土方・沖田の兄貴分 本当は強くて頑固だった井上源三郎

 新選組が登場する映画やドラマ、小説などでは、穏やかであまり剣術は得意ではない人物として描かれることの多い井上源三郎(いのうえ げんざぶろう)。しかし、なにしろ猛者ぞろいの新選組で3番組組長(のち6番組組長)として隊士たちを指揮していたのである。剣の実力は、かなりのものだったのではないだろうか。もしかすると、井上源三郎、本当はスゴイ隊士なのかも…。

 そこで今回は、近藤・土方・沖田の陰に隠れた、地味だけれどもいい味を出しているだろう井上源三郎の素顔を探り出してみたい。

家系は八王子千人同心

 井上源三郎は、文政12年(1829)の生まれで、近藤勇より5歳年長である。武蔵国日野宿北原(現・東京都日野市日野本町)で、八王子千人同心世話役の井上松五郎の三男であった。

八王子千人同心とは?

 八王子千人同心は、元武田家の家臣たちである。武田氏滅亡後に徳川家康の支配下にはいり、家康が関東へ移封されるに伴い、八王子地域に移り住み、甲州街道に治安を守るようになった。身分は農民ながら、帯刀が許され、剣術の稽古も盛んであった。

 井上家の先祖は、駿河今川家に属していた井上掃部頭(かもんのかみ)であり、桶狭間で今川義元が敗れた後は、武田家に仕えている。源三郎の父・井上松五郎は、八王子同心日野本郷の組頭を勤め、のち源三郎の兄・松次郎が跡目を継ぎ、松五郎を襲名した。しかし、三男である源三郎は、兄の厄介になりながら農民として生きるしかない状況だった。

天然理心流との出会い

 弘化4年(1847)、源三郎は、兄たちを追うように天然理心流三代目宗家・近藤周助の門人となっている。剣術の道を志すことで、漠然とではあるが、農民以外の人生を見つけ出そうとしていたのだろうか。翌年には目録を受け、この年、宮川勝太のちの近藤勇が周助に入門している。

努力の人・源三郎

 天然理心流では、免許取得までに平均で10年足らずかかるとされているところ、源三郎が免許を受けたのは、万延元年(1860)とされている。約13年、平均よりも遅い取得ではあったが、源三郎は諦めることなく地道に努力した。井上家に伝わる話では、「剣術の稽古ばかり熱心で、農作業がなかなか進まずに困った」とか「家の土間の柱が打ち込み稽古のために細くなっていた」とある。源三郎は日々の努力を怠らない、芯の強い人、そして何より剣術が好きだったのだろう。

新選組結成

 文久2年(1862)12月。幕府は、翌年の将軍徳川家茂上洛に伴い、将軍の警護と京都の治安維持を目的とした浪士募集を決める。

 翌文久3年2月、近藤勇はじめ、土方歳三、沖田総司、永倉新八、山南敬助、藤堂平助、原田左之助とともに、源三郎は浪士組に参加し、京に向かった。源三郎と同じ日野宿からには、沖田総司の姉・みつの夫である沖田林太郎もいた。沖田林太郎は、もともと井上家の分家の息子であり、沖田家へ婿養子に入っている。つまり沖田総司と源三郎は姻戚関係になるのだ。

壬生浪士組

 文久3年2月23日。京に到着した浪士組は、落ち着く間もなく、リーダーである清河八郎により、幕府の指揮下から朝廷の指揮下に移ろうとした。朝廷直属の部隊として攘夷を決行しようともくろんだ清河の策略であった。浪士組は、江戸へとんぼ返りすることになったが、これを良しとしなかったのが、試衛館一行と芹沢鴨一派。のちの新選組主要メンバーである。彼らは、浪士組から離脱し、京へ残ることを選ぶ。

 3月12日には、京残留組計17名が、京都守護職会津藩藩主・松平容保お預かりとなった。壬生浪士組そして新選組への道が始まる。

相談役・源三郎

 このころ源三郎は土方と共に、将軍上洛に随行していた千人同心の兄・松五郎のもとへたびたび訪れている。井上松五郎の手記によると、壬生浪士組として活動を始めると「近藤、天狗になり候て、他浪士、門人一同集まり、近藤に腹を立て」ているのだが、どうしたもんだと、源三郎や土方から相談を受けたとある。

 晴れて会津容保公お預かりとなったことに浮かれているのか、近藤が調子に乗っているというのだ。そのため他の隊士たちが不満を持っていたようなのである。源三郎は、隊内の年長者として、またその人となりから相談役に近い立場になっていたのかもしれない。

 翌年の2月には、源三郎のふるさとである日野から、村名主の富沢忠右衛門が将軍再上洛に随行した際、彼の元部下が京で暴力沙汰を起こし、新選組に連行されている。この時も源三郎は、新選組と富沢の間に入り、富沢にとって不名誉な事件を穏便に片づけている。

 穏やかで真面目、辛抱強い性格の源三郎は、新選組の中で対外的な仕事や要人の接待などを受け持つことで、副長の土方を助けていたようである。

源三郎の活躍

 源三郎は、実務だけでなく、実働隊としてもしっかりと働いている。新選組が関わった事件で最も大きな池田屋事件では、永倉新八が残した覚え書きにも登場するほどだ。

池田屋事件での源三郎

 源三郎は、近藤隊・土方隊とは別に10人の隊士を率いた井上隊として行動している。池田屋へ駆けつけたのは、土方隊と前後していたようだ。永倉の手記に、池田屋での源三郎の様子が次のように書かれている。

