武田信玄所用の甲冑解説!あの白い毛の兜って何?
- 2020/08/09
戦国史を語るうえで決して無視することのできない巨星、「武田信玄」。「甲斐の虎」の異名をとり、「軍神」とまで呼ばれる英傑です。軍略と内政に秀で、特に騎馬武者の部隊は戦国最強の呼び声も高く、戦国時代なかばから終わり近くにかけて、もっとも名を馳せた武将の一人といえるでしょう。
人気の高さに比例するように、講談や創作の世界でも度々題材にされることから、ある種の「信玄像」が出来上がっているとも言えますね。そんな中には史実とは異なるエピソードも見受けられますが、本コラムでは信玄所用とされる印象的な甲冑にフォーカスしてみましょう。
人気の高さに比例するように、講談や創作の世界でも度々題材にされることから、ある種の「信玄像」が出来上がっているとも言えますね。そんな中には史実とは異なるエピソードも見受けられますが、本コラムでは信玄所用とされる印象的な甲冑にフォーカスしてみましょう。
肖像画に見る信玄の装備
武田信玄の軍装を一度思い描いてみてください。どうでしょうか。おそらく手には軍配を持ち、白い毛をまとった兜をかぶり、甲冑の上に緋の衣と袈裟を身に着けた姿をイメージされるのではないかと思います。「信玄といえばこの鎧」という装備は、いくつかの肖像画で確認することのできるインパクトのある武威を備えています。
「信玄」という僧名が示すように出家した法師武者の姿で描かれることが多く、戦国武将に多い敬虔な仏教徒としての側面も強調されています。
ただし、イエズス会の宣教師であるルイス・フロイスが『日本史』に記述しているように、それは仏法の加護をもって武運を祈るという武神信仰の発現と捉えられていたようです。同著でフロイスは信玄のことを、「織田信長をもっともおそれさせた」「部下の尊敬を集めているが僅かな失敗すら許さない」など、峻厳で畏怖すべきカリスマとして描写しています。
肖像に描かれた信玄が醸し出す無類の威容は、そういった事実に裏打ちされたことなのかもしれませんね。
信玄の鎧は戦国のオールドタイプ
肖像からは衣と袈裟に隠れて全容がわかりませんが、信玄の鎧について考察してみましょう。まず、信玄が現役時代を生きた当時の背景から、ある程度は鎧のスタイルを推測することが可能です。源平合戦の頃は騎馬武者同士の一騎打ちが花形であり、甲冑は主に騎馬上で敵の矢を防御することが第一義とされました。これを「大鎧(おおよろい)」といい、肩全体を大きく守る長方形の「大袖」と呼ばれるシールドが特徴的です。
兜の脇にも「吹返(ふきかえし)」と呼ばれる大型の防護板が設けられ、いずれも一対一での射撃戦で防御力を発揮したと考えられています。
ところが時代が下り、やがて一騎打ちから集団戦へと戦闘スタイルが変遷していくのに伴い、重厚で動きが制限される大鎧よりも、軽快で機動性のある甲冑が求められるようになります。
そこで多用されるようになったのが「腹巻(はらまき)」や「胴丸(どうまる)」といったスタイルの甲冑で、これはもともと軽装歩兵の装備だったものを上級武士も着用するようになったものです。
さらに軽快で鉄砲の弾にも対処することを前提とした「当世具足」が安土桃山時代に登場すると胴丸鎧は衰退しますが、信玄が最盛期を生きた頃はまさしく胴丸が用いられていた時期といえるでしょう。
肖像に見られる信玄の甲冑は、大鎧に比べると小さい吹返の兜にやや大型の袖、下半身を守る「草摺(くさずり)」の細分化といった特徴を確認することができます。大鎧と当世具足との中間的な形態とも言い換えられるこの装備が、信玄の生きた時代のスタンダードだったのです。
兜の白い毛は超貴重品だった!
信玄の兜では、白い毛のようなものがたくさん付いたものが有名かと思います。自身の豊かな白髪を外に垂らしたものと勘違いされることもあるようですが、法師武者の姿ですと剃髪していることもあり、これは兜の飾りであることがわかります。この毛の材質は「ヤク」というウシ科の動物の尾であり、なんとインドやパキスタン、中国の一部やチベットなどにしか生息していません。つまりは舶来の輸入品であり、とても貴重な素材でもあったのです。
日本ではこのヤクの尾毛が武具飾りなどに珍重され、徳川家康もこの素材を用いた兜を「過ぎたるもの」と称されたことが有名です。
信玄の兜のビジュアルとしてよく知られる、前立に鬼面の付いた兜は「諏訪法性兜(すわほっしょうのかぶと)」と呼ばれ、諏訪大社の神官である守矢家に伝えられたものとされています。制作年代や後世の修繕などを考慮すると、実際に信玄が身に着けたかどうかは定かではないとされますが、いずれにせよ見る者に強いインパクトを与える武威を秘めています。
甲斐の国力を示す甲冑
最後に、信玄の兜に象徴される「甲斐」という国の力について触れ、まとめとしたいと思います。甲斐の国は現在の山梨県のあたりであり、元来は海に面していない領地でした。やがて信玄は東海道沿いの駿河(静岡県の一部)を支配下に置きますが、海を介した流通経路を確保するということは大きなアドバンテージとなったのです。
ましてや、兜飾りのヤク毛は海外からの輸入品であり、どういった経緯で入手したのであれ所持していることそのものが経済力と交通網の掌握を他国に見せつけることになったと考えられます。
豪奢な貴重品というだけではなく、一国の力量を示威するためにも絶大な効果をもたらしたのではないでしょうか。そんな信玄の兜は単なる個人の防具にとどまらず、まさしく「国の守り」として機能したのかもしれませんね。
【参考文献】
- 『歴史群像シリーズ【決定版】図説・戦国甲冑集』監修・文 伊澤昭二 2003 学習研究社
- 『完全保存版 甲冑・刀剣のことから合戦の基本まで 戦国武将 武具と戦術』監修 小和田泰経 2015 枻出版社
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