「北条高時」闘犬、田楽好きの執権 鎌倉幕府滅亡の悪夢

北条高時像(北条相模守平高時肖像、宝戒寺安置。出典:wikipedia)
北条高時像(北条相模守平高時肖像、宝戒寺安置。出典:wikipedia)
 北条高時(ほうじょう・たかとき、1303~1333年)は鎌倉幕府14代執権で、北条氏トップの得宗(とくそう)として権勢を振るいました。一方で闘犬や田楽にふけり、政務を顧みず、ついには鎌倉幕府を滅亡させた暗君とされています。倒幕派の標的は征夷大将軍でも執権でもなく、既に執権を退いていた得宗・北条高時でした。このとき、鎌倉幕府イコール北条高時だったのです。北条高時の生涯をみていきます。

「得宗」独裁 側近・長崎円喜の専横を招く

 北条高時は9代執権・北条貞時の三男で、兄2人は夭折し、父の死後、得宗の地位を継ぎました。執権に就いていたのは正和5年(1316)~嘉暦元年(1326)、14歳~24歳です。執権退任、出家後も31歳の死去まで得宗として鎌倉幕府の最高権力者として君臨しました。

「相模入道」「太守」の呼び名も

 幼名は「成寿丸」、法名は「崇鑑(そうかん)」。官職・相模守から「相模入道」とも呼ばれました。「太守(たいしゅ)」は得宗の尊称。本来は国の守に任命された親王の呼び方で、相模守に任官する得宗を親王に重ねた大げさな尊称です。

 「得宗」は北条氏主流の家督。5代執権・北条時頼が曽祖父・北条義時(2代執権)に贈った追号「徳崇」に由来するという説が有力です。

〈初代執権・時政、2代・義時、3代・泰時、時氏、4代・経時、5代・時頼、8代・時宗、9代・貞時、14代・高時〉

 この8代9人が得宗。経時、時頼は兄弟で、その父・時氏は執権に就いていません。

※参考:北条氏(得宗家)の略系図
※参考:北条氏(得宗家)の略系図

祖父・時宗、父・貞時は名君

 北条高時の父は9代執権・北条貞時、祖父は8代執権・北条時宗。いずれも名執権です。

 北条時宗は元寇に対応し、文永11年(1274)の文永の役、弘安4年(1281)の弘安の役と2度、元の艦隊を退けました。

 北条貞時は時宗長男。13歳で執権に就任し、弘安8年(1285)の霜月騒動や永仁元年(1293)の平禅門の乱を経て権力基盤を固め、得宗主導の専制政治を強化します。しかし、嘉元3年(1305)の嘉元の乱で北条一族の内紛が起き、政治意欲を失います。

  • 霜月騒動:鎌倉幕府の重臣だった安達泰盛とその一族が、執権北条貞時の内管領平頼綱によって滅ぼされた事件
  • 平禅門の乱:内管領として権勢を振るった平頼綱とその一族が、主君・北条貞時に討伐された事件

 高時の母は貞時側室・覚海尼(かくかいに、法名「覚海円成」)。安達氏出身です。高時の同母弟に北条泰家がいます。泰家は鎌倉幕府の滅亡後に、北条一族再興の戦いである中先代の乱(1335)を仕掛けています。

 高時の妻は、正室に安達時顕の娘、側室に御内人(得宗直属の家来)・五大院宗繁の妹がいます。高時の子は北条邦時、時行と女子2人、養子1人が確認できます。長男・邦時は側室の子で、邦時、時行は同母兄弟か異母兄弟か説が分かれます。また、元徳元年(1329)生まれの「若御前」がいますが、時行と同一人物の可能性があります。

14歳という若さで執権に就任

 応長元年(1311)10月、父・貞時が死去し、北条高時は9歳で得宗の地位を継ぎます。貞時は17年間執権を務め、正安3年(1301)に従兄弟・北条師時が10代執権に就き、その師時が貞時より1カ月早く死去。その後も高時が成長するまで北条氏分家から中継ぎの執権が続きます。

