「東郷平八郎」日本海海戦の成功の秘訣は過去の失敗からの学びだった!?
- 2022/10/17
迎え撃つ日本の連合艦隊は、ここで奇策に出ます。敵艦隊の眼前で、Uターンに近い転回運動を行い、バルチック艦隊の先頭を「T」の字の横棒のようにおさえ込む陣形をとったのです。この時の、敵前での大胆なUターンは、のちに「トーゴーターン」と呼ばれることになります。
このターンに失敗すれば、日本艦隊のほうこそ隊列が乱れ、壊滅させられかねない危険な行動でした。しかし訓練されつくしていた連合艦隊はこのターンを見事に完了させ、バルチック艦隊に対して有利な配置をとります。結果として、日本海海戦は連合艦隊の大勝利となりました。
この時の敵前Uターンを判断し指示したのが、「トーゴーターン」の由来ともなった、東郷平八郎(とうごう へいはちろう)です。
日本海海戦の華やかな勝利で知られるこの人物、一体どのような生涯を送った人だったのでしょうか? それを追うと天才的な閃きの賜物と思われがちな「トーゴーターン」が、彼の失敗経験から生み出された綿密な知恵の賜物であった可能性が、浮かび上がってきます。
この稿ではまさに、東郷平八郎の生涯を時間軸に沿って追ってみましょう。
戊辰戦争で海戦の世界にデビューする
東郷平八郎は弘化4(1848)年、鹿児島城下に生まれました。幕末の志士として有名な西郷隆盛や大久保利通より年下となります。若すぎた為に倒幕活動にはのめり込んでおりませんが、薩英戦争の時には弾薬の運搬役として、少年兵ながらも、イギリス海軍の砲撃の中を駆けまわっていたそうです。そして戊辰戦争の明治元(1868)年、いよいよ薩長の同盟軍が東上するにあたり、平八郎は薩摩藩が持つ軍艦「春日丸」の乗組員として参戦しました。
この「春日丸」は、薩摩藩がイギリスから買い取った汽船に、大砲を搭載して軍艦に改造したものでしたが、これでも当時の日本ではじゅうぶんに最新鋭の「洋式軍艦」でした。
若き平八郎はこの船に乗って、これまた当時の日本では最新鋭の軍艦を揃えていた、榎本武揚率いる旧幕府海軍と連戦を繰り広げます。
実は海軍が好きではなかった?西郷隆盛の声でイギリスへ
戊辰戦争は明治新政府側の勝利に終わります。洋式軍艦同士の海戦を経験した平八郎は、その得がたい経験をもって、そのまま新政府の海軍に進んでもよいところでした。ところが、「鉄道の仕事に就きたい」と言いだし、鉄道技術を勉強する為のイギリス留学を希望したのです。
どうやら平八郎自身、この時期は海軍にそれほど興味がなく、戦争が終わった以上は好きな鉄道の勉強をしたがっていたようでした。ところが、留学の希望を伝えるために先輩の西郷隆盛を訪問したところ、「お前は海軍のほうが向いている。イギリスに留学はさせてやるが、海軍の勉強をしてこい」と言われたそうです。
これは史料に残っているわけではなく、真偽は定かではないのですが、もしこれが本当なら西郷隆盛はよほど人の才能を見る目があったということになります。この一言で、日露戦争の大勝利を生み出す名海将が生まれたのですから。
西郷に言われた通り、平八郎は明治4(1871)年から同11年(1878)年までイギリスの商船学校に留学し、操船術の基礎からをしっかりと学ぶ日々を送ります。
「無口な司令官」というイメージが強い後年の姿からすると意外なことですが、実は相当な英語の達人だったようで、イギリスでの生活に不自由はなかった上、日記も流暢な英語で記していた程でした。平八郎の英語日記の原本は、現在でも東郷神社に保管されているそうです。
国際法に厳密な指揮官として名を馳せる
