石田三成所用の甲冑解説!トレードマークは乱髪兜
- 2022/07/29
歴史上の人物への評価や人気というものは、時代ごとやそれをテーマにした創作などの登場で変動することが知られています。そんななかでも、現在進行形で人気度がアップしていっている戦国武将の一人が「石田三成」ではないでしょうか。いわずと知れた豊臣方の智将で、事務能力に秀でた新しい文治タイプの武将としても有名です。
ですが、関ヶ原合戦では西軍として徳川方の敵となったため、後世の創作ではあまりよいイメージで語られることのなかった人物かもしれません。豊臣家中でも他の重臣たちとの対立を招いたこともあり、武功によって立身した叩き上げの武将とは異なる、経理担当者としての立場も影響していることでしょう。
しかしながら、秀吉の死後も最後まで豊臣家のために戦った、忠義の士としての姿から近年その人気が上昇し続けています。戦乱の世を経て、平和な時代の到来を見越した時にこそ、三成のような人材が必要とされたのでしょう。
本コラムでは、そんな石田三成の甲冑についての話題をお届けします。まだ不明なことも多く、伝承の域を出ない点も多々ありますが、分かっていることをなるべく丁寧に遡ってみることとしましょう。
ですが、関ヶ原合戦では西軍として徳川方の敵となったため、後世の創作ではあまりよいイメージで語られることのなかった人物かもしれません。豊臣家中でも他の重臣たちとの対立を招いたこともあり、武功によって立身した叩き上げの武将とは異なる、経理担当者としての立場も影響していることでしょう。
しかしながら、秀吉の死後も最後まで豊臣家のために戦った、忠義の士としての姿から近年その人気が上昇し続けています。戦乱の世を経て、平和な時代の到来を見越した時にこそ、三成のような人材が必要とされたのでしょう。
本コラムでは、そんな石田三成の甲冑についての話題をお届けします。まだ不明なことも多く、伝承の域を出ない点も多々ありますが、分かっていることをなるべく丁寧に遡ってみることとしましょう。
有名な「乱髪天衝脇立兜」。でも、実際に着用したかは不明?
石田三成の甲冑といえば、これをイメージされる方も多いのではないでしょうか。黒い毛髪状の飾りに、天を衝くような大きな脇立を備えた兜。黒く精悍な雰囲気を醸し出す鎧。ともすれば文弱な戦下手、という武将らしからぬ三成のイメージを払拭してあり余る、実に猛々しい威容です。豊臣の守護者として相応しい、いわば石田三成の最終決戦装束として強烈な存在感を放っています。
この兜には「乱髪天衝脇立兜(らんぱつてんしょうわきだてかぶと)」の名が付けられ、「関ヶ原町歴史民俗資料館」がその復元品を所蔵しています。三成の装備品としてあまりにも有名になったこの兜ですが、復元にはどのような経緯があったのでしょうか。
実はこの乱髪兜、NHK大河ドラマの『葵 徳川三代』(2000年)の制作にあたり、「彦根藩・甲冑史料研究所」の協力により復元されたものだったのです。オリジナルは三成ゆかりのものと伝わっていますが、実際に関ヶ原合戦などで着用したかどうかは定かではないそうです。
それにしても、もしこの兜をかぶった出で立ちの三成が実在したとすれば、実に堂々たる武者振りであったことでしょうね。
「紅糸素掛威伊代札二枚胴具足」
ドラマで有名になった乱髪兜の以前には、三成の甲冑といえばこの「紅糸素掛威伊代札二枚胴具足」がイメージされたようです。鎧を構成する「小札(こざね)」という小さな長方形の鉄板を、紅色の糸で粗く菱形に綴じてあり、胴の部分は前後2パーツでできていることを示した名称です。
「伊予札(いよざね)」とは伊予(現在の愛媛県辺り)の鎧職人が考案した小札のことで、糸で綴じるための穴が端の方にあり、縁辺に切り欠きを設けて鎧全体に使用する枚数を少なくできるように工夫したものとされています。
この甲冑は紀州藩砲術指南役の宇治田家に伝わっており、関ヶ原で三成が身に着けていたものを浅野幸長から拝領したものとされています。
紅糸は変色していますが、全体にシンプルで品のよい造りをしており、兜は「阿古陀形(あこだなり)」といって頭頂部をやや平たく、後頭部をややふくらませた形状となっています。これは頭と兜との間に空間を設けることで衝撃を和らげる工夫で、直接の接近戦をも辞さないという三成の覚悟の表れともとれるでしょう。
前立には金銅製の小さな日輪があしらわれ、脇立は現存していませんが兜の両側には取り付け用の金具があることから、本来は立物があったことをうかがわせます。
もしもドラマでよく見るような、天を衝く大脇立を備えていたとしたら、実に壮観な姿であったことでしょう。
謎の多い、武将としての石田三成
三成ほどのネームバリューがありながら、その事績や逸話、使用した武具などの一般的なイメージが史実通りかどうか分からないという武将は、意外なほど多いのです。それというのも、関ヶ原合戦で三成が属したのは豊臣方の西軍、つまりは「敗者」の側です。戦で負けるということは、最後に身に着けていたであろう甲冑なども、非常に残りにくい状態となることが考えられます。
伝承では、敗走後に潜伏していた三成は木こりの変装をしていたとされ、切迫した逃避行であったことがうかがえます。無論、そのような状態でいくつもの装備品を完全な形で携行できるとは考えにくく、また、捕縛された三成は切腹ではなく打ち首という形で刑死しているため、一層その遺品が残りにくかったのではないでしょうか。
冒頭の乱髪兜は、メディア作品などでの強い影響力を示す好例ですが、三成の人気を高める大きな原動力のひとつになっているともいえるでしょう。
死の直前に差し出された干し柿を、「痰の毒」だからと口にしなかったという有名なエピソードがありますが、これは最後の最後まで「生」を投げ捨てないことで豊臣家への忠義を示したものとされています。
自家の存続が優先される世にあってなお、敗者としての苛烈な生き様を選んだ三成は、戦国最後の忠臣といっても過言ではないでしょう。
【主な参考文献】
- 中日新聞(CHUNICHI Web)「三成の甲冑お目見え 長浜城歴博の展示替え」(2009年10月27日)
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