 そして高時が14代執権に就いたのは14歳、正和5年(1316)です。

 高時の後見は舅・安達時顕と内管領・長崎円喜に託されていました。内管領は御内人筆頭。得宗の秘書のような立場です。若年の高時を補佐する長崎円喜や、高時執権就任と同じころに内管領の地位を継いだ円喜の嫡男・長崎高資が権勢を固めていきます。

 『保暦間記』によると、執権・北条高時の政権は「形の如く子細なく」(先例に従い形式通りに)運営されました。安達時顕と長崎円喜を中心に合議制で幕政が運営されますが、秘書が権力を発揮しやすい先例重視、形式主義に陥っていました。

 こうした体制が長崎円喜の専横を招いてしまうことになります。しかも、それがのちの幕府内紛(後述します)につながっていくのです。

後醍醐天皇の倒幕運動 正中、元弘の変

 北条高時の執権在任中、皇統は分裂していました。持明院統は89代・後深草天皇の系統(後の北朝)。大覚寺統は90代・亀山天皇の系統(後の南朝)です。

 そして、交互に皇位を継承。いわゆる「両統迭立(てつりつ)」です。さらに、文保元年(1317)、文保の和談で10年ごとの交代などの合意があったとされます。しかし、合意ではなく、単なる話し合いで、それも従来の合議とさほど変わらなかったという説も有力です。

※参考:持明院統と大覚寺統の略系図
※参考:持明院統と大覚寺統の略系図

 文保の和談の翌年、95代・花園天皇(持明院統)が譲位し、96代・後醍醐天皇(大覚寺統)が即位。ただ、後醍醐天皇は甥・邦良親王(後二条天皇の第一皇子)への中継ぎ役であり、自分の皇子に皇位を継承できない立場でした。「自分自身で政治を行なえば、その不満も解消される」との考えが倒幕計画に至ったのでしょうか。正中の変、元弘の変を引き起こします。

正中の変(1324)「当今御謀反」

 正中元年(1324)9月19日、「当今御謀反」とも言われた天皇によるクーデター計画が発覚。これが正中の変です。しかし、計画は杜撰で小規模。本当に倒幕計画だったのか疑わしい面もあります。加担武将・土岐頼員が鎌倉幕府の出先機関・六波羅探題に密告し、土岐頼兼、多治見国長は六波羅勢に攻められて自害。逮捕された日野資朝は佐渡に配流され、日野俊基は証拠不十分で釈放。長崎円喜の主導で後醍醐天皇の責任は不問に伏して決着します。

 『太平記』には、家臣に書かせた後醍醐天皇の告文(弁明書)を読もうとした北条高時に対し、有力御家人・二階堂道蘊(どううん)が強く諫める場面があります。

道蘊:「天皇が武臣に御告文を下されることは前例がなく、恐れ多いことです。文箱を開かず、そのまま勅使に返すべきです」

高時:「何で読んではいけないのか。斎藤利行、読め」

 斎藤利行は読んだとたん、目がくらみ、鼻血を流して退出。喉が腫れ、7日後に吐血して急死します。さすがの高時も態度を軟化。

高時:「この件は朝廷にお任せし、武家の干渉するところではありません」

 告文はそのまま勅使に返却されました。

元弘の変(1331) 後醍醐天皇ついに挙兵

 元弘元年(1331)4月29日、またしても後醍醐天皇の倒幕計画が発覚します。戦乱に発展し、元弘の変、元弘の乱と呼ばれます。倒幕計画は後醍醐側近・吉田定房の密告で発覚。すぐに日野俊基や天皇に近い僧・文観、円観らが逮捕されます。

 『太平記』では、北条高時は大いに怒り、強硬論を主張します。

高時:「この君(後醍醐)の在位の間、天下は静まらない。承久の乱の先例に従い、君は遠国に流し、大塔宮(護良親王)は死罪にすべきだ」

 高時は既に執権を退いていましたが、得宗として実質的に鎌倉幕府を代表する立場であることには変わりません。

 8月24日、後醍醐天皇は内裏を脱出し、笠置山(京都府笠置町)で挙兵。1カ月ほど幕府の大軍を相手に籠城しますが、9月28日落城。後醍醐天皇は逮捕され、元弘2年(1332)3月7日、隠岐に流されます。日野資朝や日野俊基は斬首されました。

