましたが、「ハイそうですか」と大人しく隠居生活を送る者もいればそうでない者もいて……。まず、弘治3年(1557)に大内家臣らが義隆の遺児・問田亀鶴丸(といだきかくまる)を盟主として挙兵した出来事がありました。それからおよそ10年… 永禄11年(1568)に今度は山陰の尼子氏一族の生き残りである尼子勝久を還俗させて担ぎ出し、再興を狙う動きがあり、一方でそれと示し合わせるように九州では大内義隆の従兄弟である大内輝弘が御家再興をめざして立ち上がります。
このように、当主とつながりのあるものを盟主として再興を画策するというのはそう珍しいことではなく、毛利でも想定の範囲内だったことでしょうが、それにしてもタイミングが悪かったのです。
毛利軍を退けたい大友宗麟
このころ毛利が何をしていたかというと、山陰の尼子氏を滅ぼした後、九州・四国へと進出していました。北九州を支配していたのは名門の大友氏。永禄12年(1569)、毛利は吉川元春、小早川隆景を中心に博多の要衝・立花山城を攻め、大友宗麟を追い込んでいる最中でした。すでに立花山城を落とした毛利は多々良浜で大友軍と戦っていましたが、攻められる側の大友氏は毛利軍を撤退させるための攪乱作戦を実行します。それが、大内輝弘の山口侵入でした。
このころ山陰では尼子勝久、山中鹿介らによる尼子再興軍の侵攻もあったので、大友はこれと呼応する形で毛利の背後を引っ掻き回し、撤退させようと画策したのです。
大内輝弘とは
さて、この騒乱の主人公である大内輝弘とは誰なのか。一連の攻防自体があまり知られていないためメジャーな人物ではありません。大内輝弘は、義隆の父・義興の異母兄弟である大内高弘の子です。つまり義隆の従兄弟にあたります。大内家は当主の座をめぐって御家騒動が多かった一族ですが、この高弘はまさに大内家家臣と大友氏に担ぎ上げられて謀反を起こし、失敗して大友氏の食客として九州で過ごしていたのです。
輝弘は豊後で生まれ、ひっそりと暮らしていました。つまりは後継者争いに敗れた庶流の出なのですが、大友宗麟の家臣・吉岡長増に唆され、大内再興をめざして大友の支援のもと兵を連れて周防に侵入したのでした。
大内の再興をねらい周防へ上陸
10月11日、大友の支援を受けている輝弘の軍は当初2000程度でしたが、大内再興の動きを大内遺臣が知ると軍勢はおよそ6000まで膨れ上がったと言います。輝弘は兵に守られながら築山館跡に侵入してそこを占拠し、毛利が守る高嶺城(こうのみねじょう)を攻撃し始めます。城主の市川経好(いちかわつねよし)は出陣中で留守でしたが、留守を守っていた毛利軍の守備によってこの日はなんとか城は守られました。経好の妻が自ら甲冑を身につけて陣頭指揮にあたったことが伝えられています。
毛利元就の選択は?
輝弘の山口占拠が元就に知らされたのは10月13日のことでした。このまま主力は大友宗麟の軍と多々良浜で戦いを続けるか、兵を引き上げて大内と尼子の残党を討伐するか……。元就は元春と隆景に立花山城を捨てて撤退するよう命じます。大友に対して優勢だったため苦渋の決断だったでしょう。元春、隆景は父の決定に反対したといいます。
騒乱はあっという間に収束
大内との戦いの救援に向かったのは元春です。21日、福原貞俊、熊谷信直ら1万の軍を引き連れて山口に向かいます。すさまじい勢いで大内軍を討伐しながら元春が迫っていることを知った輝弘は、すぐに「これはとても敵わない」と悟り逃走しました。山口から海を渡って逃れようとしますが、上陸地の秋穂浦にはすでに大友の軍船はありません。ほかのルートにも船はなく、手勢も残りわずか。輝弘は最後まで応戦を試みますが、茶臼山で背後に元春が迫ってきていることを知ると、とうとう諦めて自刃しました。
わずか半月あまりの出来事で、大内再興をめざした輝弘の騒乱はあっという間に鎮圧されてしまいました。
もっとも得をしたのは大友宗麟
毛利軍を苦しめたのはむしろそのさらに背後にある尼子再興軍でした。元就は尼子の鎮圧に1年以上費やすことになったのです。輝弘の乱のおかげで九州からは撤退することになり、手に入れていた拠点は大友が奪回。それからの毛利はというと、東から迫る織田信長の勢力との戦いが始まり、もはや九州進出に力を入れるどころではなくなってしまいます。おかげで大友は毛利軍の攻撃に煩わされることがなくなり、もっとも得をしました。
もとより大内輝弘をけしかけたのは毛利を撤退させるためだけであり、大内家再興を成功させようなどとは考えていなかったのでしょう。撤退する毛利軍の追撃もしなかったため、ただ毛利がいなくなりさえすれば万々歳というところでしょうか。
結局、大内輝弘は捨て駒にされただけだったのです。
【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 小和田哲男『毛利元就 知将の戦略・戦術』(三笠書房、1996年)
- 利重忠『元就と毛利両川』(海鳥社、1997年)
- 池亨『知将 毛利元就―国人領主から戦国大名へ―』(新日本出版社、2009年)
- 河合正治『安芸毛利一族』(吉川弘文館、2014年)
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