留学期間を終えて日本に帰った平八郎は、海軍の有望な人材として順調にキャリアを重ねます。そうして迎えた、明治27(1894)年の日清戦争で、彼は巡洋艦「浪速」の艦長として参戦します。戊辰戦争の際には一軍艦の乗組員にすぎなかった平八郎も、ついに軍艦長として実戦参加となったわけです。日清戦争の最中、東郷平八郎の名前を知らしめる事件が起こります。それが「高陞号(こうしょうごう)事件」です。
平八郎の指揮する巡洋艦が、イギリス船籍の商船「高陞号」に遭遇したことで、この事件は幕を開けます。この船は名目上はイギリス船でしたが、実際は大量の清国の陸戦隊を輸送しておりました。日本軍の立場としては、危険な敵国戦力を上陸させるわけにはいきませんでしたが、イギリスの船長船員たちが動かしている船です。攻撃するべきか航行を黙認すべきか、難しいケースでした。
ここで東郷平八郎は意を決し、攻撃命令を出して、この船を撃沈します。この事件は当然、イギリス側の猛批判を受けましたが、のちに検証してみると、東郷平八郎が現場でとった事前の警告から撃沈決断までの行動は、すべて国際法に厳密なものであったと判明します。
イギリスという友好国を怒らせてしまったこの事件については、海軍内でも賛否両論が起こりました。ただし、この事件の現場で、東郷平八郎は国際法の書籍を取り出し、何度も何度も確認をしながら指示出しをしていたと伝わると、少なくとも東郷平八郎の上司にあたる山本権兵衛からは、その判断を高く評価されることになります。
なお、この東郷平八郎の「国際法に厳密」な運用方針は、日露戦争時にもたびたび発揮され、同盟国の信頼を得ることにつながります。
日露戦争初戦の苦悩の日々
山本権兵衛に評価をされた東郷平八郎には、やがてさらに大きな役割が与えられます。明治37(1904)年からの日露戦争の連合艦隊司令長官です。大命を拝受した東郷平八郎の指揮のもと、連合艦隊は開戦にあわせて出動し、ロシア海軍が立て籠もる旅順港への奇襲を行いました。ところが、連合艦隊はこの旅順港攻撃で、大きな成果を上げることができません。旅順のロシア艦隊は、港の中に閉じこもって出て来ようとせず、たびたびの陽動作戦をかけても乗ってこない。ならばと、日本側が旅順港に船を接近させ港の口を封鎖しようとしても、陸上要塞からの攻撃で犠牲ばかりが出る。日本としては、初戦のうちに何としても旅順艦隊を壊滅させておかないと、陸軍への安全な海上補給路が確保できません。にも関わらず、旅順港攻撃が膠着状態になってしまったことは、陸軍の戦略にも支障をきたし始めてしまいました。
唯一の機会は、旅順艦隊がウラジオストクへの回航をもくろんで港湾から突如、出撃してきた日でした。ところがこの時、東郷平八郎は、旅順艦隊の目的がウラジオストクへの脱出ではなく、海上決戦を挑んできたものと見誤ってしまいます。激しい砲撃を浴びせはしたものの、旅順艦隊の進路をおさえる陣形をとらなかったため、せっかく要塞軍港から出てきた旅順艦隊に、また港内にみすみす逃げ込まれてしまうという結果になりました(ここでかなりの打撃を旅順艦隊に与えたので、戦果がなかったわけではないのですが、「旅順艦隊の壊滅」という究極ゴールにはまるで届かない戦果でした)。
この時、東郷平八郎が取り逃がした旅順艦隊を陸から攻撃するため、乃木将軍率いる有名な旅順要塞攻略戦が始まります。言ってみれば、連合艦隊が旅順艦隊を壊滅させることにもし成功していたら、陸軍が旅順要塞を占領する必要もなかったのです。もともと軍港の中に閉じこもって防御を貫く敵艦隊に対し、打ち手は限られているため、東郷平八郎をもってもどうにもならない点もあったのですが。
「もし、旅順艦隊が港から出てきたあの日に、うまく頭を押さえて壊滅させてさえいれば!」という痛恨の思いは、東郷平八郎の頭の中にずっと残っていたのではないでしょうか?