大事な時期に幕府内紛 円喜父子との対立

 多少前後しますが、2度の倒幕計画発覚という危機を迎えた時期、鎌倉幕府内部でも騒動がありました。

 鎌倉時代、有力御家人の粛清はこれまでも頻発し、それらに比べれば、大きな戦乱ではありませんが、北条高時の権勢は弱体化していきます。

嘉暦の騒動(1326) 新執権10日で辞任

 執権に就いて10年、北条高時は病気を理由に24歳で執権を退任。嘉暦元年(1326)3月16日、金沢貞顕が15代執権に就きますが、わずか10日後の3月26日に出家。執権を辞職しました。嘉暦の騒動です。

 高時の同母弟・北条泰家が「兄が退いたのなら、自分が執権になるはずなのに」と憤慨して出家。多くの武士が後追い出家をして鎌倉が騒然となります。金沢貞顕はその剣幕に押されたのです。

元徳の騒動(1331) トカゲの尻尾切りで決着?

 元弘元年(1331)8月6日、北条高時による長崎高資誅殺計画が発覚します。高時は長崎高資の専横を憎み、高資の叔父・長崎高頼(円喜の弟)らに高資を討たせようとしました。長崎高頼が流罪になるなど高時の側近たちが処罰されます。この年、改元前は元徳3年で、元徳の騒動と呼ばれます。

 ついに得宗・北条高時をしのぐ権勢を誇るようになった長崎円喜、高資父子に腹に据えかね、高時は非常手段に訴えたのですが、あえなく失敗に終わりました。しかし、高時が失脚したわけではなく、トカゲの尻尾切りで落着したのか、詳細や結末に謎の残る事件です。

北条高時を暗君と酷評する『保暦間記』『太平記』

 『保暦間記』は「まったく愚か」「正気ではない」と北条高時を酷評しています。

 また、『太平記』も暗君ぶりを詳述。高時は、諸国から犬を集めて家来や御家人に犬合わせ(闘犬)を見物させます。闘犬は月12回。鎌倉中に着飾った犬4000~5000匹がうろつく始末でした。100、200匹ずつを放って噛み合わせることもあり、「人間の戦場と変わらない」と面白がる声もあれば、あさましいと嘆く声もありました。

 田楽(田園の行事から発生したとされる、日本の伝統芸能)への熱中では奇怪な逸話があります。あるとき、高時は酔って踊り出し、「天王寺の妖霊星をみたいなあ」と拍子をつけて囃します。ある女官がそっとのぞき見ると、一緒に踊っているのは田楽法師ではなく、くちばしがある者やら翼がある者ら異類異形の化け物たち。あわてて安達時顕が駆けつけると、高時は呆然として何も覚えておらず、あたりには鳥獣の足跡が残っていました。

 これを儒者・藤原仲範が伝え聞いて「天下が乱れるとき、妖霊星という悪い星が現れる。これは天王寺周辺より動乱が起きて国家が滅ぶ前兆だろう」と予言しました。

北条高時、烏天狗に騙されるの図(月岡芳年画、出典:wikipedia)
北条高時、烏天狗に騙されるの図(月岡芳年画、出典:wikipedia)

 これらの逸話は誇張、創作が含まれていますが、高時の田楽好きは金沢貞顕の書状にも書かれ、「二条河原落書」でも指摘されています。高時の闘犬、田楽への熱中は鎌倉幕府滅亡の象徴だったのです。

炎上する東勝寺で自刃 鎌倉幕府滅亡

 元弘2年(1332)11月、大和国で後醍醐天皇第3皇子・護良親王が挙兵。さらに楠木正成ら反幕府勢力も山岳ゲリラ戦を展開し、畿内は騒然となります。元弘3年(1333)3月には後醍醐天皇も隠岐を脱出し、船上山(鳥取県琴浦町)に籠もります。

