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戦国の悲恋 武田信玄の息女・松姫の生涯とゆかりの地
- 2023/03/23
武田信玄の五女(四女とも)である松姫は、永禄4年(1561)に油川氏の娘を母として生まれた。この時41歳であった父・信玄は川中島の戦いで上杉謙信と合戦を繰り広げていたという。
6歳になった松姫は織田信長の嫡男である信忠と婚約。手紙や贈り物のやり取りをするなど心を交わしていたが、元亀2年(1571)に母を亡くした悲しみも癒えぬなか、元亀3年(1572)に武田信玄が徳川家康の領地に攻め込み、織田信長らが徳川軍に援軍した「三方ヶ原の戦い」をきっかけに婚約破棄。松姫と信忠は一度も会うことのないまま、別れ別れになってしまった。
元亀4年(1573)4月12日、父・信玄も52歳で病没。「3年死を隠すように」と命じた信玄であったが、上杉方や織田方にはそれとなく伝わっていたとされる。
天正10年(1582)、武田家滅亡を目論む織田信長。松姫のいた高遠城を攻めるための軍を率いていたのはかつての許嫁・信忠だった。実兄・五郎盛信の娘を連れて、少ない供とともに高遠城から逃れることとなった松姫。辿り着いた韮崎の新府城では、兄・勝頼の娘と人質であった小山田信茂の娘も連れて逃げることとなった。
高遠城、新府城、甲府の入明寺、塩山の開桃寺、塩山の恵林寺、塩山の向獄寺を経て、武田の残党狩りが厳しくなるなか、武蔵八王子の金照庵という古寺まで幼い姫たちを連れて逃げ延びた松姫は、その後、金照庵で自ら汗を流して農作業をして働き、幼い姫たちに学問を教えたという。
しかし、同年6月2日の本能寺の変によってかつての許嫁・織田信忠も父・信長とともに命を落とすことなる。それは織田軍が武田を滅ぼしてから3月も経たぬ頃の出来事だった。
その後の松姫は八王子の心源院で出家し、「信松尼」となって武田一族を信忠の菩提を弔ったと伝えられる。尼僧となった松姫は大久保長安の配慮により八王子の信松院の開基となり、得意であった絹織物の技術を伝えたとされ、人々に慕われながら元和2年(1616)に56歳で亡くなっている。
信松尼にとって実の兄とかつての許嫁が戦う場となった高遠城。実は信松尼と高遠城の縁は、もう1つある。
2代将軍徳川秀忠と妾・お静の子の幸松(のちの保科正之)は、大奥ではなく姉・見性院や信松院の庇護を受けて出産、養育されたと伝わる。幸松は7歳の時に見性院の縁で信州高遠藩保科家の養子となり、将軍の子を養子に迎えた高遠藩は、親戚から預かっていた左源太や藩主保科正光の弟正貞を廃嫡とした。
21歳のときに養父・保科正光の逝去によって高遠藩主となった保科正之はその後、山形藩20万石を拝領、会津藩23万石と大身の大名に引き立てられ、幼少の4代将軍家綱の後見として幕政にたずさわった。
明暦の大火後の江戸の再建に努め、幕府から松平姓を名乗るように言われても保科家への恩義から保科姓を名乗り続けたという。
▼参考文献
柴辻俊六『甲斐武田一族』新人物往来社
野沢公次郎原案・監修 高橋まさみ作・画『歴史漫まんが武田信玄と松姫』
▼参考サイト
信松院HP https://shinshouin.or.jp/
長野伊那谷HP 高遠城物語 https://www.inadanikankou.jp/special/page/id=915
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