第一回帝国議会開院、日本の民主主義はここに始まった

『国会会議之図』(楊洲周延 画、出典:wikipediaより)
『国会会議之図』(楊洲周延 画、出典:wikipediaより)
 明治23年(1890)11月29日、第1回帝国議会開院式が行われ、日本の民主主義は曲がりなりにも発足しました。

我々の代表が国政に参加する

 明治維新から20数年を経て開院する事になった帝国議会。とはいっても選挙権を持っているのは直接国税15円以上を納めている満25歳以上の日本国籍を持つ男性に限られ、被選挙資格も上記資格プラス満30歳以上の男性、とこちらもかなり限られたものでした。おまけに貴族院などという、選出基盤が国民にない議員も存在しました。

 しかしともかく、自分たち国民が選んだ代表が直接この国の政治に参加できる、このインパクトは大きく、幕末明治から続いて来た日本の “政治の季節” は一つの結果に辿り着きます。

街はお祭り騒ぎ

 本当に自分たちの代表がお上にものを言える日がやって来たのだ。

「東京では大通りから町内の細路地に至るまで “祝国会” の文字に日章を描いた提灯や国旗を軒ごとに掲げるにぎにぎしさ。行き会う人々も祝賀の言葉を述べあい、町内では懇親会や祝賀会を開いて喜び合い、花火を上げ餅を撒き幻灯会を催しと思い思いに趣向を凝らして祝った。また公私小学校もおおかたは休校し、生徒は教師に引率され議事堂見学を目指し、人として喜色あらざるは無く、家として和気あらざるは無し」

 これは『東京朝日新聞』の明治23年(1890)11月30日付の記事ですが、文の最後は「天下泰平、国会万歳」で締めくくっています。

 東京以外でも各地で “国会祭り” は開かれました。こちらも提灯を連ね、山車まで引き回され、花火も上がりと、東京に負けない騒ぎになりました。

 肝心の現千代田区霞が関一丁目、当時の麹町区内幸町二丁目の議事堂周辺は、人々が押し寄せて混乱する恐れがあったために憲兵が配され、新聞記者など一部の人間を除き、通行禁止にされてしまいます。

議会開院までの道のり

 嘉永6年(1853)の黒船ペリーの来航以来、幕府の意識も変わってきました。老中の阿部正弘は、大名や旗本に対し、今後の外国への対応について広く意見を求めます。

 今までの徳川体制にはなかった幕府の態度に当初は戸惑った人々も、やがて自分たちの事として政治問題を話し、行動するようになっていきます。一般国民の政治への参加、すなわち“公議・公論”と言う理念は “尊王攘夷” と共に、明治維新を引き起こす原動力となります。

 坂本龍馬は慶応3年(1867)に新しい国家構想を考えた”船中八策”で、

「上下議政局を設け議員を置き、万機を参賛(さんさん)せしめ、万機宜しく公議に決すべき」

と書いています。明治元年(1868)に明治天皇が発せらた詔『五箇條の御誓文』にも

「広く会議を興し、万機公論に決すべし」

とあります。元ネタは龍馬の船中八策じゃないかと言われていますが。

 このように維新の前後から、広く意見を戦わせる公開議場としての議会を創設する気運は活発になって行きました。

板垣も後藤も福沢も頑張った

 これらの流れの中でもっとも活発だったのは自由民権運動です。明治7年(1874)1月17日、板垣退助や後藤象二郎らは民選議院設立建白書を政府に提出します。明治政府を専制政府だと批判し、納税者の代表による民選議院の設立を迫ります。

 福沢諭吉の『国会論』は、『郵便報知新聞』での連載を経て出版されますが、おりから新聞や雑誌などメディアの発達と相まって、その全国的反響は福沢本人の予想をはるかに超えるものでした。

『福沢諭吉著作集』でのちに本人が回想しています。
「図らずも天下の大騒ぎとなり、秋の枯野に自分で火を付け自分で当惑するように怖くなった」
『福沢諭吉著作集』より

第1回帝国議会召集、議長を決めねば

 明治23年(1890)11月25日、第1回帝国議会が召集されます。議会開会前に議長や議席を決めなければなりません。もっとも貴族院議長はすでに決定していました。内閣総理大臣山県有朋は、枢密院議長を辞した伊藤博文に貴族院議長を引き受けてくれるよう頼みます。

 山県にすれば一般人の代表である衆議院がどのように運営されるのか見当がつきかねる中、せめて貴族院は知った間柄である伊藤に任せたかったのです。最初、伊藤はこれを拒否しますが、山県だけでなく明治天皇まで伊藤を説得してようやく承諾、10月24日に貴族院議長に伊藤博文が選ばれます。

 問題の衆議院議長ですが、まず3名の候補者を互選し、その中から勅選、すなわち天皇が選ぶと議員法に決められていました。当時はマイクなど無く、議長は声を張り上げねばなりませんし、広い議場での振る舞いに慣れた者など数えるほどしか居ません。300余りの議員が我こそは雄弁を振るわんと待ち構えていましたから、議場内はやかましく騒然とした状態でした。これを仕切れる人物が求められます。

 議長候補者選出は午後1時ころから始まり、決定したのは午後11時30分ごろです。仮議長を務めた曽禰荒助(そねあらすけ)は「議長席に着せしまま食事・用便にも立たず、ほとんど10時間ひと時も椅子を離れず、議長投票監視整理の任を果たした」と述べています。結局、翌日26日になって、初代衆議院議長に立憲自由党弥生倶楽部の中島信行が選ばれました。

開会

 明治23年(1890)年11月29日、貴族院本会議場で開院式が行われました。臨席された明治天皇から勅語が発せられます。

「明治24年度の予算及び各般法律案は、朕これを国務大臣に命じて議会の議に付し、公平慎重を以って審議協賛する所あることを期し、併せて将来につぐべき模範をのこさんことを望む」

とのお言葉です。

 12月1日には貴衆両院の内部規律を定めた『議員通則』が制定され、貴族院での全院委員長には細川潤次郎が、衆議院の全院委員長には河野広中が選出されます。そのほか予算委員や懲罰委員の常任委員も選出され、帝国議会は着々と体制を整えて行きました。

おわりに

 日本が開国した当時、清や朝鮮を始めアジアの国々は欧米列強の圧迫を受けていました。近代化が遅々として進まぬアジアの諸国の中、日本だけが維新後20数年で国民議会を開くことが出来ました。


【主な参考文献】
  • 村瀬信一『帝国議会 〈戦前民主主義〉の五七年』(講談社、2015年)
  • 久保田哲『帝国議会 西洋の衝撃から誕生までの格闘』(中央公論新社、2018年)

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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