「旧満洲国探訪 奉天」日露戦争最大の激戦地となった満州最大の都市
- 2024/08/09
日露戦争で日本軍が最終攻略目標に定めた奉天
奉天(現在の瀋陽)は清王朝の発祥地。首都に準ずる「陪都」と定め、清国が北京とならんで重視した都市だった。また、満州に進出してきたロシアも、奉天に満州軍総司令部を設置して、この地を満州支配の要としている。日露戦争における日本軍の作戦計画は、この奉天を最終攻略目標に定めた。奉天を奪取すればロシアの満州経営は破綻し、停戦交渉のテーブルにつかざるを得なくなる。と、いうのが日本側の考える戦争の終わらせ方だった。
明治38年(1905)2月21日、日本軍は奉天近郊に到達し、市街地に向けて進撃を開始する。日本軍の総兵力は25万、守るロシア軍は32万。日露戦争最大にして最後の決戦が繰り広げられた。
日本軍は甚大な被害を出して苦戦ながらも、前進をつづける。旅順要塞を攻略した第3軍も3月6日に奉天に到着し攻撃に参加した。新手の敵勢が現れたことでロシア軍が浮き足立ち、第3軍の猛攻に怯んだ一部の部隊が壊走。前線の一翼が崩れる。
形勢不利を悟った敵将クロパトキンは、奉天の防衛を諦めて退却を命令。ロシア軍主力は戦力を温存したまま満州北部に後退した。
そして、3月15日には大山巌満州軍総司令官が奉天に入城。これによって、日本軍の戦略目標は達成される。
この後も、満州北部に居座るロシア軍との睨みあいがつづくのだが。人的被害が甚大で弾薬も尽きた日本軍はもう戦えない。
アメリカがここで仲介に乗りだし、ポーツマスで講和会議が開かれた。結果、日本は遼東半島南端の租借地、長春以南の東清鉄道利権、樺太の南半分などをロシアから割譲されることを条件に講和を受け入れる。
賠償金が取れず、日本国内では不満の声が上がっていた。が、これで大陸進出の大きな足掛かりを掴んだことは間違いない。日露戦争を境に満州の支配権は、ロシアから日本に移ってゆく。
日露戦争直後の奉天駅前は荒涼とした原野だった
明治40年(1907)に南満州鉄道が設立されると、沿線各駅の鉄道附属地では市街地開発がさかんになる。とくに南満州の要衝である奉天には、重点的に予算を注ぎ込んで大規模な開発工事をおこなうことになった。奉天駅は城壁に囲まれた旧市街地からは3kmほど離れている。ロシアは駅を設置しただけで、鉄道附属地の市街地開発をおこなわなかった。そのため、日露戦争終結直後の駅前はまだ、野原が広がる荒涼とした眺めが広がっていたという。
しかし、そんな郊外の寂しい風景は短期間のうちに大変貌を遂げる。
高規格の舗装道路が急いで整備された。駅前から浪速通、千代田通、平安通の3本の広い道路が放射状に伸びる。街路樹を植えた歩道も設置され、景観は見違えるように変わってきた。
また、浪速通を1kmほど進んだ鉄道附属地の中心付近には、大連にあるようなロータリーの大広場が造られた。そこからも市街地各所に通じる道路網が広がっている。
明治43年(1910)には東京駅をモデルにしたという赤煉瓦造りの駅舎が完成した。1920年代には駅から大広場に通じる浪速通は、繁華街としてにぎわうようになっている。また、大広場は朝鮮銀行などの金融機関や官公庁、奉天ヤマトホテルなどが建ちならぶ南満州の政治・経済の中枢に発展した。
南満州鉄道の調査によれば明治41年(1908)には鉄道附属地内の人口は日本人981人、中国人984人とかなり少ない。 それが大正3年(1914)になると日本人1万6777人、中国人1万2981人に急増。さらに満州事変後の昭和7年(1932)には日本人3万2379人、中国人2万225人に膨れあがった。