 北条高時は「重ねて大軍を送り、半ばは京の警護に、主だった軍勢は船上山を攻めよ」と命令。鎌倉から大軍が派遣されます。

 『太平記』は、再三の出馬催促を不快に感じて足利尊氏が倒幕を決意したとしています。元弘元年(1331)は父の死去直後に出陣。さらに、元弘3年(1333)3月は喪中や病気を理由にぐずぐずしていると、日に2度も高時の使者が来て催促される始末。また、尊氏が妻子も京に連れていくと言い出すと、警戒する長崎円喜の進言に従い、高時は、妻子を鎌倉に残し、起請文を出すよう尊氏に要求します。これに尊氏が応じると、高時は疑いを解き、豪華な鞍付きの良馬10頭、銀で縁取りした鎧10両を引き出物として贈り、尊氏の出陣を見送りました。

 鎌倉を離れた尊氏は京の六波羅探題を攻め落とします。

島津四郎の醜態

 元弘3年(1333)5月、御家人・新田義貞が挙兵し、あっという間に大軍となり、鎌倉に攻め寄せました。

 『太平記』では、この鎌倉市街戦に島津四郎という一騎当千の勇者が登場。最後まで北条高時の周辺警備に留め置かれ、新田義貞の軍勢がいよいよ迫ってきたとき、高時は島津四郎を呼んで、自ら酌を取って酒を勧め、関東一の名馬を与えて出陣させます。長崎円喜が烏帽子親でもあり、高時が最も信頼した武士だったのです。

島津四郎は由比ガ浜に陣取る敵勢に単騎で乗り込み、敵味方が固唾を飲んで見守る中、馬から降りて兜を脱ぎます。一騎打ちでもするのかと思ったら降伏。とんでもない茶番です。

金沢貞将の美談

 美談もあります。

 鎌倉中が炎に包まれ、邸宅も焼失し、北条高時は約1000騎で東勝寺に立て籠もります。東勝寺は北条氏の菩提寺。ここを最期の場所と定めたのです。そこに連戦で傷だらけの金沢貞将(金沢貞顕の嫡男)が最後の挨拶。高時は貞将を両探題職とする御教書(公式文書)を渡します。貞将は六波羅探題職には就いたことがあり、両探題職は執権、連署と解釈されます。高時は貞将の奮戦に幕府最高職の名誉で応えたのです。

 金沢貞将その御教書に「我が百年の命を棄て公が一日の恩を報ず」と書き入れ、再び敵中に駆け込み、戦死。武士の本懐を示しました。

東勝寺で873人自害

 元弘3年(1333)5月22日、鎌倉幕府は滅亡します。

 『太平記』に北条高時の最期の場面が登場しますが、自害の様子が詳述されているのは、高時に先んじた若武者・長崎高重(高資の嫡男)や宿老・摂津親鑑(ちかあき)、諏訪直性(じきしょう)でした。いずれも御内人です。自身の切腹を肴に一献勧め、次の者がそれに応じて腹を切るという凄まじさです。

 高時の様子が心配で自害を躊躇していた長崎円喜は孫に刺されて絶命。その孫も自害し、その若者に励まされるように高時が自害します。さらに舅の安達時顕をはじめ一門の者が次々と自害。北条一門283人をはじめ、東勝寺で総勢873人が落命。鎌倉全体で幕府方犠牲者は6000人余に上りました。

 炎の中で大勢の一門が自害する壮絶な最期でした。

東勝寺跡の奧にある北条高時 腹切りやぐら
東勝寺跡の奧にある北条高時 腹切りやぐら

おわりに

 鎌倉幕府が滅んだときの征夷大将軍は9代・守邦親王、執権は戦死した16代・赤橋守時でしたが、倒幕派から標的にされていたのは得宗・北条高時でした。

 『太平記』でも徹底して悪役として描かれています。ただ、金沢貞顕の書状には、高時が病弱だったことが書かれており、暗君、暴君というよりも、政治に意欲を持つには能力も環境も恵まれていなかったようです。ただ、高時のために命を賭して戦う武士も多く、多くの一族、御内人と最期の場をともにしました。北条氏の結束力を保ち、権力者らしいカリスマ性はあったようです。


【主な参考文献】
  • 兵藤裕己校注『太平記』(岩波書店、2014~2016年)岩波文庫
  • 永井晋『鎌倉幕府はなぜ滅びたのか』(吉川弘文館、2022年)
  • 細川重男編『鎌倉将軍・執権・連署列伝』(吉川弘文館、2015年)
  • 鈴木由美『中先代の乱』(中央公論新社、2021年)中公新書

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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