攻めと守りの要! 何もない場所に「お城」が出来るまで

お城、と聞いてあなたがイメージするものは何でしょうか? 堂々とそびえ立つ天守閣、あるいは積み重ねられた石垣かも知れません。

戦国時代になると、お城は形や機能の面で大きな発展を遂げてゆきました。戦の拠点あり、居住空間でもあったお城が「見せる」ための建物へと変わっていったのです。

戦国時代のお城が建つまで、一体どのような軌跡を辿ったのでしょうか。ここでは築城の開始から終わりまでを見ていきたいと思います。

お城の候補地選び ─ 地選と地取 ─

築城の最初の段階で行われるのが地選(ちせん)という作業でした。これは目的に応じてお城をどこに築くのか、候補地を決める作業になります。

戦を行うための前線基地ならば街道沿いに、大名の居城であれば人口密集地に近い要害の土地に定められました。このほか、政庁や一国の統治を兼ねる政治的な城では、文化、経済の中心にもなり得る土地が選定されました。

次に地取(じどり)が行われます。

地取は、地選によって定めた地域の中に、築城する城の範囲と規模を詳細に詰めていく作業です。この地選と地取は、ほとんど一体化しているお互いに密接不可分な作業でした。実際に築城が始まる前の作業なので、候補地の調査活動も含んでいます。

お城の設計作業 ─ 縄張 ─

三番目が縄張(なわばり)といわれる城の設計作業となります。

この工程で曲輪の配置、広さや形状、堀・石垣・土塁などの位置が決められていきます。合戦時の防御だけでなく、流通経済の面も考慮され、さらには城下町の町割も重要な作業でした。これは実際に土地に縄を張って作業を行なったことから、この名前が付いたと言われています。

縄張のイメージ

縄張は、城が十分に機能するか否かの大切な要素でした。名城と呼ばれる城は、例外なくこの縄張がしっかりしています。縄張はその多くが城主自ら案を練るか、築城家として著名な武将や兵法家に依頼していました。

例えば、武田信玄に仕えた山本勘助は縄張の名人として知られています。難攻不落として知られる信濃国の小諸城は、勘助の縄張によるものでした。

縄張の作業には、単純な要塞建築の軍事的能力だけでは足りません。都市計画の側面もあるために、一定以上の政治能力が求められました。

城郭建築 ─ 普請と作事 ─

土工事と石工事の普請

四番目は「普請」という段階に入ります。これは縄張に基づいて行われる土木工事の総称です。山を切り盛りして、平坦地になるように突き固める曲輪の造成、さらには堀の掘削工事、土塁の構築作業を行いました。

これらの土工事を行なった後、石垣工事を実施していきます。ここまでが普請の範囲となり、多数の労働力を必要としていました。土工、石工の熟練者が動員され、大きな労働力が投入されました。

石積みの集団として知られるのが「穴太衆」です。彼らは近江国の穴太というところに居住した石工集団でした。安土城の石垣普請で活躍し、以降注目を浴びるようになります。一説には、近世の城郭の石垣普請の約8割に穴太衆が関わったとされるほどでした。

滋賀県大津市坂本にある穴太積の石垣
※参考:滋賀県大津市坂本にある穴太積の石垣(出所:wikipedia

建築技術の粋を集めた作事

五番目が「作事」という段階になります。

専門の職人により、曲輪や土塁の上に建築作業を施します。作事は、天守や櫓、門などの上屋構造物を建築していく工程です。そこに携わる職人は、主として大工の集団でした。

例えば天守の構築には、宮大工の熟練者が当たったと言われています。尾張熱田の宮大工であった岡部又右衛門がその一例です。彼は足利将軍に番匠頭として仕えるほどの大工の名門でした。清洲、小牧山、岐阜、安土などの作事も行なっています。

大和の工匠・中井正清も、戦国時代の終わりから江戸時代初期に作事で名を馳せた大工です。徳川家康に仕え、江戸、駿府、大坂などの作事に従っています。彼は大工でありながら知行一千石を受け、従四位下に任官されるなど活躍しました。子孫は代々徳川家に仕え、京都所司代に属して大工の支配頭となっています。

中井正清の肖像
※参考:中井正清の肖像


以上のように、関わった大工の棟梁の中には、歴史に名を残した者たちがいます。

作事に携わる職人は主として大工でしたが、他の職人たちも動員されています。建造物の大部分には土壁が用いられたので、左官職の技術者や、瓦師、金物師、彫刻師、絵師なども参加ました。ある意味で、総合芸術的色彩が濃い建造物であったと言えます。