日本政府の移住奨励策もあり、事変後の1年間で1万人以上の日本人が奉天の鉄道附属地内に移住している。同年には浪速通に奉天初のデパート満蒙毛織百貨店が開店、満州では初となるエスカレーターが住民たちの間でも評判になったという。
鉄道附属地と旧市街の間には、清朝政府が設定した「商埠地」がある。清の統治下において外国人の自由貿易を保証する “経済特区” のようなもので、旧市街との緩衝地帯としても機能していた。また、日本領事館をはじめ、イギリスやフランスなど諸外国の領事館や外国資本の支店も商埠地に置かれた。
この商埠地もやがて日本資本によって土地を借上げられ、鉄道附属地と一体となった整備事業が進められるようになる。これによって奉天の日本人居住エリアは大きく広がり、移住者をさらに増やしてゆく。
浪速通は商埠地にも延長されて、奉天駅から大広場を通り旧市街までを一直線に結ぶメインストリートができあがる。奉天駅から旧市街地の中心にある大西門に至る路面電車も開通し、旧市街との行き来は容易になったのだが……治安の悪さや劣悪な衛生環境から、多くの日本人居留者は城内の旧市街に入るのを敬遠した。
親たちはこの常套句で子供を脅し、旧市街に行くことを禁じていたという。
関東軍と奉天軍閥の覇権争いの舞台
日露戦争開戦直前の奉天は30万人以上が住んでいたとされている。また、『満州国現勢』によれば昭和10年(1935)の奉天市人口は52万2882人。さらに3年後には80万人を突破して日本内地の大都市と肩を並べる存在となっている。その人口の大半が、城壁の内側にある旧市街に住む中国人だった。
城壁内の旧市街の中心部はさらに二重の城壁に囲われ、内部には清朝の離宮として築かれた盛京皇宮(現在は藩陽故宮と呼ばれる)がある。しかし、清は明治45年(1912)に滅亡しており、その後に旧市街の支配者となったのは軍閥の張作霖だった。
馬賊の頭目・張作霖は、日露戦争で日本軍に協力して一大勢力の軍閥に成長。奉天を本拠としたことから奉天軍閥と呼ばれ、満州に中華民国政府の支配が及ばない勢力圏を築いている。当初は満州駐留する日本陸軍の関東軍は、張と蜜月関係にあった。しかし、その存在がしだいに邪魔になってくる。
昭和3年(1928)6月4日に奉天近郊において、張を乗せた特別列車が橋脚に仕掛けられた爆弾により、張や奉天軍閥の幕僚たちが爆殺される事件が起きた。事件の犯人は明かされなかったが、関東軍の関与が疑われている。
張作霖が死亡した後、奉天軍閥は息子の張学良が継承した。彼もまた、1930年代に入ってその勢力基盤も安定してくると日本と敵対するようになる。関東軍も奉天軍閥の殲滅を画策した。
昭和6年(1931)9月18日に奉天郊外の柳条湖付近、南満州鉄道の線路上で爆発が起きる。関東軍はそれを張学良による破壊工作と断定して軍事行動を起こした。事件現場から近い奉天軍閥の北大営を襲撃して、その勢力を奉天から駆逐した。さらに長春や営口など各地に侵攻、満州全土を制圧してしまう。
これが満州事変である。11月になると天津から清の元・皇帝である溥儀を満洲に迎え入れ満州国が成立した。
奉天の地図を見てみると、盛京故宮の南側、南順城路に面した場所に奉天軍閥の総帥・張学良が住んでいた屋敷がある。また、関東軍が拠点とする兵営や練兵場は、鉄道附属地内の商埠地に隣接しており、張学良の屋敷との距離は3km程度とかなり近い。この距離で双方は長年の間、満州の覇権を賭けて睨みあってきた。
道路網が整備されて奉天市は一体化され、鉄道附属地と旧市街の行き来は容易になっていったのだが……物理的な距離は近くなっても、双方の不信感を払拭することはできなかったようだ。
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