※ この記事はユーザー投稿です
日本版シンデレラ? 5代将軍 徳川綱吉の母・桂昌院
- 2024/03/22
3代将軍・徳川家光の側室であり、徳川綱吉(5代将軍)の母となった桂昌院(けいしょういん)は、日本版シンデレラと言われる女性です。京都の「八百屋の娘」から、大奥入りして将軍の母となり、当時の女性としての最高の地位に上りつめました。
「玉の輿」というのは、本名が「玉」という桂昌院から生まれた言葉と言う説もあるほどです。ということで、今回はこの桂昌院についてご紹介しますね。
「玉の輿」というのは、本名が「玉」という桂昌院から生まれた言葉と言う説もあるほどです。ということで、今回はこの桂昌院についてご紹介しますね。
桂昌院は京都出身
寛永4年(1627)京都の大徳寺付近で誕生。『徳川実紀』によれば、父は関白・二条光平の家司の北小路(本庄)太郎兵衛宗正となっていますが、実際はもっと低い身分の出身だといわれています。京都人はこういうことにうるさいですから、桂昌院の生前から噂があったのは当然でしょう。西陣織屋の娘、畳屋の娘という説、北小路宮内が「久しく使ふ高麗人の女」に産ませた、はたまた大根売りの妹、そして後の時代の『玉輿記』には、父は八百屋の仁左衛門で養父が北小路太郎兵衛宗正という説もあります。
いずれにしても、将軍の母にふさわしいとはいえない出自なのは確かですね。
お万の方の部屋子からお中臈に
桂昌院が、どうやって江戸城大奥に入ったかといえば、父の死後、母が桂昌院を連れて、公家の二条家家司本庄太郎兵衛と再婚したのがポイントです。桂昌院は、公家に仕える侍だった継父のコネで、3代将軍・家光の側室となった公家の六条有純の娘「お万の方」の部屋子となるために江戸城入りしたのですね。
その後は、春日局の目に留まり、指導を受けて将軍付きの御中臈→側室となって、正保3年(1646)1月に綱吉を産んだのです。
息子の綱吉を学問好きに育てる
桂昌院が生んだ綱吉は4男だったので、本来ならば将軍になれない「ご連枝」という身分でした。桂昌院は、家光の教えで、「綱吉が将軍職になりたい」という野心を持たないように、長幼の序とかをみっちり覚えさせるために儒学の勉強をさせたということです。
そういうわけで、綱吉はかなり勉強好きに育ちました。しかし長兄の家綱(4代将軍)が後継ぎなくして亡くなり、次兄は夭折、3番目の兄・綱重も先に亡くなったことで、綱吉に将軍の座が回ってきたのは皮肉なことです。
家光没後、桂昌院と綱吉は江戸城に意気揚々と戻って来ることになりました。
生類憐みの令に関与
しかし、将軍となった綱吉は子供に恵まれず、夭折した息子と、紀伊家に嫁いだ鶴姫の2人しか生まれませんでした。このため、桂昌院が帰依した隆光という僧が、「生き物を大事にすれば後継ぎが授かる」とアドバイスし、生類憐みの令というのができたというわけです。最近では生類憐みの令は、隆光が江戸へ来る以前とされているようですが、桂昌院が関与した方が、説得力があるような気がします。
各地の寺院や神社に寄付しまくる
桂昌院は、自分の出世を信仰のおかげとして、京都の地元の寺院や神社の、再建、再興に尽力し、気前よく徳川家の金銀を使ったということです。このために桂昌院は「浪費家」とされていましたが、最近では応仁の乱や戦国時代以来荒廃していた神社仏閣の復興の功労者として評価されているということです。
兄弟は大名に出世
なお、綱吉が将軍連枝として舘林藩主になったとき、桂昌院の異父兄弟は綱吉に仕えて幕臣となりました。そして綱吉が将軍に就任後は、旗本から1万石から4万石の大名へ成り上がったのです。なんと!松平の名字を名乗ることも許されたのですが、こういう、身内の女性のおかげで大名となると「蛍大名」とちょっと蔑んでいわれるようです。
まとめ
桂昌院お玉は、京都の庶民の生まれでした。そして母が公家侍と再婚したために継父のコネで、公家の娘が江戸城大奥へ入ったあと、身の回りの世話をする女中に声がかかって大奥入りしました。その後、春日局に目をかけられて3代将軍家光の側室となって生んだ綱吉が将軍となり、将軍母として江戸城大奥で君臨するようになったのです。
桂昌院は、宝永2年(1705)6月に79歳で死去しましたが、将軍綱吉は、母桂昌院に朝廷から女性最高位の従一位の位まで授けてもらったほどの孝行を尽くしたのでした。
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