中世と近世の城の築城

築城される戦国の城でも、中世と近世でその特徴や趣は違ってきます。

まずは城の堀。中世の城は地形の関係で水が得られないことが多々あり、空堀が多い傾向でした。そのため、日本に残る城の水堀はほとんどが近世大名の居城の堀です。

中世は土造りの城が多く、大規模な土木工事によって山頂部を改造し、切岸や堀切、竪堀などを防御施設としていました。建造物は城下を見張る櫓や倉庫など、掘立柱の簡素で臨時的な建物が中心です。臨時的な軍事施設だったために、板葺きの屋根が多かったとされています。

近世は石造りの城が多数を占めていきます。石垣や石段で城全域を覆ったものです。高さは平地でも防御力を高めるため、十数メートルの石垣も築かれました。

建造物は礎石を用いた高層建造物が建てられ、天守は権威誇示のために飾り立てられていました。屋根は寺院等に用いられた瓦葺きが取り入れられ、金箔や家紋で装って権威の象徴とされています。

築城には膨大な時間と金がかかる

一つの築城に三年必要

築城には、どれほどの時間がかかったのでしょうか。まずは信長の安土城を例に見てみましょう。

安土城は、天正4年(1576)から普請が始まり、およそ一年で大部分が完了しています。作事はそこから始まっています。天正7年(1579)に信長が天主(安土城はこの表記)に移り住んだ記録があるので、天主の建築には約2年がかかったことになります。

安土城の5・6階部分の復元天守「安土城天主 信長の館」
※参考:安土城の5・6階部分の復元天守「安土城天主 信長の館」

名古屋城の築城にも、ほぼ同等の時間がかかっています。普請に1年、天守建築に約2年です。築城期間の約3年という時間は、ほとんど一般的と言えるでしょう。

もっとも、短期間で築城できた例も一応存在します。

朝鮮出兵の前線基地・肥前名護屋城はわずか8ヶ月という速さで築城されました。名護屋城は中世の簡素な城ではありません。五重の天守を持つ大城郭で、城下町は巨大都市に発展を遂げるなど、政治の中心にもなりました。つまり、どれだけ早くとも築城に1年前後はかかるようです。

築城の総工費は5兆円!?

築城するにあたり、先立つものは予算です。築城の総工費は現代換算でどれくらいかかったでしょうか?

築城するための費用には、必要物資だけでなく、人件費もかかります。動員する人夫には、決まった賃金が支払われました。決して強制的に働かされた、という者ではなかったようです。

幕末になりますが、北海道の松前城は15万両の金がかかったといいます。これは現代の金額換算で60億円になります。現代の城郭の再建計画も参考にしていきます。

名古屋城の天守閣を木造復元する計画があります。こちらの総事業費は505億円が計上されました。それより前に本丸御殿の木造復元に150億円がかかっています。つまり建造物だけで655億円は少なくともかかっていることになります。

豊臣秀吉の大坂城は、それ以上の予算がかかっていました。大坂城の総工費は約780億円かかっています。周囲四方2キロの工事を含めると、かかった金額は約5兆円に上ったといいます。

歴史的な大城郭であれば、建造物だけで数百億円かかることは確実だったようです。この予算を捻出する大前提として、よほどの経済力が必要となりました。

おわりに

お城が出来るまでには、専門的な工程と膨大な資金、年月がかかります。それらを最大限に圧縮するため、築城の名人と言われる武将たちが活躍しました。代表的な人物が、馬場信春、加藤清正、藤堂高虎の3人です。

武田四天王の一人である馬場信春は、画期的な縄張の城を築いたことで知られています。港町との連携を重視した江尻城、当時では珍しい平城の田中城などがそれです。

加藤清正は石垣作りの名人。熊本城における、扇の勾配と呼ばれる美しい石垣は多くの人々を魅了しました。

藤堂高虎は層塔型天守を考案した人物です。幅の広い堀、高い石垣といったスタンダードな城の基本形を造ったことで知られます。高虎は天下普請における江戸城改築でも活躍しました。

城は単なる防衛施設や城主の居住空間ではありませんでした。人々の生命と財産を守り、その時代の技術と知恵が詰まった究極の芸術作品であったのです。



【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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