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【やさしい歴史用語解説】「使番」
- 2022/03/24
「戦いに参加せずに、なんで馬に乗って走ってるの?」と不思議に感じる方も多いはず。あれは「使番(つかいばん)」という役目を持った武士なのです。
百足(むかで)の旗で有名な武田軍の伝令部隊「百足衆」や、「伍」の旗を背負った徳川の伝令などが有名ですが、使番とは本陣と各部隊の間を行き来し、意思疎通や命令伝達を主たる任務としていました。あるいは戦陣へ馳せつけて味方を鼓舞することもあったとか。
その活躍範囲は合戦だけではありません。平時には与力の国衆・土豪との折衝役となったり、他国との外交交渉を担ったりするなど、単に戦いが強いだけでは務まらない役目だったようです。
使番出身の武将といえば、真田昌幸・春日虎綱・服部正成などが挙げられ、武勇のみならず知勇にも優れていることが条件でした。
織田信長の親衛隊というべき赤母衣衆・黒母衣衆もまた、使番としての役目を果たしています。彼らは優れた武勇を持ちつつも信長の手足として動き、その覇業を支えました。前田利家・佐々成政・金森長近などが知られていますね。
さて合戦が無くなり、江戸時代になっても使番は幕府・番方の職制として残ります。
その役目はむろん将軍の指令を受けて、各地へ上使として派遣されることでした。江戸開府直後の人数は25人程度とされ、さらに幕末期には112人を数えたといいます。
とはいえ幕藩体制の下では、将軍から直々の指令など滅多にありませんから、基本的に巡察や行政指導が主な役目となりました。
例えば将軍代替わりの際に諸国を巡見してみたり、あるいは天領の目付として派遣されていたようです。また駿府目付となって年間100日に限って駿府や甲府へ出張し、行政監督にあたることもありました。
こうした巡見役となった使番を迎える際、地域では様々な対応を迫られたといいます。
まず使番の派遣が決まると藩の指示に基づき、大庄屋が使番の動向を各村落へ知らせ、村々に周到な準備をするよう手を回しました。また地域ごとに問答集を準備することもあったとか。藩政の問題点が幕府へ伝わる恐れがあるため、藩の指示通りに回答させるように仕向けていたそうです。
なお、使番の変わった役割として、火事が多かった江戸で火消働きに従事したことでしょうか。自ら大名火消を率いてみたり、火事の状況を幕閣へ報告するなど、かなりフレキシブルな活動をしていたようです。あくまで彼らの任務は「報告」にありましたが、時として実行部隊としての役割も期待されていたのでしょう。
ちなみに平均的な家禄は1千石程度で、これは中堅どころの旗本にあたるでしょうか。幕府若年寄の配下として置かれ、江戸城菊之間御襖際で詰めていました。
とはいえ、彼らの終着点は使番ではありません。あくまで通過点に過ぎず、ゆくゆくは目付。そして奉行職といった栄誉を目指していたのです。
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