“井上源三郎同士拾名引連レ池田屋エ這入リ拾人の手ニテ長州人八名生捕ル井上源三郎弐階エ上リ長州人一名斬リ捨テル”
『七ヶ所手負場所顕ス』

 簡単に言うと「10名の隊士を引き連れて、池田屋へ入り、長州の浪士8名を生け捕り、源三郎は長州人1名を斬り捨てた」となる。

 永倉の別の手記『新撰組顛末記』には、「二階の梁の上を歩くものは、井上が突き刺してしまう」ともある。この働きにより、源三郎は褒賞金十両と新身料(刀を新しく買うためのお金)として別段金七両を授与されている。

 同年7月の蛤御門の変(禁門の変)では、新選組が布陣していた伏見方面から、御所の堺町御門へ向かい、永倉と共に御所内の日野邸内で長州の残兵と戦っている。

当時の人々が見た井上源三郎

 新選組が出動した先々で、しっかりと働いていた源三郎であるが、なぜか剣術の腕前はもう一つと言う評価になっているのは、新選組の生き残り隊士・川村三郎(新選組時代の名は近藤芳助)が残した言葉のせいかもしれない。川村はある書簡の中で、源三郎のことを「文武とも劣等の人なり」と評しているのである。しかし川村が入隊したのは元治元年の10月で、池田屋や蛤御門の変での源三郎は見ていない。

 新選組の屯所となっていた壬生の八木邸の人々も源三郎を「無口で、非常に人の良い人」であったと言っているところから、普段の源三郎はとても穏やかだったのだろう。年長で物静かな源三郎を見て、川村は文武ともあまり優れていないと感じたのかもしれない。

 源三郎は、池田屋で見せたような戦闘の場だけでなく、副長土方を補佐し、事務的な仕事もこなすことで新選組を支えていた。地味ではあるが、いぶし銀のような味のある幹部であり、隊士たちにとっては心のよりどころともなっていたのではないだろうか。

鳥羽伏見の戦い

 慶応元年(1865)の行軍録では、源三郎は、斎藤一と共に槍頭に任ぜられている。源三郎の実力は、この人事を見ても、確かなものだとわかる。そして慶応3年(1867)6月、新選組が幕臣に取り立てられた。源三郎も晴れて幕臣となったのである。

 しかし、新選組の絶頂はすぐに終わってしまう。同年10月には大政奉還、12月に王政復古の大号令が行われ、ここに徳川幕府は終焉したのだ。

源三郎の最期

 翌慶応4年(1868)1月3日。鳥羽伏見の戦いが勃発。

 新選組は伏見奉行所において、薩長軍と戦った。しかし薩長軍の圧倒的な銃火器の前ではなすすべなく、伏見奉行所は炎上。4日には巻き返しを図るが、会津藩らとともに新選組は、淀城まで敗走した。5日には、淀堤千両松において、激しい銃撃戦が展開される。

 銃弾の飛び交う中、果敢に戦う源三郎だったが、ついに敵の銃弾に斃れた。この戦いには、源三郎の甥である井上泰助も参戦し、源三郎の最期を看取っている。

 のちに泰助は、源三郎のことを「叔父さんは、普段は無口で温和な人だったが、一度こうと思い込んだら、テコでも動かない」と言っている。この時も、薩長軍に対し、一歩も引かず戦っていたのだろう。

 泰助は源三郎の首と刀を持ち、大坂へ引き上げるべく歩き出したが、あまりの重さに歩くこともままならず、仕方なく途中にあった寺の門前の田んぼに首と刀を埋めたと言う。

井上泰助の肖像(出典:wikipedia)
井上泰助の肖像(出典:wikipedia)

源三郎の首はどこに?

 近年になり、泰助が源三郎の首を埋めた寺の名前は、欣浄寺(ごんじょうじ)とわかった。くしくも井上家の近くにある寺の名前と同じで、泰助も何かの縁を感じて、そこに埋めたのではないかと考えられる。しかし、この欣浄寺と言う寺院は、すでに廃寺となっており、今では源三郎の首がどこに埋まっているのかはわからない。

 ちなみに、京都市伏見区墨染に欣浄寺と言う名の寺院があり、一時は源三郎の首塚があるという噂まであった。近くには近藤勇が銃撃された場所もあるため、新選組と関係があると勘違いされていたようだが、そこと源三郎とは全く関係がない。新選組聖地めぐりをするときは、どうぞ気を付けて。(ちなみに墨染の欣浄寺は、小野小町の百夜通いで有名な深草少将の邸跡である)

おわりに

 個性的で人気者ぞろいの新選組隊士の中では、目立たない井上源三郎であるが、実は新選組幹部として、そして土方の補佐としてもかけがえのない重要な人物だったのだ。

 頑固ででも優しく温厚な源三郎、やるときはやる男なのだ。新選組ファンとしては、この記事をきっかけに、井上源三郎にもっと興味を持って欲しいと願うばかりである。



【主な参考文献】
  • 前田政記『新選組全隊士徹底ガイド』(河出書房新社、2016年)
  • 菊池明・伊東成郎・結喜しはや『土方歳三と新選組10人の組長』(新人物往来社、2012年)
  • 歴史群像シリーズ『新選組隊士伝』(学研プラス、2004年)
  • 永倉新八『新撰組顛末記』(新人物往来社、2009年)
  • 『新選組史料集』(新人物往来社、1998年)

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  この記事を書いた人
fujihana38 さん
日本史全般に興味がありますが、40数年前に新選組を知ってからは、特に幕末好きです。毎年の大河ドラマを楽しみに、さまざまな本を読みつつ、日本史の知識をアップデートしています。

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