かつての失敗から教訓を得た?伝説的な「丁字戦法」
この旅順の戦いが、どうにか日本軍の勝利で終わった後。ヨーロッパ方面から巡航してきたバルチック艦隊を迎え撃ったのが、冒頭で描写した日本海海戦でした。東郷平八郎は敵前でのUターンを命じ、アルファベットの「T」の形で敵艦隊の頭をおさえにかかります。
これが後に「丁字戦法」と呼ばれるようになる陣形です。漢字の「丁」の、横棒が日本側、縦棒がバルチック艦隊です(もっともこの「丁」の字はあくまでわかりやすい喩えであり、実際の相互の陣形は最終的には並走のような形になったのですが)。
実際、東郷平八郎が「取舵いっぱい」ターンの指示を出した時、旗艦艦長が「え?本当に取舵ですか?」と驚いて聞き返したという逸話が伝わっています。味方にとっても、この指示は意外だったのです。
常識的に考えると、敵の艦隊が目の前に迫っているところで急激なターンをすると、当然、自軍が複雑な運動をして陣形を建て直す間は、敵側は一方的に大砲を使えることになります。ロシア側もそのことにはすぐに気づきました。艦隊のターンが終わるまで、日本の連合艦隊、特に先頭にいた旗艦は、一時的に大砲の集中攻撃を浴び、きわめて危険な状況になりました。
ですがこのリスクの高いターンをどうにかやり遂げた後、連合艦隊はまさにバルチック艦隊の進路を阻み、今度は敵艦をひとつずつ狙い撃ちにできるという、砲撃戦でもきわめて有利なポジションに変わります。結果は、バルチック艦隊のすべての戦艦・巡洋艦を、撃沈ないし拿捕。一隻たりとも逃がさずに仕留めたという、世界の海戦史上でも稀なほどの、文句なしの大勝利でした。
これほどの華やかな成功をした「トーゴーターン」と「丁字戦法」ですが、どこからこのような奇策が出てきたのでしょうか。思いつくのは、やはり、旅順での戦いではないでしょうか。ここで一度、東郷平八郎は、出撃してきた敵艦隊の企図を見抜けず、打撃を与えることには成功したものの、また逃げられる、という苦い目を見ています。
バルチック艦隊との戦いにおいては、単に打撃を与えるだけでなく、弱った敵を一隻たりとも逃がさない陣形を取りにいった、そのための大胆な「トーゴーターン」の指示だったのではないでしょうか。
ひらめきでも奇策でもなく、自身の過去の失敗を教訓にした陣形指示。もしかすると、彼の頭の中では日本海海戦の前夜まで、何度も何度も脳内シミュレーションが終わっていた陣形だったのかもしれません。
おわりに
日本海海戦での華やかな勝利で有名な東郷平八郎。彼の生涯を追い、「過去の自分の失敗からよく学ぶ」人物であったかもしれないという、「天才神話」とはまた別の東郷平八郎の一面を探ってみました。最後にもうひとつ、「そうは言っても、やはり東郷平八郎には何か特別なモノがついているのでは?」と思わざるをえない逸話を紹介しましょう。
バルチック艦隊が日本に接近した時、その進路が日本海側よりもむしろ太平洋側に向いている、という情報がありました。実はバルチック艦隊のロジェストウェンスキー提督が、日本側をかく乱するために、数隻のオトリの艦隊を四国方面に向かわせ、艦隊の本隊が日本海を通過するのか太平洋を通過するのかわからなくさせたのです。この時、連合艦隊側も、日本海で待ち伏せするのか、それとも太平洋側に艦隊を割くべきかでおおいに迷いました。しかし東郷平八郎は、「バルチック艦隊はぜったいに日本海に来る」と賭け、待ち伏せの指示を崩しませんでした。
戦後の検証をすると、ロシア側も、「もしかしたら太平洋側に逃げれば東郷平八郎のウラをかけるかもしれない」という意見が直前まで出ており、太平洋側を通る判断をする可能性もじゅうぶんに高かったことが判明します。「あくまで日本海で待ち伏せ」の指示は、東郷平八郎にとっても運試しの、ぎりぎりのギャンブルとなっていたわけです。
結果としては、この賭けに、東郷平八郎は見事に勝ちました。まこと、東郷平八郎という人には海将としての能力の他に、「強運」という見えない才能もついていたのでは、と思わざるをえない逸話です。
【主な参考文献】
- 『機密日露戦史』(谷寿夫、原書房、2004年)
- 『沈黙の提督』(星亮一、光人社、2001年)
- 『日露戦争と日本海大海戦』(歴史読本、新人物往来社、2005年)
- 『東郷平八郎』(下村寅太郎、講談社学術文庫、1981年)
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